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04 田沼さんのフラグ回収。(2/2)

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「す、すみませんでした。私の勘違いで」

 田沼さんは早口で謝罪した後、急いで前を向いた。碇矢一郎に背中を向けた。

「…………」と碇矢一郎からは何も言われなかった。

 引き続き、田沼さんは背後に碇矢一郎という「大きな存在」と書いて「プレッシャー」と読むものを感じながら書道室に向かって廊下を進む事となってしまった。

 現在地から田沼さんの目的地である書道室まではまだいくらかの道のりがある。

(でもワンチャン。可能性はあるはず。)

 田沼さんは絶望に囚われず一縷の望みを心に灯す。

(このまま人目がある状態のまま書道室まで辿り着くことはできないだろうか。)

 きっと書道を選択していない碇矢一郎は書道室の中にまでは入ってこないだろう。

 田沼さんが書道室に入りさえしてしまえばそこで碇矢一郎のつきまといも終わることだろう。それでまけるはずだ。

 ネガティブに考えればそれでも「一時中断」にしかならないかもしれないが、ポジティブに考えれば「一時中断」している間に碇矢一郎の気が変わる可能性もある。

(とにかく今目の前にある危機を回避してほとぼりが冷めるのを待たねば。)

 だが、しかし。こんなときに限って運の悪いことが起きる。

(おなじみ。マーフィーの法則だあ。)

 田沼さんが進んでいる廊下の少し先では、ぱっと見で8人くらいは居るだろうか、他クラスの陽キャ男子軍団がわいわいとその道を塞いでいた。

 これを避けて書道室に向かうにはだいぶ回り道をしなければならない。

 その途中にはほぼ確実に人気が無いであろう東階段がある。

 全階にある空き教室の奥に位置する階段だ。

「出来る限り人目を避けたい」だの「敢えて遠回りしたい」だのといった特別な意図がなければ使われない階段だった。

 背後に碇矢一郎を引き連れたまま人気の無い東階段など使用すれば、

(上階からも下階からも見切れそうな踊り場のちょうど真ん中辺りで……。)

 さくっと亡き者にされてしまいそうだ。

(どどど、どうしよう。)

 陰キャな田沼さんにはもちろん「ちょっと通してもらっていい?」なんて軽く声をかけて道を空けてもらうだなんて選択肢は存在しない。

 前門の陽キャ男子軍団、後門の碇矢一郎といったこの状況で、田沼さんはただ立ち止まることしかできなかった。

 けれども。ただ「立ち止まった」だけだ。

 まだ「立ち尽くす」と言えるほどの分数も秒数も経ってはいなかった――のだが。

 今の今まで田沼さんと一定の距離を保ち続けていたはずの碇矢一郎が、まだ「立ち止まった」だけであった田沼さんを一瞬で追い越して、

「え?」

 と田沼さんが驚きの声を漏らしたときにはもうすでに、

「あでッ?」

「痛ッ」

「なにすんの?」

 陽キャ男子軍団の面々のケツに蹴りをいれまくっていた。

(あれ? あれ? あれ? 私の背後を取り続けていた碇矢君が目の前に居る?)

 気のせいでも見間違いでもなかった。

 田沼さんの目の「前」に碇矢一郎の姿が確かにあった。

 背中にはもう何のプレッシャーも感じない。

 田沼さんは碇矢一郎の恐怖から解放されたのか。

(というか碇矢君に付きまとわれていたとか私の妄想? 勘違いだった? 本当の本当にただの私の自意識過剰だったの? だ、だとしたら恥ずかしすぎるし、碇矢君にはとんだ冤罪を。)

 と赤面しかけたのも束の間、

(あ、違う。そうじゃない。)

 田沼さんは気が付いた。

「邪魔だ。廊下ではしゃぐな。通れねえだろうが」

 道を塞いでいた面々を順番に蹴っ飛ばし続ける碇矢一郎の姿は、

(これ。八つ当たりだ。)

