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第二章 華燭
36 凛麗——高嶺の花
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あの女が、蒼龍様の嫡子を生むですって?
後宮での授業を終え、皇城近くの館に戻った凛麗は、上衣を脱ぐなり御付きの下女に投げつけた。
「ひっ」
「さっさとおさがり、このノロマッ」
下女が慌てて廊下を去ると、凛麗はぎりりと奥歯を噛みしめた。
絢爛豪華な彼女の房には、香炉から伽羅の静謐な芳香が漂い、彼女の激情をかろうじて抑えていた。
(ええい、忌々しい)
三年前のあの日から、胸の奥の棘はずくずくと疼き続けている。
それというのも蒼様が私の許しも得ないままに、小蘭などという馬の骨をお側に上げたから。
あの御前試合は、丞相であるお父様とともに特別席で観ていたが……。覇帝様のお言葉によると、蒼様は小蘭に誘惑されたというではないか。
まさか皇太子が、そんな女のために命がけの死闘を演じるだなんて。
その上、皆の前で蒼様に抱き上げられた時の、あの得意げな顔といったら!
思い出すだけで、内臓が煮えるようだ。
無論その後、お父様を通じて皇室には抗議した。
正妃を差し置いて側妃など、あってはならないと。側妃など、借り腹にすぎないというのに。
『彼女を娶るのであれば私との婚儀を進めるように』と、父からは注進してもらった。なのにこの三年間、その話は一向に進まぬまま。
皇后様も、『こればかりは蒼龍次第』などと言ってはぐらかす。
そうこうするうちに、私ももう二十二の年。
あの田舎娘ども同様、頭の弱い宮女達から「行き遅れ」などと陰口を言われているのも知っている。
もっとも、そのうちの何人かは、見せしめに打擲の刑に処してやったから、表立ってはなくなったけれど。
蒼様が、あの女の部屋に入り浸っているですって?
おお嫌だ、自分の室に殿方を連れ込むだなんて、どんな神経をしているのだろう。
このままでは、文明もない辺境の国の女が、蒼様を汚してしまう。あの女、いっそあの時蠆盆に堕ち、蛇蠍に食われてしまえばよかったものを!
蒼龍様は……いつもそう。
阿児のように我儘で、やたらと伝統に逆おうとなさる。
幼い日の蒼龍様は、聡明で繊細で、そして誰より美しかったのに。
初めて彼に出会ったのは、私達がまだずっと幼い頃――。
乳母と教育係のじいやに連れられた蒼様は、私を見てにっこりと笑った。
「君、凛麗っていうの? よろしく、僕は蒼龍だ」
差し出された小さな手を握った瞬間、私は、この方の隣に立つ未来を見た。
すると、隣にいた父上がかがみこんで、私の耳にそっとささやいた。
「凛麗や、お前は大きくなったら、あのお方の花嫁になるんだよ?」
涙が出るほど嬉しかった。
けれど――。
当時は私も幼かった。
蒼様が、私の隣にいた侍女の娘に笑いかけた日、胸がじりじりと焼けるように痛んだ。
幼い私は後日、〝理由もわからぬまま〟下男に籠いっぱい集めさせた毒毛虫を、頭から浴びせてやったっけ。
泣きじゃくる娘を見て蒼龍様が私に向けた、あの悲しげな目——。
あの視線だけは、今も胸の奥で刺さったまま。
無論、今はもう、そんな子供じみたマネはしない。
分別をわきまえ、正妃として蒼様をお支えする自信がある。どれだけ派手に酒楼花街で遊ぼうと、どれだけ多くの側女を娶ろうと、あの小蘭の存在でさえ、私は赦して差し上げる。
黎妃だの小蘭だのと言ったって所詮は側妃、正妃は私ただひとりだもの。
そもそも、蒼様が変わってしまわれたのは、黎貴妃様のことがきっかけだった。
天使のように清らかな妃だと聞くが、所詮はあれも辺境の女。あの女さえいなければ、蒼様は権威に逆らってばかりの愚か者に変わったりしなかった。
私との婚姻話が進まないのも、きっと私が皇帝の定めた相手だからだ。
でも、私は知っている。
本当の蒼様はすごい野心家、父親を超える大きな国を作り、父親を超えた治世を行うのがあの方の大望。
旺盛な意欲で周りを巻き込み、己の信条を頑固に曲げない唯我独尊。
どんなに嫌っていても、蒼様は御父上とよく似ていらっしゃるの。
だからこそ、蒼様の野望には私が必要なのだ。
父上の権勢、曹家の血統、そして正妃としての美貌と才。
どれだけ側女を抱こうと、宮廷の秩序を担うのは正妃である私だけ。
それなのに……。
小蘭が嫡子を生む? 笑わせる。
もしそんなことが起これば、皇統そのものがゆらぐ。
蒼龍様の“気まぐれ”を正すのは、正妃となるこの私の役目だわ。
ぐっと握りしめた掌に爪が食い込み、赤い点が滲んだ。
小蘭、分からせてあげる。
あなたはただの遊び女に過ぎない。
軽い扱いだからこそ、寝取られ、見世物にされた挙句、仕方なく貰われたのだということを。
凛麗は、再び奥歯を噛みしめた。
いつしか口の端から、一条の血が滴っている。
小蘭、あなたが産む子など、二番目、三番目でも構わない。城の兵士にでもするといい。でも、嫡子だけはだめ。
それは、絶対に正妃でなくてはならないの。
蒼龍様、わがままを赦すのもここまでよ。
貴方の隣に座るのは、私。
貴方の血統を守るのも、私。
小蘭妃。
おまえは、ここで終わりよ――。
後宮での授業を終え、皇城近くの館に戻った凛麗は、上衣を脱ぐなり御付きの下女に投げつけた。
「ひっ」
「さっさとおさがり、このノロマッ」
下女が慌てて廊下を去ると、凛麗はぎりりと奥歯を噛みしめた。
絢爛豪華な彼女の房には、香炉から伽羅の静謐な芳香が漂い、彼女の激情をかろうじて抑えていた。
(ええい、忌々しい)
三年前のあの日から、胸の奥の棘はずくずくと疼き続けている。
それというのも蒼様が私の許しも得ないままに、小蘭などという馬の骨をお側に上げたから。
あの御前試合は、丞相であるお父様とともに特別席で観ていたが……。覇帝様のお言葉によると、蒼様は小蘭に誘惑されたというではないか。
まさか皇太子が、そんな女のために命がけの死闘を演じるだなんて。
その上、皆の前で蒼様に抱き上げられた時の、あの得意げな顔といったら!
