上手なお口で結べたら

春待ち木陰

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「……なあ」

「……おう。どうした」

「キスさせてくれねえ?」

「言うと思ったぞ、馬鹿」

「いや。マジで」

「マジなのかよ……。…………。…………。…………。……外ではチョット」

「……ウチなら良いか? 親仕事で今、家に誰も居ないから」

「必死か」

「必死だ」

「……しょうがねえな」

「マジでか。自分から言い出しておいてなんだが」

「おい。お前が今受けた衝撃の何倍もな、お前が学校サボってる事の方が俺には衝撃だったんだからな。覚えておけ!」

 

 ゴールデンウィーク明けの金曜日、盛大に寝坊した俺はダッシュで学校に向かっていた。もうすぐ昼になる。そんな登校途中で、

「ん?」

 俺は道の向こうに見知った顔を見付けた。

「おうッ! ツリ目!」

 声を掛けたが反応は無い。聞こえていないのか。俺の大声が届かない距離じゃないとは思うが、イヤホンでもしているのかもしれない。

 俺はほんのちょっとだけ通学路から外れてツリ目の方へと向かった。ダッシュで。

 どの段階で気が付いたのか。ふと顔を上げたツリ目は、俺御自慢の猛スピードで自身に近付いてくる俺を見て、

「ちょちょちょちょちょ――轢かれるッ!?」

 小さな悲鳴を上げて、その身を強張らせた。俺はキキーッとばかりにツリ目の直前で止まる。体当たりなんかするつもりはなかった。

「はっはーッ。久し振りだな。ツリ目」

「ゴリ……?」とツリ目は眉間に深いシワを寄せる。相変わらず目は悪いようだ。

「何だ。中学生になったらコンタクトにするんじゃなかったのか?」

 近付いて見たところ耳にイヤホンはしていなかったツリ目に、俺は普通に話し掛けた。さっきの大声も聞こえていなかったというよりは考え事でもしていて聞いていなかったのだろう。俺とツリ目は、シカトされるような間柄でも、シカトされたのかもと不安になってしまうような間柄でもなかった。

「……高かったんでな」

「らしくないな。値段くらい簡単に調べられるだろ?」

「……使い捨てコンタクトを使い捨てずに使い続けるつもりだったんだが」

「ああ。コンビニでもらった割り箸を一生使い続けようって感覚か」

「親に猛反対されて断念した。百歩譲ってコンタクト自体も断念した」

「はははッ。やっぱり相変わらずだったな、この貧乏性」

「『貧乏性』じゃねえ。『貧乏』なんだ」

「はははははッ!」

 大きな声で俺は笑った。ふッとツリ目も小さく笑った。

 俺とツリ目は同い年の友達同士だ。俺はツリ目を「ツリ目」と呼んで、ツリ目は俺の事を「ゴリ」と呼ぶ。ガッツリと「見た目」にちなんだ「あだ名」だった。当然、小学校では禁止されていて先生に見つかったりしたらコッテリと叱られる行為だった――が、あえてというか、だからこそというか俺達は互いに「ツリ目」や「ゴリ」と呼び合っていた。「俺達」というのもこの二人だけじゃない。他にも「短パン」とか「前歯」とか「リンゴ」とか「まつ毛」とかとか。それらは仲間内だけで呼び合う秘密のコードネームみたいなものだった。

「んで」と笑い終えた俺はツリ目に聞いた。

「何やってんだ。学校の時間じゃないのか。今日は休みか? 私立の中学校はゴールデンウィークが長いのか?」

 俺とツリ目は去年まで同じ小学校に通っていたが、ツリ目はこの春から駅五つも向こうにある私立の中学校に通い始めていた。俺は地元の公立中学校だ。

「俺も私立に行けば良かったかな」

「……ゴリには無理だ」

 ツリ目が笑った。呆れたふうでも馬鹿にしたふうでもなくただ静かな笑みだった。

「ゴリこそ。何やってんだ? 学校はどうした。お前もサボりか?」

「俺は盛大に寝坊して遅刻中だ。連休中の癖が抜けないで寝過ぎた。はっはっはッ」

 ツリ目の質問に答えた後で「ん?」と俺は気が付いた。

「今『お前もサボりか』って言ったか? 嘘だろ。お前、学校サボってるのか?」

 俺の知るツリ目はクソ真面目だった。先生に好かれる優等生とはちょっと違うかもしれないが「親に学習費払ってもらって小学校に通ってんだ。勉強しなくちゃあ損だろうが」と言いながら全部の授業に取り組んでいたツリ目は、その甲斐もあってか、軒並み苦手だった副教科を除いた主要五教科に限った話ながら、学年で一番の成績を取り続けて小学校を卒業した。頭の良い子供ばっかりが通うらしい私立の難しい中学校を受験して、見事に合格してみせてもくれた。

