パティシエはまだ甘い恋を知らない

藤間留彦

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4話 運命の道

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「午後から父の仕事の手伝いをすることになっていて、家を空けるのですが、クロードさんはどうしますか?」
 アトリエからリビングに戻り、三人くらい座れる大きなソファを広々と使い、シャルルが出したチョコレートを食べていた。有名なショコラティエの逸品だという。確かにカカオの深い味わいがあり、甘さもちょうどいい。ついシャルルから店の場所を聞いてしまう。ティラミスに合う甘さ控えめのチョコレートを探していたところだった。
「じゃあ、一緒に出る。でかい荷物を運ぶのを手伝ってもらわねえとな」
 あの絵を手に持って歩いて帰るのは、結構堪える。シャルルは「勿論」と言いながら可笑しそうに息を漏らした。
 シャルルが出る時間までだらだらと過ごして、絵を布に包んで車に載せた。車に乗り込むと、彼が車をのろのろと発進させる。
「そういえば、父親の手伝いって?」
「広告のデザインです。来月開催される家具の展覧会の」
 全くの無職という訳でもないらしい。広告のデザインというのが、いくらもらえるものなのか知らないが、展覧会の広告だとしたらそれなりの値が出そうだ。
「働いてないわけでもないわけだ」
「手伝いですよ。そんな立派なものでは。お金ももらっていませんし。それぐらいで画材代と生活費の代わりにはなりませんから」
 確かに親の仕事を手助けしているという感覚なのだろう。しかし仕事は仕事だ。
「デザイナーになるつもりは?」
「ありません。画家として生きたいので」
 ぱっと見で意味がわからない絵を描いて生きていくのは大変そうだ。もし評価されるようになったとしても、人に理解してもらう前に本人はもういないなんてオチが待っているかもしれない。
 自分の意志を通す人間は生きにくい。だが、そういう人間の方が、俺は好きだ。
 アパートの前で降ろしてもらい、絵を抱えて部屋に戻った。部屋まで運んでくれると言ったが、そこまで面倒見てもらうほどか弱くはない。
 絵を包んでいた布を外し、ただ真っ白だった壁に掛けた。その絵の下をふと見ると、電話の留守電を知らせるランプが点滅していた。聞いてみると一つは壁紙のセールス、一つは野郎からの誘いの電話、一つは店からの電話だった。
 内容は予想外にも『戻ってこい』。必要とされていないわけでもなかったらしい。確かに何度遅刻してもすっぽかしても、クビとは言われなかった。不審に思っていたが、一応腕を買ってくれていたのだ。
 俺は電話を掛けた。電話に出た料理長はいつものように怒った口調で、しかし『君が抜けると困るんだ。君ぐらいのパティシエを得るには時間も労力も必要だから』とそれとなく褒めてくれる。俺は『林檎のタルトを出してもいいなら』と返事をした。出したいなら作ってみせろときたものだから、俺は電話を切った。
 ベッドに突っ伏して目を閉じる。寝れるはずなどなく、俺は制服を引っ掴んで家を出た。足は真っ直ぐに店へ。あんな偉そうに言ったあいつの鼻をへし折ってやりたい。絶対に認めさせてやる、と思った。

