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第3章 桜が散る時
第6話
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休暇の一日目だった。旅行は午後から。前夜、家に帰れなかったので、琴絵には駅で落ち合おうと連絡しておいた。その前に、行きたいところがあった。
琴絵の両親を殺害したグループのナンバーツーは、なかなか手がかりがつかめなかった。頭脳派と噂されていたから、その方面に偏りがちだったのを、金銭面に注目して洗い直した。グループを率いていた阿坂弦太は、短絡的で凶暴。実質的なリーダーの役目は、ナンバーツーが担っていたに違いない。ならば会計関係にも明るい人物。それで、戸部が浮かび上がってきた。
問題の男は、ただ一度犯した殺人を機にグループを離れた。その時期に絞って探すと、戸部が今のマンションに居を構えたのがちょうど同じ頃だった。当時二十歳の若者。八階を占有している。運や能力に恵まれて億万長者になったのだとしても、それなら別の物件を選びそうなものだ。もっと新しい、もっと便利な物件を。なのにたかだか二十歳で、隠遁生活のような場所を選んだ変わり者。そこから斬り込んでいった。
戸部は、怪しげな資格を名乗って会計の仕事を請け負うことがある。刑事の職権で資料を見ると、退屈しのぎのようにポツポツと引き受けてきた仕事の中に、致命的な証拠を残していた。計算手順の癖と、それを書き残したメモだ。グループのアジトのひとつから押収した文書に、同じ癖、似た筆跡のメモがあったのを思い出した。筆跡鑑定の手配をする前に、別の事件の応援に駆り出された――休暇の前日だった。解放された時は、日付を越えていた。
休暇返上で引き続き調べたいところだが、妻との約束をないがしろにするのも気が咎めた。本人に当たるだけでも当たってみるかと、戸部のマンションへ向かった。やけに深刻な空気を漂わせてエントランスへ入る女がいるなと思ったら、琴絵だった。
(なぜここに……?)
足跡をさせないように追うと、彼女は難なく中へ入っていった。住人の一人であるかのように。そのくせ、人目を避けるように急ぐ様子にただならぬものを感じ、閉まるドアの隙間から滑り込んだ。彼女が住人専用のエレベーターで上がっていったこと、それが八階で止まったことに胸が騒いだ。来客用のエレベーターは、止まっているんじゃないかと錯覚するような鈍さで上昇した。
八階へ着き、エレベーターの中から様子を窺うと、彼女はある部屋の前でためらっていた。
(八〇三か……冗談だろ)
このフロアに用があるのは、すなわち、戸部に用があるということだ。手にしているのは……鍵。ドアを切なげに見つめる姿に『女』を感じた。そこから数分の出来事は、悪夢としか言いようがない。
琴絵がドアを開けた。スッと中へ入ったのを追って、ドアに足を挟んだ。何かを一心に思い詰めている彼女は、気付かず奥へと進み、ある部屋へと入っていった。水を流す音がした。キッチンか。一人暮らしの男の家で好きに歩き回るなど、可能性はひとつしか考えられない。音を立てないようにしてドアを閉めた。キッチンを覗くと、琴絵はコップに水を汲み、ひと口飲んだところだった。蛇口を閉め、胸を押さえている。
(俺の目を盗んでたどり着いたことにホッとしているのか)
カッとなり、後ろから近付いて声をかけた。
「ここで何をしているんだ?」
振り向いた妻の目には、驚愕と恐怖の色があった。
「康平っ……どうして!?」
「こっちが聞いてるんだ。言えないのか」
自分とは思えないほど冷たい声が出た。夫の怒りを感じ取った彼女は、慌てた。取り縋って説明をしようとした。
「違うのっ……私が今日ここへ来たのはっ」
「何が違うんだ! 鍵を持ってるじゃないかっ」
「お願い、話を聞いて! あの人はっ」
「あの人だと? そんな風に呼ぶ仲なのか」
「康平!」
「うるさい!」
彼女を突き飛ばした。ガタが来ていたのか、システムキッチンは、女一人ぶつかったにしては大きな音を立てた。反動でよろけた琴絵は傍らの飾り棚に寄りかかった――棚がかしいだ――しゃらりと変な音がした――刃物が何かに擦れる音――血しぶき。棚の上部に不用意に置いてあったものか、包丁が落ちてきて――琴絵の首を切り裂いたのだ。
「こう、へい……」
妻はどくどくと血を流し、くたりと床に崩れ落ちた。
「やっぱ、り……わたしの、こと……」
「琴絵、しっかりしろっ」
救急車を呼ぼうと、震える手でスマートフォンを出そうとしたが、「だめ」と止められた。
「何言ってんだ、待ってろっ」
「だめっ」
泣きじゃくるように言われ、混乱した。
「あなた、が……犯人、に、なっちゃうから……わたしの、胸、刺して……逃げて」
意味が通らない言葉。極限状態の聞き間違いかと耳を疑ったが、琴絵は「はやく、とどめを……あなたの、手で」と懇願した。耳を貸してはいけない、早く病院へ――と、考えたのに。床に広がっていく血だまりに、独占欲が燃え上がった。
コトエ ノ チガナガレテイル ホカノオトコノセイデ
視界の隅に見えたのは、普段使いをしているらしい包丁。
(飾り棚の上なんかに、誰が包丁を置くものか。これは罠だ!)
