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第3章 桜が散る時
第7話
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気付いたら、あのペンションにいた。呆然自失として移動したものか、あるいは、今にして思えば琴絵の力で瞬間移動させられたものか。一日か二日、意識を失っていたらしい。目が覚めると、幽体となった妻が微笑んでいた。一緒にいられるなら、幽霊でもいいと思った。
琴絵の死亡について、警部が知らせてくれたメールに対し、返事が遅くなったのは申し訳なかった。幽霊となった妻の指示で、持ち物をすべて置いて東京に戻った。五年後、再びあのペンションに行くまでの間、自分が死んでいたとは知らなかった。
瀕死の状態だったとはいえ、人を刺してしまったことには変わりがない。戸部に対する殺意も生まれた。こんな人間が、警察にとどまっていいはずがない。退職を願い出て、新婚生活の思い出が詰まったアパートを引き払った。
幽霊が見えるようになったことから、それを特色に掲げて探偵事務所を始めた。自分だって幽霊だったわけだが、説明のつかないことは全部、琴絵の不思議な力によるものだと思っている。毎日一緒にいられて、幸せだった。警察とは、協力し合いながらも疑いの目を向けられる関係にあったが、そのくらいでちょうどいいと考えていた。警部の監視は、疑いよりも心配の意味が強かったこともわかっている。
琴絵はどうかというと、夫を守りたい気持ちが強すぎた。それも含めていとおしかった。常軌を逸した生活、行動……そこに飛び込んできたのが、一咲だった。
一咲を殺してはいない。目が覚めたら死んでいた。同じことが、ほかの女たちにも起こった。琴絵がやったのだと思った――今では、自分と交わったから彼女たちは死んだのか……とも疑っている。琴絵はしばらく姿を見せず、いっそ雪女になっていてもいいから会いたいと、恋焦がれた……。
「……雪女が琴絵に変化して、俺を攻撃してきました。そのあと、あのペンションに移動させられて……部屋の中は、時間が止まっていたように何も変わっていなかった。あいつを殺した日に逃げ込んだ場所です……二度と、行くつもりはなかった。……琴絵は決心したんでしょうね。俺は自分が死んだ瞬間のことは今でも知りませんが、自分が死んだという事実は悟ったんです。彼女がかけていたフィルターみたいなものが外れたんでしょう。一気に力が抜けて……あいつに、命をやると言ったんです」
葉桜は、苦しげに息をついた。
東雲は言葉もなかった。琴絵の遺体には確かに首にも傷があったが、包丁は胸に刺さっていた。指紋や足跡は、琴絵と戸部のものしか、部屋には残っていなかった。葉桜は職業柄、無意識に死角を狙ったものか、防犯カメラにも映っておらず……乗車記録などを調べた結果、その時間にマンションにいることは不可能と判断された。
(瞬間移動、か……そういったことができるのなら、可能というわけか)
告白は続いた。大崎との出会い。彼が恵麻に恋をし、力になりたいばかりに提案した探偵助手。恵麻に憑いていた霊との戦い。昨夜の惨劇。夜が明けて、大崎の言葉とメモに背中を押され、あのマンションを訪れたこと。証拠はそろってきたが、幽霊の告発など誰が耳を貸すだろうかと、内心及び腰になっていたことに気付かされた。警部についていき、戸部を見て、一刻の猶予もないことを悟った――。
「猶予とは……どういうことかね」
「戸部は間もなく死にます。長くて一週間」
「何!?」
「あまり言いたいことではないんですが、琴絵は男の精を吸って命を縮めます」
「それは……」
生々しい話に、詳細を聞こうとしたことをちょっと悔やんだ。
「俺も随分やられましたが、手心は加えてもらっていました」
「しかし……君たちは。琴絵さんが、君の命を……魂と呼んだ方がいいのかもしれんが……わざわざ縮めるような真似を?」
葉桜は肩を竦めた。
「女の矛盾に異議は唱えないことにしているもので。少なくとも、面と向かっては」
「……君がもてる理由がわかる気がするよ。大崎君が慕ったわけもな」
「まあそういうわけで……このままでは、琴絵が戸部を殺してしまう。これ以上あいつが辛い思いをする必要はないんです。たとえ……」
「復讐を遂げるためだとしても、な」
「そうです。警察は何もしてくれない、というのが出会った頃の琴絵の口癖だった。そんな気持ちで終わらせたくはない……」
東雲も同じ気持ちだった。ペンションの前で琴絵に言われたことが、胸に突き刺さったままだ。
――だから警察は信用できないのよ!