 キュイジニエ数人の見る中、本日二度目のタルトを作った。材料も器材も違うが。
 完成した林檎のタルトを食べた料理長は、素朴な味だが味はいい、と言ってコースの変更を許可した。ようやく俺は自分の両手両足で、生きていけるようになった気がした。
 そのまま試験的に三十人の客に出してみたが、評価は上々。明日から早速コースに反映していいという話になる。結局、俺は元の鞘に収まってしまったわけだが、特に不満も無いから良かったのだろう。
 家に帰り着いたのは八時過ぎ。そんなに長居するつもりはなかったのに。タルトをあんなに作ることになるとは思ってもみなかった。
 アパートに帰り牛乳を一杯飲み干し一息つく。ベッドに座りぼんやりと壁の絵を見る。
 深緑の世界の真ん中にぼんやりと光る俺が立っている。足元から真っ直ぐに画面に迫るように道が続いている。
 ――『運命の道』。
 俺は目を見開き、絵に近付いた。白い道を指でなぞる。まさか。
 一歩一歩後ずさる。そしてちょうどあの時の距離になる。
 この白い道はシャルルの道なんだ。あの絵を描いている時、彼には自分の運命の道が見えたんだ。俺の足元に真っ直ぐに伸びる、それを。
 シャルルは、俺を運命と想ってくれている。運命の人と想ってくれている。瞬間心臓が、跳ねた。
 気付いた時には、部屋を飛び出していた。真っ直ぐに彼の家に向かって走っていた。どうしようもなく、シャルルの顔が見たくなった。会いたくなった。こんな気持ちになるのは、初めてだった。
 画廊の前に付いていた小さな呼び鈴を鳴らす。三階の部屋にいて音に気付くのだろうかと思ったが、しばらくして玄関の電気が灯る。
「クロードさん、どうしたんですか?」
 きょとんと目を丸くしたシャルルの阿呆面が、堪らなく愛おしく、衝動を止められずに飛び付いてしまった。
「なあ、俺のこと好きか?」
 シャルルは優しく俺の背を抱きしめる。
「はい、好きです」
 何の迷いもなく答えた。俺は体を離し、シャルルの緑の眼を見詰めた。
「俺の眼見てもっかい言え!」
「好きです。クロードさんのことが、誰よりも」
 柔らかな微笑を浮かべ、少し顔を赤らめて、そう言った。そんな顔をされたら、勢い余ってキスしてしまいそうだった。しかし彼はすぐに体を離してしまい、そんな隙さえ与えてくれなかった。
「父からワインを貰いました。一緒に空けましょう」
 無邪気に俺の手を引いて三階に連れていく。俺は小さく頷いて、ただ彼についていくことしか出来なかった。
 赤ワインを二人で空けた。シャルルは今日の広告の仕事について話し、俺は店を続けることになった経緯について話した。
 『運命の道』については、酔った勢いで聞きたくなかったので、何も話さなかった。
 ソファで二人肩を並べている。俺はシャルルの肩に重い頭をもたれかけていた。
「……なあ」
「何です?」
 シャルルの方に体を向け、彼の胸をシャツの上から指でなぞった。
「セックスしよう」
「クロードさん、酔ってるでしょう。顔真っ赤ですよ」
「……お前、ひでえ奴だな」
 押してみれば肩透かしを喰らう。引いてみたら、恐らくこいつはそのまま放っておくのだろう。
 「好き」と言われたのに、また自分だけ一方通行の気分にさせられる。好きなら、どうして俺に触れないんだ。お前の「好き」は、恋愛感情の「好き」じゃないのか。
「俺のこと好きなら、そういう態度取れよ! 虚しいじゃねえか、俺が」
「ええと……じゃあ」
 シャルルはごろんと横になって俺の膝の上に頭を乗っけた。ひざ枕って……お前、ガキか!
 しかし何だか嬉しそうに笑っているので、何も言えなかった。
「クロードさん」
 シャルルは俺の顔に手を伸ばし、前髪を持ち上げる。
「綺麗」
 彼の甘く優しい微笑みに、全部を奪われてしまった。
 醜い感情も苦い思い出も、俺の根っこに居座り続けるコンプレックスさえも、それに繋がる思考回路をぶった切って丸ごと奪ってしまった。そしてその代わりに愛とか恋とかいう感情を繋いでいった。
 もう駄目だ。俺はこの男が好きで好きで仕方ない。子供のように笑う、無垢で無邪気で真っ直ぐな、このシャルルという男が。
 俺はそのまま身体を曲げて、彼の唇に唇を重ねた。軽く触れるだけのキスは、初恋の味がした。
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