思い出すだけで、内臓が煮えるようだ。
無論その後、お父様を通じて皇室には抗議した。
正妃を差し置いて側妃など、あってはならないと。側妃など、借り腹にすぎないというのに。
『彼女を娶るのであれば私との婚儀を進めるように』と、父からは注進してもらった。なのにこの三年間、その話は一向に進まぬまま。
皇后様も、『こればかりは蒼龍次第』などと言ってはぐらかす。
そうこうするうちに、私ももう二十二の年。
あの田舎娘ども同様、頭の弱い宮女達から「行き遅れ」などと陰口を言われているのも知っている。
もっとも、そのうちの何人かは、見せしめに打擲の刑に処してやったから、表立ってはなくなったけれど。
蒼様が、あの女の部屋に入り浸っているですって?
おお嫌だ、自分の室に殿方を連れ込むだなんて、どんな神経をしているのだろう。
このままでは、文明もない辺境の国の女が、蒼様を汚してしまう。あの女、いっそあの時蠆盆に堕ち、蛇蠍に食われてしまえばよかったものを!
蒼龍様は……いつもそう。
阿児のように我儘で、やたらと伝統に逆おうとなさる。
幼い日の蒼龍様は、聡明で繊細で、そして誰より美しかったのに。
初めて彼に出会ったのは、私達がまだずっと幼い頃――。
乳母と教育係のじいやに連れられた蒼様は、私を見てにっこりと笑った。
「君、凛麗っていうの? よろしく、僕は蒼龍だ」
差し出された小さな手を握った瞬間、私は、この方の隣に立つ未来を見た。
すると、隣にいた父上がかがみこんで、私の耳にそっとささやいた。
「凛麗や、お前は大きくなったら、あのお方の花嫁になるんだよ?」
涙が出るほど嬉しかった。
けれど――。
当時は私も幼かった。
蒼様が、私の隣にいた侍女の娘に笑いかけた日、胸がじりじりと焼けるように痛んだ。
幼い私は後日、〝理由もわからぬまま〟下男に籠いっぱい集めさせた毒毛虫を、頭から浴びせてやったっけ。
泣きじゃくる娘を見て蒼龍様が私に向けた、あの悲しげな目——。
あの視線だけは、今も胸の奥で刺さったまま。
無論、今はもう、そんな子供じみたマネはしない。
分別をわきまえ、正妃として蒼様をお支えする自信がある。どれだけ派手に酒楼花街で遊ぼうと、どれだけ多くの側女を娶ろうと、あの小蘭の存在でさえ、私は赦して差し上げる。
黎妃だの小蘭だのと言ったって所詮は側妃、正妃は私ただひとりだもの。
そもそも、蒼様が変わってしまわれたのは、黎貴妃様のことがきっかけだった。
天使のように清らかな妃だと聞くが、所詮はあれも辺境の女。あの女さえいなければ、蒼様は権威に逆らってばかりの愚か者に変わったりしなかった。
私との婚姻話が進まないのも、きっと私が皇帝の定めた相手だからだ。
でも、私は知っている。
本当の蒼様はすごい野心家、父親を超える大きな国を作り、父親を超えた治世を行うのがあの方の大望。
旺盛な意欲で周りを巻き込み、己の信条を頑固に曲げない唯我独尊。
どんなに嫌っていても、蒼様は御父上とよく似ていらっしゃるの。
だからこそ、蒼様の野望には私が必要なのだ。
父上の権勢、曹家の血統、そして正妃としての美貌と才。
どれだけ側女を抱こうと、宮廷の秩序を担うのは正妃である私だけ。
それなのに……。
小蘭が嫡子を生む? 笑わせる。
もしそんなことが起これば、皇統そのものがゆらぐ。
蒼龍様の“気まぐれ”を正すのは、正妃となるこの私の役目だわ。
ぐっと握りしめた掌に爪が食い込み、赤い点が滲んだ。
小蘭、分からせてあげる。
あなたはただの遊び女に過ぎない。
軽い扱いだからこそ、寝取られ、見世物にされた挙句、仕方なく貰われたのだということを。
凛麗は、再び奥歯を噛みしめた。
いつしか口の端から、一条の血が滴っている。
小蘭、あなたが産む子など、二番目、三番目でも構わない。城の兵士にでもするといい。でも、嫡子だけはだめ。
それは、絶対に正妃でなくてはならないの。
蒼龍様、わがままを赦すのもここまでよ。
貴方の隣に座るのは、私。
貴方の血統を守るのも、私。
小蘭妃。
おまえは、ここで終わりよ――。
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