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しおりを挟むその日の下校時、
「捕まりましたね」
朔二郎の横を歩いていた巴は前を向いたまま、ぼそりと呟いた。
「よろしゅうございました」と朔二郎が応える。
「これからは安心をして登下校が出来ますね」
巴は、
「お疲れ様でした」
ほんの少しだけ大きな声で言った。はきはきと意識して唇を動かす。
「これでお仕事に戻れますね」
「お嬢様の送り迎えも重要な仕事の一つですよ」
巴と朔二郎は横に並んで歩いていた為、巴には朔二郎の表情が見えていなかった。また同じように巴の表情も朔二郎には見えていなかったはずだ。
「そう。このお仕事から手が離れたら、本格的に秘書のお仕事を?」
朔二郎は巴の父親に秘書見習いとして雇われていた。元からだ。娘の付き人として朔二郎を雇ったのではなく、雇っていた人間の中から適当な人材として小木朔二郎を選んで娘の付き人としたのだ。
お忙しい先生のお心を煩わさせない為の重要な雑務だ。巴の送り迎えは紛れもない仕事だった。当然、それは巴も理解していた。承知していた。
「どうでしょうか」
重苦しくなりそうな沈黙も相手に気を遣わせるような間も無く朔二郎は応えてくれたがしかし答えてはくれなかった。
「守秘義務ですか?」
「難しい言葉を御存知ですね」
朔二郎の声や調子に笑みの成分は含まれていなかった。それでも巴には、笑われたような気がしてしまった。馬鹿にされたというよりは子供扱いをされた気がした。
巴は頬を片側だけ膨らませてそっとむくれた。
そんな巴の様子を敏感に察してくれてかどうか、
「正直を言えば、自分にも分かっていません。先生のお手伝いをさせて頂けるのか、兄の下回りをさせられる事になるのか」
朔二郎は続けてくれた。答えてくれた。
小木朔二郎の兄は巴の父親の第一秘書をしていた。まだ若いが十分に有能だと聞かされた事もある。一人娘であった巴以外の人間を褒める父親は珍しかった為、巴はその言葉をよく覚えていた。
「朔二郎さんは政治家の秘書になりたいの? それともお兄様のように?」
他意は無かった。ふと思い付いてしまっただけの疑問だった。いつもならば口には出さなかったであろう疑問だが、気が付けば言葉を発してしまっていた。
「どうでしょうか」と独り言のように小さく呟いた後、朔二郎は答えてくれた。
「兄のように。半年前ならそう即答していたと思います」
「それは」と言い掛けて巴はきゅっと口をつぐむ。
半年前と今の違い。その心境の変化は、大学を卒業されて社会人となったから? それとも私と出会ったから?
当人の心情的に、或いは客観的に見て、その心境の変化はプラスであるのかマイナスであるのか分からないまま、何も考えないまま、巴は思ってしまった。
もしも子供の自分が大人な彼に何かしらの影響を及ぼしたのだとしたら、それだけで嬉しい。山上巴は子供だからこそ「嬉しい」と素直に思う。
でも思うだけ。四月生まれの十五歳は同級生達の間でも頼れるお姉さんだった。お姉さんとしては素直な思いを口には出せない。この時代の十五歳は「少女」でありながらも法的に婚姻が認められている「大人の女性」でもあった。
もう純然たる子供ではないのだ。いつまでも無邪気なままではいられない。いてはいけなかった。
「いつまでも見習いではいられませんからね」
朔二郎が言った。まるで巴の心の内を代弁しているかのようなタイミングだった。
「お嬢様ももうすぐ四年生ですし」
何が「ですし」なのか。言葉遊び以上の意味合いは無さそうながらも単純に朔二郎の話題から巴の話題へと繋げてくれたという事が嬉しかった。
季節は冬の始まりだった。あと三十分も経てば日も沈み終えるだろうがまだかろうじて青さを残していた東の空にはまんまるのお月様が薄っすらと浮かんでいた。
巴の通う女学校が建てられていた小高い丘を緩やかに下り、大きな川のような県道とそこに架かる橋のような小道からなる歪な十字交差点を過ぎたら、しばらくは真っ直ぐ進む。現れた郵便局の角を曲がると今度は小さな病院が見えてくる。
