隣の部屋に住む男性(37)を自分が魔法で召喚したヒト形の犬だと思い込んでしまっている少年(10)と~中略~少年趣味おじさんの話。

春待ち木陰

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 少年が帰宅した後――。

 ふと我に返ってしまった虎呼郎は、声には出さずに心の中で大絶叫をしていた。

「うわあぁぁあぁぁぁぁぁあああ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~――」

 絶叫したまま服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。頭を掻きむしり、

「ごぼぼぼぼぼぼぼ……ッ」

 シャワーヘッドをくわえる勢いで口の中に水流を当てる。

 頭の中は「――~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!」という絶叫が占め続けていて他の考えは全て拒否した。何もかもを強制排除していた。

 風呂場から出たら久し振りに筋トレなんかしてみたりして。いち、に、さん、し、ご、ろく、なな……とスクワット、腹筋、背筋、腕立て伏せを無心で繰り返す。

 シャワーを浴びたところだというのに全身、汗だくだ。

 汗だくの体で筋トレを続ける。続ける。続け続ける。

 もう無理だというくらいに疲れ切った体をベッドの上に投げ出して、虎呼郎はそのまま、うつ伏せのまま、眠りに落ちた。

 それは夢を見る事も拒絶するような深い深い眠りだった。

 ――が。次の日の朝、目を覚ました虎呼郎が最初にした事は、

「うわぁああぁぁぁああぁあああああ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~――ッ!」

 声には出さない大絶叫だった。

 これは紛れもない現実だ。一晩、寝てみたところで都合良くリセットなんかされるわけはなかった。

 ……覚えている。全て覚えていた。何も忘れてはいない。忘れた振りも出来ない。虎呼郎の性格上、無かった事になど出来るわけはなかった。

 俺は、何という事をしてしまったのか。

「……出頭しよう」

 出頭。どうやるんだろうか。予約は要るのか。110番は緊急時の番号で相談事は別の窓口に、とは聞くが。何番に電話すれば良いんだ。

 スマホを片手に錯乱気味となってしまっていた虎呼郎は、押し慣れた番号――とはいっても電話帳に登録してある名前をタッチするだが――を意識無く手癖で押してしまっていた。

 数回の呼び出し音の後、

「ハロー。我が心友。どうした? 直接電話してくるなんて珍しいな」

 虎呼郎の耳には友人である濱田健太のおどけた声が届けられた。

「あ? 濱田? 何で? 警察官に転職したのか?」と慌て続ける虎呼郎に、

「何だ。どしたん。また酔ってるのか?」

 濱田は心配ではなくて面白がっているような声を掛ける。濱田は過去、酔っ払った虎呼郎が居酒屋の個室で面白い事になってしまった際に同席しており、今でもたまに虎呼郎の「失態」を「偉業」だの「快挙」だのと言ってからかったりしていた。

「いや。酔ってない。酒は飲んでないんだが。もっとヤバいモノは飲まされた」

 素面だったら言わない、言えないような台詞をすんなりと虎呼郎は口にする。鬼気迫ったその口調もあいまって、スパイ映画のワンシーンみたいだった。格好良過ぎて格好悪い。鈴木虎呼郎はスパイでも映画俳優でもない、ただの中年サラリーマンだ。

「ヤバいモノ? 法に触れる系か?」

 虎呼郎の声色は深刻だったが、それに応える濱田の声は過度に芝居じみていた。

 意味不明な言動を繰り返す人間が口にした「酔ってない」や「酒は飲んでない」という言葉を額面通りに受け取れるほど濱田は素直でも初心でも真面目でもなかった。

 濱田は受話器の向こうの虎呼郎がまた面白い酔い方をしているのだと思っていた。

「法に――触れるかもしれない」と唸るみたいに虎呼郎は頷いた。

「だからさっき警察が何だとか言ってたのか」

「ああ。……出頭しようと思ってる」

 鈴木虎呼郎の「偉業」が今また一つ増えている最中であるという事に虎呼郎自身はまだ気が付いていなかった。

「そうか。何を飲まされたのか、具体的に分かってるのか?」

「……小学生男子の唾液だ」

「詳しくッ!」

 余りにも声のボリュームが大き過ぎて音割れを起こしてしまっていた濱田の言葉に耳をキーンとさせながら虎呼郎は、

「あ、ああ」

 と引き気味に頷いた。相手のテンションの異常な高さに虎呼郎は軽く正気に戻ってしまっていた。

 濱田健太は鈴木虎呼郎と同じ「趣味」を持つ同好の士であった。また細かな想いを同じくする戦友的間柄でもあった。

「『リアルで少年に手を出す輩は死ねば良い!』とまで言っていたあの鈴木さんが、どうやったらDSの唾液なんて。しかも『飲まされた』とか。どんなシチュですか」

 突然の敬語であった。濱田健太は三十四歳で虎呼郎の三つ年下だったが同じ趣味を持つ者同士の「集まり」では濱田の方がずっと先輩で虎呼郎は後から参加していた。濱田の人好きのする性格もあって二人は初対面の数時間で打ち解け合って以降、今日までずっとタメ口であった。