「道を塞いでいた」ことを口実にして面々に暴力を振るい自身の苛立ちを解消させているようにしか見えなかった。

(はじめからこれが目的で、ここが目的地で、たまたま行く道が同じだった私の後ろを歩いていたわけでもないし。悪気なくも道をふさいでいた彼らに対して義憤的な思いからとった行動でもない。と感じる。)

 その証拠でもないが碇矢一郎の表情はほんの少しだけ緩んで見えてた。

 碇矢一郎は苛立ちを抱えながら田沼さんの後を付けて歩いた先でちょうどよくその苛立ちを発散させることができただけだ。と田沼さんは根拠薄く確信してしまった。

 ただ、

(こここ、こわい。)

 と思ったのは傍目に見ていた田沼さんだけらしくて当の被害者方は、

「って碇矢かよ」

「レアだな。碇矢の方から絡んでくるとか」

「なんか良い事でもあったんか?」

 怖がるでも怒るでもなく、なんだか喜んでいるようであった。

(喧嘩にでもなったらどうしようかと思ったけど。)

 どうやら陽キャ男子軍団の面々と碇矢一郎は知り合いであったらしい。

 属性的にお友達とは思いづらかったが、

(部活が同じとか中学校が一緒だったとかかな。)

 田沼さんは適当な理由を添えて納得を試みる。

「うるせえ。ほら。散れ。散れ。道を空けろ」

 まるで喧嘩を売るような態度の碇矢一郎に、

「ああ。はいはい」

 と彼らは怯みも悪びれもせずに応えていた。

 モーセの十戒ではないが廊下の左右に別れた陽キャと陽キャの間を田沼さんは猫背気味の背中をより曲げながら通り抜ける。

 田沼さんにとって陽キャは野生動物と同じだった。テレビとかスマホの画面越しや遠目に眺める分には微笑ましいが下手に近寄れば思わぬ反撃を食らう。

 その個体が毒持ちでなくても往々にして病気や寄生虫が潜んでいたりするのだから素人が気軽に触れ合おうなどと思ってはいけないのだ。

 視界の左右にちらちらと映り込む陽キャ達を刺激したりしないようにと田沼さんは走らず早歩きにもならないよう気を付けながら普通に普通に歩いて通る。

(……ふぅ。)

 陽キャ通りを無事に抜けきって息を吐く。

 そのまま数歩も進んだところで田沼さんはやっと気が付いた。

 体が軽い。気がする。ずっと背後にあった気配が消えたままだ。

 恐る恐る振り返ってみると、碇矢一郎は先程の陽キャ男子軍団に混じってお喋りに興じていた。こちらを追ってくるどころかこちらに顔も向けていない。

(碇矢君の興味が向こうに移った? というかさっきのキックで碇矢君のストレスが完全に発散されたっていうことなのかも。私への苛立ちは完全に忘却された?)

 その真相はさておき、とりあえず見逃してもらえたことだけは確かなようだった。

「ふぃー……」

 前を向いてからもう一度、田沼さんは息を吐いた。

 彼らに背中を向けたまま、田沼さんは両てのひらを合わせて深くお辞儀する。

(皆さんの尊い犠牲により私の命は助かりました。ありがとうございました。皆さんの分まで私は頑張って生きていきます。なんまいだー。)

 頭を上げて、まぶたを開く。

 それ以降、田沼さんは一度も後ろを振り返らずに書道室へと向かって真っ直ぐに歩いていったのであった。



 遠ざかる田沼さんの背中にちらりと視線を送った碇矢一郎は、

(これでスマホの借りは返したからな。田沼ナントカ。)

 こっそりと思った。

 こうしてこの日に立てられたフラグは未来に残されず全て回収され尽くした。

 少なくとも今回、田沼さんと碇矢一郎の間には何も――余地も含めて本当に何一つも生まれはしなかったのであった。


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