4 / 8
4
しおりを挟む「新しい愛人も、新しい婚外子も、いない」
ロバートの口から搾り出された返事は苦々しい。信じられるか否かは別として。アメリアはロバートの横顔を注視した。
実父は母から愛人について言及されると怒鳴り散らかしていた。父は母に対して何をしても許されると信じて疑わず、母に対して申し訳無さなど微塵も見せず、謝罪も一切口にしていなかった。もちろん、アメリアがいない場所では違った可能性もあるが、アメリアの中にある夫婦像はそのようなものだ。対してロバートが声を荒らげる姿というものは見たことがない。
───この人は、父とは違う。
当たり前のことを改めて認識すると、アメリアの肩の力が自然と抜けていく。敵か味方かで分けるなら、夫は敵だと思っていた。その気持ちが揺らぐ。揺らいで、でも味方だとも思えなくて。アメリアは小さな溜め息をついた。
「そう、ですか…。分かりました」
この人を信じても良いのだろうか、信じたいと、少しだけ思う。
「かーさま、だいじょぶよ」
ロバートに抱えられたままのクラッドが目を擦りながら呟いた。その目は薄っすらと赤い光を帯びている。その光を見ていると泣きたくなるから不思議だ。
「クラッド…」
「ぼくがいるから、かーさまはだいじょぶ」
「あら、頼もしい。そうね、家族三人でならお出かけしてもいいわ」
「そうか。じゃあ結婚記念日に晴れたらピクニックに行こう」
「ほんと!?やったー!!」
眠かったはずのクラッドは大きく目を見開いて驚き、喜ぶ。
実に平和で平穏な日常。
身構えても何も起こらない日々が年単位で続いたからアメリアは油断した。油断してしまった。
キャアアア、と。耳をつんざくような悲鳴をアメリアが聞いたのはロバートが仕事に行くのを玄関で見送った直後のこと。何があったのかと使用人達と共に声のあった方へ駆け出す。
既に何人かが集まり「血が止まらない」「医者を」「気をしっかり」などと叫んでいる。中庭の花壇の前、クラッドが背中から血を流して倒れている。その手には花が握られていた。アメリアは何が起こっているのか分からず、呆然と立ち尽くす。視線を移せば金髪の、まるで亡霊のような女が庭師や侍従に取り押さえられている。女は抵抗する意欲などないらしい。血に濡れた手を震わせ、焦点の合わない目で歪に笑っている。
「奥様、この女が坊っちゃんをやったんだ!」
庭師のご老人が忌々しいと憎しみを籠めて告げるが、我が家の別邸の主と化している愛人様は気にとめず、ただ笑っている。
クラッドから失われていく体液を前に、アメリアは頭を抱えた。私がしっかりしなくては、私があの子を助けなくては、そう思うのに視界が霞む。
「アメリア」
仕事に出掛けたはずの夫に呼ばれた気がした。
□ □ □ □ □
「あの悪魔がロバート様を変えてしまった。私はロバート様を守っただけ。どうして分かってくださらないの?まだ悪魔に洗脳されているのね。貴方達も被害者なのでしょう!なんてこと!もっと早くにこうしておけば───」
犯人の女は妄言を繰り返す。
「次はあの女を───」
かつて情をかけた女が、長男のクラッドを刺し、次は妻であるアメリアの命を狙っている。ロバートはそこまで聞けば充分で、最早用はないと、尋問室の盗み聞きをする為に存在する隣の小部屋を後にした。
「伯爵様、ご子息は一命を取り留めたそうです」
騎士からの囁きに頷く。
「処分は待て。被害者であるクラッドの意見を聞いてからにする」
「承知しました」
これが自分の愚かさが招いたことだと、ロバートは知っている。妻にも息子にも、どう謝罪しても許されることではない。
ロバートには、知っているのに知らないふりをしてきたことが多々ある。
例えば愛人の産んだ娘が自分の子でないこととか。
子供の頃に罹患した熱病の後遺症で、自分は子供を望めない身体だとか。
息子のクラッドの目が時折赤く光ることとか。
妻のアメリアがロバートに向けていた警戒心がようやく解れ始めていることとか。
どうしてクラッドがロバートに瓜ふたつなのか、それだけはよく分からない。時々目が赤く光るだけで、それ以外はどこからどう見ても人間の子供だし、ロバートに瓜ふたつなのに、笑うと目尻がアメリアそっくりになるのだ。可愛くないわけがない。諦めていた我が子が存在する、まさに奇跡だ。これでアメリアに少しでも不貞の気配があれば、ロバートに良く似た遠縁の男が父親だと決めつけていただろう。護衛から聞いても、執事から聞いても、侍女から聞いても、アメリアはむしろ引き篭もりがちであり、他人との交流をろくに持っていない。一度だけ彼女を社交に誘ったことがある。彼女の抑圧された心や閉鎖的な人間関係を心配してのことだったが、本人に鼻で笑われてしまったのは予想外だった。