 色々な意味で気兼ねのいらない相手だ。虎呼郎は素直に詳細を吐露した。言うに言えない少年との出来事を誰かにぶっちゃけて自分の気持ちを楽にしたいという思いもあったかもしれない。いや、あった。濱田に全てを打ち明けた直後の虎呼郎は思った以上にすっきりとしてしまっていた。

 濱田には、

「何だ。そんなか」

 と溜め息まじりに呟かれてしまったが。

「俺的には状況がヌルいッスな。その程度じゃ俺は萌えねえッス」

「お前を萌やしたいわけじゃないから。一般常識というか世間的にみて非常に問題のある行為、関係であろうと」

「う~ん。鈴木サンの主観的にはそういう事なんだろうけど。間接キスというか『間接ディープキス』程度で出頭されてたら子供の世話をする人間がこの世から居なくなるぞ? よだれでべとべとのおすそ分けなんてウチでは日常茶飯事だからな。それが犯罪になるなら園の先生は全員、前科持ちだ。ウチが犯罪者集団になってしまう」

 それから濱田は口調をからかい気味に変えて、

「まあ、その少年クンが無邪気だからこそ許されるのであって、それを性的類似行為と捉えればアウトかもしれないけど」

 と囁いた。

「ちなみに鈴木サンはその行為で勃起したりなんかは」

「してないッ!」

 虎呼郎は即答した。……多分。していない。していないはずだ。正直、覚えてはいないが。少なくとも「勃起した」という記憶は無かった。

「ならセーフだろ。おけおけ」

 濱田は軽い調子で笑った。

「そう……か」と濱田のお陰で随分と気持ちの軽くなってしまった虎呼郎は、

「ところで。お前の方はその『日常茶飯事』で勃起してたりしないよな?」

 お礼代わりに軽口を返す。

「ふ。俺を勃たせるには七年早い連中だからな。安心しろ」

「……具体的な数字を出すな。生々しい」

「お前が振ってきた話だろうが」

 これが電話でなければ濱田の裏手が虎呼郎の胸にバシンと当てられていただろう。

「でもそうか」と虎呼郎は口に出しながら考えをまとめる。

「少年の行為に深い意味はなく、受け取り側の俺が勃起でもしなければ性的類似行為ではない、か」

「ただの遊びの範疇じゃないか。鬼ごっこのタッチが痴漢になるかならないかは触る側にヨコシマな気持ちがあるかどうかと触られる側に嫌悪感があるかどうかだろう。鈴木サンの場合はその少年クンに性的な意識はなさそうだから、あとは受け手の鈴木サンが性的に捉えなければ、ただの遊びかコミュニケーションの一つかと」

 そういう事になるのだろうか。本当に? 濱田が虎呼郎の友人であり同好の士でもある事から判定が甘くなってしまっている可能性は大いにあったろうが、それでも、他人からの「大丈夫」といった意味合いの言葉には、ほっとしてしまうものだった。

「鈴木サンから手を出したわけでもなければ、鈴木サンが強要してるわけでもないんでしょ。むしろ『止めなさい』って言ってるわけで。明らかに行き過ぎた行為ではないのなら広い心で受け止めてあげたら?」

「どこまでいったら『行き過ぎ』なのか。すでに『行き過ぎ』てる気がしなくも」

「清廉潔白をこじらせて必要以上に過敏になってるのかもよ」と濱田は笑った。

「鈴木サンの自意識過剰で『遊んでるだけの少年』を『性犯罪の被害者』にしてやるなよ。守ったつもりが本当に守られたのは自分の世間体やら意識やらだけで逆に純な少年の心を傷付けるかも」

「むう……。そんなふうに言われると何とも」

 今後の里見達矢少年との付き合い方、距離感について真剣に考え込み始めた虎呼郎の耳に、心友である濱田健太より有り難くも的確なアドバイスが届けられた。

「まあ。アレだ。鈴木サンは自分から手を出さない事と何をされても勃起だけしないように、頑張って」


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