その先には神社があった。愛菜の時代には就学前後の子供達を散見する事が出来る小さな公園が同敷地内に設置されていたがこの時にはまだただの神社であった。
それを左手に見終えた頃、右手には後の時代に取り壊される事となる児童公園のまた更に前身であった児童遊園が姿を現す。巴お祖母ちゃまの記憶には、緑色に塗られた木製のベンチと円筒形の大きなゴミかご、ところどころ塗装の剥げているブランコにシーソー、ジャングルジム、野良猫の糞だらけの砂場によく水が出しっ放しにされていた水飲み場があったが、それらは全て児童公園となってからの風景だった。
生家の近所にありながら巴が一度も遊んだ事のない児童遊園に背を向けるみたいに左に曲がると道の向こうに踏切が目に入る。現代に生きる愛菜にはわかりづらい感覚かもしれないがこの時の巴にとってはどこか場違いな、ぞわぞわとする違和感を抱かせる佇まいと妙に不安感を掻き立てられるカンカンカンカンカンカンという警報機の音、静かながらも確かに鳴っているウィーンという作動音と共にゆっくり下りてくる遮断機が少しだけ怖かった。
朝から夜に掛けて一時間に二度程度、鳴り響くその踏切を越えてすぐに在るのが山上の家だった。口さがない町内の住民達からは「踏切の家」だとか「線路を渡らされたところ」だとかと言われていた。
本日、巴が女学校の校門を出てからもう十八分が経っていた。公園に背を向ける。踏切が目に入る。もうすぐ家に着く。着いてしまう。
「朔二郎さん。今日までありがとうございました」
少し早いけれど、家に着いたら何の言葉を交わす間も無く朔二郎は巴の横から離れてしまう。何処かに行ってしまう。巴が朔二郎と話の出来る機会は今が最後だった。
「母の勧めもありまして。二年と少し後になりますか。女学校を卒業しましたら結婚をする事に決まりました」
「それは、おめでとうございます」
朔二郎の言葉がいつもの真横からではなく、ほんのほんの少しだけ後方から聞こえていた事で、機械のように正確だったはずの彼の歩みがほんのほんの少しだけ遅れた事を確かに感じられた。それでも巴は振り向かず、立ち止まらずに話を続けた。
「お相手は父が決めてくれるそうです」
「それはよろしゅうございました」
その相槌は巴が予想していた通りの言葉だった。けれどもその言葉は巴の予想外に後方から聞こえていた。
「え?」と巴は立ち止まり、振り返る。
朔二郎ならば、不意な巴の告白にどれだけ驚いたとしても一瞬で我に返ってすぐにいつもの定位置に戻ってくるだろう「何事も無かったかのように」と巴は思っていたのだ。だから巴は振り向かなかった。立ち止まらなかった。そうするであろう朔二郎に合わせたつもりで巴もまた「何事も無かったかのように」歩き続けていたのだ。
だのに「それはよろしゅうございました」という朔二郎の相槌は明らかな後方から聞こえてきていた。
振り返り見た朔二郎は歩みを遅らせていたどころかその場に立ち止まり、なおかつ空を見上げていた。巴よりもずっと背の高い朔二郎が上を向いてしまっていた為、巴ではその表情を知る事は出来なかった。
「朔二郎さん」
巴が声を掛けると朔二郎はいつもと同じ声色でいつもと同じ雰囲気のまま、
「月が」
と口を開いた。
「え?」と巴はまた驚いてしまった。
「綺麗ですね」
巴は、まどろむみたいに目を細めて「はい」と頷いてから、そっと空を見上げた。
本当だ。綺麗な満月がいつのまにか灰色となっていた東の空の真ん中で光り輝いていた。その背後、西の地平にはまだ沈み切ってはいなかった太陽の後ろ髪がゆらゆらと棚引いていた。
他に誰も居ない道の端っこで巴と朔二郎は二人揃って空を見上げていた。見上げ続けていた。それは一分にも満たない数十秒間の出来事だった。
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