ロバートが一目惚れをし、権力と財力を駆使して無理やり手に入れた最愛の人。それがアメリアだ。アメリアには当時順調に進んでいた縁談があったし、彼女に恨まれて当然だと思い、無理に愛さなくていい、自分は彼女から愛されないはずだとロバートは彼女を気遣ったつもりだった。例え彼女が愛人を作っても、自分の手元にさえいてくれれば構わないというアピールのつもりで愛人を別邸に住まわせていたし、子供ができなくても気負わなくて良いように、愛人の子供も別邸に住まわせ、養子の候補も見繕っていた。
そんな、ロバートなりにアメリアを気遣っての行動が全て誤りだったと今更気付いた己の愚かさが憎くて堪らない。愛息子が傷ついてから知るなど、阿呆の極みだ。
87
あなたにおすすめの小説
婚約者様への逆襲です。
有栖川灯里
恋愛
王太子との婚約を、一方的な断罪と共に破棄された令嬢・アンネリーゼ=フォン=アイゼナッハ。
理由は“聖女を妬んだ悪役”という、ありふれた台本。
だが彼女は涙ひとつ見せずに微笑み、ただ静かに言い残した。
――「さようなら、婚約者様。二度と戻りませんわ」
すべてを捨て、王宮を去った“悪役令嬢”が辿り着いたのは、沈黙と再生の修道院。
そこで出会ったのは、聖女の奇跡に疑問を抱く神官、情報を操る傭兵、そしてかつて見逃された“真実”。
これは、少女が嘘を暴き、誇りを取り戻し、自らの手で未来を選び取る物語。
断罪は終わりではなく、始まりだった。
“信仰”に支配された王国を、静かに揺るがす――悪役令嬢の逆襲。
悪役令嬢の慟哭
浜柔
ファンタジー
前世の記憶を取り戻した侯爵令嬢エカテリーナ・ハイデルフトは自分の住む世界が乙女ゲームそっくりの世界であり、自らはそのゲームで悪役の位置づけになっている事に気付くが、時既に遅く、死の運命には逆らえなかった。
だが、死して尚彷徨うエカテリーナの復讐はこれから始まる。
※ここまでのあらすじは序章の内容に当たります。
※乙女ゲームのバッドエンド後の話になりますので、ゲーム内容については殆ど作中に出てきません。
「悪役令嬢の追憶」及び「悪役令嬢の徘徊」を若干の手直しをして統合しています。
「追憶」「徘徊」「慟哭」はそれぞれ雰囲気が異なります。
透明な貴方
ねこまんまときみどりのことり
ファンタジー
政略結婚の両親は、私が生まれてから離縁した。
私の名は、マーシャ・フャルム・ククルス。
ククルス公爵家の一人娘。
父ククルス公爵は仕事人間で、殆ど家には帰って来ない。母は既に年下の伯爵と再婚し、伯爵夫人として暮らしているらしい。
複雑な環境で育つマーシャの家庭には、秘密があった。
(カクヨムさん、小説家になろうさんにも載せています)
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定
良くある事でしょう。
r_1373
恋愛
テンプレートの様に良くある悪役令嬢に生まれ変っていた。
若い頃に死んだ記憶があれば早々に次の道を探したのか流行りのざまぁをしたのかもしれない。
けれど酸いも甘いも苦いも経験して産まれ変わっていた私に出来る事は・・。
それは報われない恋のはずだった
ララ
恋愛
異母妹に全てを奪われた。‥‥ついには命までもーー。どうせ死ぬのなら最期くらい好きにしたっていいでしょう?
私には大好きな人がいる。幼いころの初恋。決して叶うことのない無謀な恋。
それはわかっていたから恐れ多くもこの気持ちを誰にも話すことはなかった。けれど‥‥死ぬと分かった今ならばもう何も怖いものなんてないわ。
忘れてくれたってかまわない。身勝手でしょう。でも許してね。これが最初で最後だから。あなたにこれ以上迷惑をかけることはないわ。
「幼き頃からあなたのことが好きでした。私の初恋です。本当に‥‥本当に大好きでした。ありがとう。そして‥‥さよなら。」
主人公 カミラ・フォーテール
異母妹 リリア・フォーテール
どうぞお好きに
音無砂月
ファンタジー
公爵家に生まれたスカーレット・ミレイユ。
王命で第二王子であるセルフと婚約することになったけれど彼が商家の娘であるシャーベットを囲っているのはとても有名な話だった。そのせいか、なかなか婚約話が進まず、あまり野心のない公爵家にまで縁談話が来てしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる