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しおりを挟む巴は彼に結婚をすると報告した。朔二郎は立ち止まった。そして彼はその事実を無かった事にも出来たのにそうはしなかった。立ち止まったという事実を巴に知られてしまった後も朔二郎は「何でもありません」等と言ってすぐには歩き出さなかった。
「月が綺麗ですね」と囁いた。その場に立ち止まり続ける言い訳を囁いた。
「はい」と巴は頷いた。彼の誘いを受け入れて巴はその場に立ち止まり続けた。
朔二郎と自分が運命の赤い糸で結ばれているだのとは思わない。
これと全く同じ出会い方をしていたらきっとこの人じゃあなくても巴は恋に落ちていた。それこそ朔二郎の兄でも、もしかしたらジョン・スミスでも。
だからといって今、目の前に居るこの人を蔑ろに思うわけじゃない。
それは両親に対する感謝のような、両親から注がれる愛のようなもので巴はきっと今とは別の両親の元に生まれていたとしてもその両親に感謝をするだろうし、今の両親も生まれた子供が私じゃあなかったとしても今の私と同じように愛してくれた事だろう。そういった出会いそのものを運命と呼ぶのかもしれない。
巴にとっては「小木朔二郎」が運命の相手なのではなくて、小木朔二郎との「出会い」が運命だった。
だからこそ今、目の前に居る彼を大事にしたい。
この人が好きだ。
出会ってからの期間もそう、実際に過ごした時間などは更に短くて、まだまだ子供な私はこの人の本当を何一つも知らないのかもしれないけれど、誤解を恐れずに言うならば私が好きなのはこの人の全てではなくて。今、目の前に居る彼が全てだった。
出会ってから「今」までの流れだ。山上巴はその流れこそを運命と呼びたかった。
ふと、カンカンカンカンカンカンカンカン……。
道の先で佇んでいた踏切が警報音を鳴らし、並んで空を見上げていた二人を現実へと引き戻す。
「ああ」と巴は気を取り直すのと同時に気が付いた。
毎日、毎度、放課後の校門から自宅まで二十一分の速度で朔二郎が巴の横を歩いてくれていた理由の一つにはこの踏切で無駄に立ち止まらせない為もあったのだろう。まさか巴がこの踏切の事を「少しだけ怖い」と思っているなどという事までは知られていないだろうが。
今日の巴は色々と思う事もあって放課後、校門へと向かった時刻が普段よりも少しだけ遅かった。そのせいで、スタートがいつもよりも遅かったせいで途中、ほんの数十秒程度、立ち止まっただけなのに踏切の警告音を聞かされる事となってしまったが普段通りであったならこんな事にはなっていなかっただろう。本来の朔二郎による気遣いは決してぎりぎりのライン上を歩くような危ういものではないはずなのだ。
放課後の帰り道だけを数えてもこの半年間、ざっと百五十回も一緒に帰宅していて今回、初めて巴はこの踏切に引っ掛かった。歩みを止められてしまった。
カンカンカンカンと辺りに警告音が鳴り響く中、巴と朔二郎は互いに黙ったまま、止めていたその歩みを再開させた。遮断機の下りている踏切の前に立つ。
前を見る。電車は来ない。警告音は鳴り続ける。巴の横には朔二郎が立っていた。二人とももう空を見上げる事はしなかった。
綺麗な満月からは目を逸らして、巴はずっと黙っていた。今はまだ空っぽの線路を見据えたまま、隣りの朔二郎をまるで無視でもしているかのようだった。朔二郎もまた同じ。二人は黙りこくったままただ並んでその場に立っていた。
いつもと同じ距離。手を繋いだりなんてしない。彼の服の裾をそっとつまんだりもしない。触れすらもしない。手を伸ばしたりもしない。手を伸ばそうかと迷ったりもしない。いつもと同じ距離だった。
逢魔が時の田舎道に響き渡る、カンカンカンカン。無機質な警告音が巴の鼓膜をゆわんゆわんと刺激する。どこか別の世界にでも迷い込んでしまいそうな、もうすでに迷い込んでしまっているかのような違和感にさいなまれる中、巴は確かな現実にすがりつくような思いで朔二郎との日常を固く保持し続けていた。
この次の日から付き人が居なくなった巴は一人きりで登下校をするようになった。勿論、片道二十一分の速度で。
半年間も一緒に居た小木朔二郎をぶつりと瞬間的に失ってしまった山上巴だったが特に気落ちした様子を見せるような事もなく母親が望むような淑女に育っていった。
二年と少し後、女学校を卒業した巴はその日に婚約を公表する。その後に行われた父親の仕事関係者を多く招いた婚約披露パーティーにて巴は朔二郎との、実に二年と少しぶりの再会を果たす事となる。
「え? え? なに? 何の話だったの?」
愛菜が戸惑いの声を上げる。目の前に座る祖母は「話し終わりました」とばかりに微笑んでいた。
「初恋は実らないっていう話? あ。違う。あれだ。聞いた事あるかも。二番目に好きな人と結婚する方が幸せになるとかっていう話だ?」
首を傾げつつもどうにかこうにか納得しようとしていた愛菜の隣りで、
「What?」
金髪の青年は無遠慮に問い掛けた。愛菜の顔を覗き込んでいる。
「え、ああ。ごめん。分かんないよね。えっと。どこまで訳したっけ」
愛菜は慌てながら手元のスマートフォンに目を落とす。操作する。祖母の話を聞きながら、愛菜はその要所要所で日本語の分からないジョンの為に翻訳の作業を行っていた。
また愛菜は祖母の話の腰を出来るだけ折りたくないという思いから、先に見せていた音声入力ではなく手作業で文字入力した日本語の文章を翻訳アプリで英語に変換していた。
『He said the moon was beautiful』
スピーカーの音量が少しだけ下げられていた愛菜のスマートフォンが流暢に訳してくれたが、
「いいえ」
祖母は微笑んだままそっと首を横に降った。
「He said “I love you.”よ」
「え?」
「Wow!」
色々と予想外だった祖母の流暢な英語に愛菜は驚いた。その隣りでジョンは喜んでいた。いや、喜ぶというよりは、はしゃいでいるのか。どちらかと言えば嬉しそうというよりも楽しそうな「Wow!」だった。
「“I love you.” too!」
言いながら愛菜に擦り寄ったジョンを見てだろう、バンッ!と祖父が座卓を強く叩いた。
「Oh」と金髪の青年は肩をすくめて愛菜から離れた。
「お祖母ちゃまには」と愛菜がためらいがちに尋ねる。
「その朔二郎さん? の言葉が『愛してる』に聞こえたの?」
「聞こえたと言ってしまうと語弊があるかもしれないわね。私はそう感じたの」
祖母が続ける。
「言葉では伝えられない事も、心が通じていれば自然と伝わるものよ。人間はとても敏感な生き物ですからね。ましてやそれが『恋する乙女』ならなおの事よね。だから愛菜ちゃんが『言葉なんか通じなくても』って言いたくなる気持ちはとても良く分かるわよ」
「お祖母ちゃま」
ほっと息を吐いた愛菜に対して、祖母は申し訳無さそうに眉尻を少しだけ下げた。
「私は彼が言った『月が綺麗ですね』を『愛してる』と捉えたけれど。愛菜ちゃんは彼の言う『I love you』が本当に『愛してる』に聞こえているのかしら?」
「え」と愛菜はまばたきも忘れて、押し黙る。「…………」と思考を巡らせていた。
薄々は気が付いていた事だ。むしろ気が付いていない振りをしていたと言った方が正しいかもしれない。ジョンが口にする「I love you」には「愛してる」の重みは無かった。「好き」さえも遠い。もっと日常的な、そうだ。「こんにちは」に近い軽さがあった。
「…………」と押し黙ったまま愛菜はその顔を真っ赤に染めていた。恥ずかしいやら悔しいやら悲しいやら。様々な負の感情が愛菜の中で渦巻いていた。
それでも。愛菜は彼に運命を感じたのに。クラスの皆が、担任の先生までも愛菜の事を馬鹿にしたみたく笑っていたあの時、ジョンだけが笑わなかった。日本語が分からなくて笑わなかったわけじゃない。翻訳アプリで経緯を通訳されてからも彼は少しだって笑わなかった。彼だけが。そして言ってくれたのだ。
「Aina. I love you」と。
愛菜は、
「でも」
頑張って口を開いた。その身の内で渦巻き続ける負の感情を吐き出そうとするかのように、
「それも。お祖母ちゃまだって勘違いだとか、勝手にそう思い込んでるだけかも」
祖母に対して、負の言葉を吐き出してしまう。いわゆるひとつの八つ当たりだ。
「あら」と祖母が目を見張った。口元に手を添える。
上品かつどこか幼さのようなものが見えて可愛らしい仕草だった。
「そうねえ。言われてみれば」
ふふふと笑った祖母は、
「改めて答え合わせをした事はなかったけれど。あの時に感じた思いは、私の勘違いだったのかしらね、朔二郎さん」
言いながら隣りに座っていた祖父の顔を見た。
「え」と漏らしたのは孫の愛菜。
巴お嬢様の付き人を終えた朔二郎はその後の二年間弱で仕事を覚えに覚えると、非常に有能とされていた兄を越えるほどの評価とまでは流石にまだいかなかったものの其れ相応の見込みを得るとその兄に取って代わって巴の結婚相手に名乗り出たのだった。今から思えば色々な意味で本当に有能だった兄に乗せられてしまった、更には巴の父も色々と解っていたように思えるが、それでもそれは朔二郎が必死の努力を重ねに重ねて手にする事の出来た結果には違いなかった。
「あーッ! そうだよ。どっかで聞いた覚えのある名前だよなあって思ってたんだけど。さっきのお祖母ちゃまのお話の『朔二郎さん』てお祖父ちゃんの名前だよ!」
「今、思い出したのかッ! お前はッ! 祖父の名前も満足に覚えられんのかッ!」
首から耳からハゲ頭から顔中を真っ赤に染めた祖父がまるで何かを誤魔化そうとしているかのように座卓を大袈裟に叩いていたが、先程の愛菜に擦り寄ったジョンに対する威嚇的なバンッ!に比べるとそれらは随分と弱々しくて軽い、なんとも迫力に欠けるバン、バン、バンであった。
「うふふ」
とその横で巴お嬢様は「答え合わせ」が済みましたとばかりに微笑んでいた。
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