誰を狙ったにせよ、許せなかった。
――あなた以外の手にかかって、死にたくない。
呼吸困難に陥った琴絵の声が、頭の中に響いた。非常識極まりないが、二人の望みは一致していた。葉桜琴絵は葉桜康平が刺し殺す。だがその罪は、戸部伸司が負わなければならない。浮気はしていたかもしれないが、琴絵が愛しているのは夫のみ。ならばこの手にかけることで彼女を永遠に手に入れよう――。
血まみれの包丁をつかみ、何よりも大切にしてきた体に突き立てた。
琴絵の両親を殺害したグループのナンバーツーは、なかなか手がかりがつかめなかった。頭脳派と噂されていたから、その方面に偏りがちだったのを、金銭面に注目して洗い直した。グループを率いていた阿坂弦太は、短絡的で凶暴。実質的なリーダーの役目は、ナンバーツーが担っていたに違いない。ならば会計関係にも明るい人物。それで、戸部が浮かび上がってきた。
問題の男は、ただ一度犯した殺人を機にグループを離れた。その時期に絞って探すと、戸部が今のマンションに居を構えたのがちょうど同じ頃だった。当時二十歳の若者。八階を占有している。運や能力に恵まれて億万長者になったのだとしても、それなら別の物件を選びそうなものだ。もっと新しい、もっと便利な物件を。なのにたかだか二十歳で、隠遁生活のような場所を選んだ変わり者。そこから斬り込んでいった。
戸部は、怪しげな資格を名乗って会計の仕事を請け負うことがある。刑事の職権で資料を見ると、退屈しのぎのようにポツポツと引き受けてきた仕事の中に、致命的な証拠を残していた。計算手順の癖と、それを書き残したメモだ。グループのアジトのひとつから押収した文書に、同じ癖、似た筆跡のメモがあったのを思い出した。筆跡鑑定の手配をする前に、別の事件の応援に駆り出された――休暇の前日だった。解放された時は、日付を越えていた。
休暇返上で引き続き調べたいところだが、妻との約束をないがしろにするのも気が咎めた。本人に当たるだけでも当たってみるかと、戸部のマンションへ向かった。やけに深刻な空気を漂わせてエントランスへ入る女がいるなと思ったら、琴絵だった。
(なぜここに……?)
足跡をさせないように追うと、彼女は難なく中へ入っていった。住人の一人であるかのように。そのくせ、人目を避けるように急ぐ様子にただならぬものを感じ、閉まるドアの隙間から滑り込んだ。彼女が住人専用のエレベーターで上がっていったこと、それが八階で止まったことに胸が騒いだ。来客用のエレベーターは、止まっているんじゃないかと錯覚するような鈍さで上昇した。
八階へ着き、エレベーターの中から様子を窺うと、彼女はある部屋の前でためらっていた。
(八〇三か……冗談だろ)
このフロアに用があるのは、すなわち、戸部に用があるということだ。手にしているのは……鍵。ドアを切なげに見つめる姿に『女』を感じた。そこから数分の出来事は、悪夢としか言いようがない。
琴絵がドアを開けた。スッと中へ入ったのを追って、ドアに足を挟んだ。何かを一心に思い詰めている彼女は、気付かず奥へと進み、ある部屋へと入っていった。水を流す音がした。キッチンか。一人暮らしの男の家で好きに歩き回るなど、可能性はひとつしか考えられない。音を立てないようにしてドアを閉めた。キッチンを覗くと、琴絵はコップに水を汲み、ひと口飲んだところだった。蛇口を閉め、胸を押さえている。
(俺の目を盗んでたどり着いたことにホッとしているのか)
カッとなり、後ろから近付いて声をかけた。
「ここで何をしているんだ?」
振り向いた妻の目には、驚愕と恐怖の色があった。
「康平っ……どうして!?」
「こっちが聞いてるんだ。言えないのか」
自分とは思えないほど冷たい声が出た。夫の怒りを感じ取った彼女は、慌てた。取り縋って説明をしようとした。
「違うのっ……私が今日ここへ来たのはっ」
「何が違うんだ! 鍵を持ってるじゃないかっ」
「お願い、話を聞いて! あの人はっ」
「あの人だと? そんな風に呼ぶ仲なのか」
「康平!」
「うるさい!」
彼女を突き飛ばした。ガタが来ていたのか、システムキッチンは、女一人ぶつかったにしては大きな音を立てた。反動でよろけた琴絵は傍らの飾り棚に寄りかかった――棚がかしいだ――しゃらりと変な音がした――刃物が何かに擦れる音――血しぶき。棚の上部に不用意に置いてあったものか、包丁が落ちてきて――琴絵の首を切り裂いたのだ。
「こう、へい……」
妻はどくどくと血を流し、くたりと床に崩れ落ちた。
「やっぱ、り……わたしの、こと……」
「琴絵、しっかりしろっ」
救急車を呼ぼうと、震える手でスマートフォンを出そうとしたが、「だめ」と止められた。
「何言ってんだ、待ってろっ」
「だめっ」
泣きじゃくるように言われ、混乱した。
「あなた、が……犯人、に、なっちゃうから……わたしの、胸、刺して……逃げて」
意味が通らない言葉。極限状態の聞き間違いかと耳を疑ったが、琴絵は「はやく、とどめを……あなたの、手で」と懇願した。耳を貸してはいけない、早く病院へ――と、考えたのに。床に広がっていく血だまりに、独占欲が燃え上がった。
コトエ ノ チガナガレテイル ホカノオトコノセイデ
視界の隅に見えたのは、普段使いをしているらしい包丁。
(飾り棚の上なんかに、誰が包丁を置くものか。これは罠だ!)
誰を狙ったにせよ、許せなかった。
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