「貧乏性」もとい「貧乏」で学費に対する考え方もしっかり、ちゃっかりとしていたツリ目が、俺達が通っている公立の中学校よりもずっと学費が高いらしい私立の学校の授業を一日でもサボるだなんて。俺には信じられなかった。

「……俺、駄目かもしれねえ」

 ぽつりとツリ目がこぼした。ツリ目の弱音なんて初めて聞いた。聞いてしまった。

「何だよ。どうしたツリ目。何があった?」

「何もねえ……」とツリ目は言った。「何もないわけがないだろ」と言い掛けて俺は黙る。ツリ目の言葉には続きがあった。

「……俺には何も無かった」

 俯いたツリ目の表情は見えなかったが、それでも俺は顔を背けた。肩に手を置く。振りほどかれたりや嫌がられたりはしなかった。

「何も無いって事はないだろ。ツリ目は俺達の中で一番、頭が良かった」

「……ウチの学校じゃあ俺くらいの頭が『普通』なんでな」

「凄えな」と俺は素直に呟いてしまった。ツリ目はふッと小さく笑った。

「運動も苦手、絵心も無い、音痴で不器用な俺の取り柄は勉強だけだった。だけど、中学校では俺と同じや俺以上に勉強が出来る奴らが更に運動神経も抜群だったりとかネットで人気の絵師だったりとか、楽器も弾けて、絶対音感を持ってたりとか」

「ん~」と俺は唸った。

「正直、そんな凄過ぎる奴らの事は知らんけど。俺達基準だったらツリ目は『十分』を越えて十二分とか十五分とか二十分に凄いんだけどな。それじゃあ駄目なのかよ」

「……俺が私立の中学校になんか行かないでお前らとずっと一緒に居られたらそれで良かったんだろうけどな。上には上が居るって言葉だけは知っていて。大海の存在は知ってる井の中の蛙で。幸せで居られたんだろうけどな。現実の俺の日常は『大海』なんだ。『井戸』には住んでない」

「ツリ目……」

「足元がぐらついちまって、仕方がねえんだ。拠り所が無い。アイデンティティの喪失がこんなにもキツイとは思わなかった。もう立ってられねえ。キツ過ぎる。自分が何なのか……。自分がこんなにも脆いとは思わなかった。……情けねえ」

「……すまん」と俺は謝った。そして正直に、

「後半、何を言ってるのか意味が分からなかった」

 告白をする。俺は、

「馬鹿で悪い」

 自分で自分が情けなくなってしまった。友達の悩みをただ聞く事も出来ないとは。

 ツリ目は、

「……ははッ!」

 大きな声で笑った。笑い声は上げながらも本当は怒っているのかとも思ったが、

「悪かったな。小難しい言い方をした。俺には勉強しか取り柄が無かったのに中学校ではその勉強でも一番どころか中の上にもなれてないっていうただの愚痴だ」

 軽い調子でツリ目は言った。がその言葉に明るさは感じられなかった。

「勉強だけじゃないだろう。ツリ目の取り柄は」

「そうか?」とツリ目は頬を緩めて応えたが「じゃあ他に何がある?」と突っ込んでは聞いてこなかった。中身の無いただの励ましだとでも思われたのだろうか。俺は続ける。

「覚えてないか。もう何年も前だもんな」

「ん? 何の話だ?」

「ツリ目は口の中でさくらんぼの茎を結ぶのが上手かった」

 俺の言葉にツリ目は、

「――あははははッ」

 大きく口を開けて笑った。

「あったな。そう言えば。そんな事」

 笑いながらツリ目が言った。

「俺は出来なくて。他にはリンゴが出来てた気がするけど。ツリ目は異様に早かったよな。そんで自慢気に親に見せたら『止めなさい! いやらしい!』て怒られた」

「後になって知ったからな。さくらんぼの茎を口の中で結べるとキスが上手いとか」

「そうそう。知ったときは顔が真っ赤になったぞ。親に何の報告してんだって」

 今思い出すだけでも熱くなる。俺とツリ目は互いに軽く上気してしまっていた顔を見合わせて笑い合った。

「勉強だけじゃあない。ツリ目はキスも上手いんだ」

 バンと肩を叩きながら俺は言ってやった。

「最強の取り柄だろうが。凄いぞ。ツリ目」

「ははは。しかし、さくらんぼの茎が結べるだけだからな。ブルペンピッチャーでもないが果たして本当に本番で上手く出来るのか」

 ツリ目は真面目な顔をして「…………」と何やら考え込んでしまった。

 嫌な予感がしてしまう。数秒の後、

「……なあ」

 とツリ目が口を開いた。

「……おう。どうした」と俺は応える。ツリ目が言った。

「キスさせてくれねえ?」


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