「事情はわかった。戸部の捜査は私が責任をもって進める。君にサポートを頼みたい」
「ありがとうございます……」
出口を失っていた涙が、ひと粒零れた。
「水臭いぞ。私は君たちの仲人なんだからな。一番に頼ってくれなくては寂しいよ」
葉桜は、顔をくしゃっと歪めた。涙声で、全財産を東雲に委ねること、大崎の母親や殺された女性たちへの償いに充ててほしいこと、恵麻にも十分な手当をしてやってほしいことを頼み込んだ。
「わかったよ。君が望む通りにする。わかったとも」
五年分の涙が溢れ出した。東雲は席を立って葉桜のそばへ行き、肩を抱いたり、優しく膝を叩いたりして、息子同然の男の悲しみを分かち合った。時間はかかったが彼は徐々に泣き止み、「幽霊でもこれだけ泣けるんですね。構造がよくわからない……」と恥ずかしそうに言った。東雲は調子を合わせた。
「まったくだよ、君。ほら、普通に触れるじゃないか。わけがわからんよ」
「多分……俺が、警部にそうしてほしいと思ったからでしょうね」
ハンカチを貸すと、彼の涙で染みができた。今後はこのハンカチを見るたび、彼と語り合った時間を思い出すのだろう。東雲が、生きている限り。
琴絵の死亡について、警部が知らせてくれたメールに対し、返事が遅くなったのは申し訳なかった。幽霊となった妻の指示で、持ち物をすべて置いて東京に戻った。五年後、再びあのペンションに行くまでの間、自分が死んでいたとは知らなかった。
瀕死の状態だったとはいえ、人を刺してしまったことには変わりがない。戸部に対する殺意も生まれた。こんな人間が、警察にとどまっていいはずがない。退職を願い出て、新婚生活の思い出が詰まったアパートを引き払った。
幽霊が見えるようになったことから、それを特色に掲げて探偵事務所を始めた。自分だって幽霊だったわけだが、説明のつかないことは全部、琴絵の不思議な力によるものだと思っている。毎日一緒にいられて、幸せだった。警察とは、協力し合いながらも疑いの目を向けられる関係にあったが、そのくらいでちょうどいいと考えていた。警部の監視は、疑いよりも心配の意味が強かったこともわかっている。
琴絵はどうかというと、夫を守りたい気持ちが強すぎた。それも含めていとおしかった。常軌を逸した生活、行動……そこに飛び込んできたのが、一咲だった。
一咲を殺してはいない。目が覚めたら死んでいた。同じことが、ほかの女たちにも起こった。琴絵がやったのだと思った――今では、自分と交わったから彼女たちは死んだのか……とも疑っている。琴絵はしばらく姿を見せず、いっそ雪女になっていてもいいから会いたいと、恋焦がれた……。
「……雪女が琴絵に変化して、俺を攻撃してきました。そのあと、あのペンションに移動させられて……部屋の中は、時間が止まっていたように何も変わっていなかった。あいつを殺した日に逃げ込んだ場所です……二度と、行くつもりはなかった。……琴絵は決心したんでしょうね。俺は自分が死んだ瞬間のことは今でも知りませんが、自分が死んだという事実は悟ったんです。彼女がかけていたフィルターみたいなものが外れたんでしょう。一気に力が抜けて……あいつに、命をやると言ったんです」
葉桜は、苦しげに息をついた。
東雲は言葉もなかった。琴絵の遺体には確かに首にも傷があったが、包丁は胸に刺さっていた。指紋や足跡は、琴絵と戸部のものしか、部屋には残っていなかった。葉桜は職業柄、無意識に死角を狙ったものか、防犯カメラにも映っておらず……乗車記録などを調べた結果、その時間にマンションにいることは不可能と判断された。
(瞬間移動、か……そういったことができるのなら、可能というわけか)
告白は続いた。大崎との出会い。彼が恵麻に恋をし、力になりたいばかりに提案した探偵助手。恵麻に憑いていた霊との戦い。昨夜の惨劇。夜が明けて、大崎の言葉とメモに背中を押され、あのマンションを訪れたこと。証拠はそろってきたが、幽霊の告発など誰が耳を貸すだろうかと、内心及び腰になっていたことに気付かされた。警部についていき、戸部を見て、一刻の猶予もないことを悟った――。
「猶予とは……どういうことかね」
「戸部は間もなく死にます。長くて一週間」
「何!?」
「あまり言いたいことではないんですが、琴絵は男の精を吸って命を縮めます」
「それは……」
生々しい話に、詳細を聞こうとしたことをちょっと悔やんだ。
「俺も随分やられましたが、手心は加えてもらっていました」
「しかし……君たちは。琴絵さんが、君の命を……魂と呼んだ方がいいのかもしれんが……わざわざ縮めるような真似を?」
葉桜は肩を竦めた。
「女の矛盾に異議は唱えないことにしているもので。少なくとも、面と向かっては」
「……君がもてる理由がわかる気がするよ。大崎君が慕ったわけもな」
「まあそういうわけで……このままでは、琴絵が戸部を殺してしまう。これ以上あいつが辛い思いをする必要はないんです。たとえ……」
「復讐を遂げるためだとしても、な」
「そうです。警察は何もしてくれない、というのが出会った頃の琴絵の口癖だった。そんな気持ちで終わらせたくはない……」
東雲も同じ気持ちだった。ペンションの前で琴絵に言われたことが、胸に突き刺さったままだ。
――だから警察は信用できないのよ!
「事情はわかった。戸部の捜査は私が責任をもって進める。君にサポートを頼みたい」
「ありがとうございます……」
出口を失っていた涙が、ひと粒零れた。
「水臭いぞ。私は君たちの仲人なんだからな。一番に頼ってくれなくては寂しいよ」
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