「ん」「ちゅ」

春待ち木陰

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 クラスメイト歴は約四ヶ月。部活も別で私服での付き合いも無い伊藤京子が考える桧山優花のイメージは「正しいヒト」だった。

 それも先生的な正しさではなくて、お母さん的な正しさだ。

 先頭に立って皆を教え導く存在ではなく、一番後ろから皆が間違った道に進まないようにだけ見守ってくれている感じだ。

 今ではクラスの女子ほぼ全員が済ませている富野スズとのキスも一番最初に優花がスズの「ん」に「ちゅ」と応えた事から始まっていた。

 優花が最初にキスをしたから、スズにキスをしても良いんだという空気がクラスに流れた。それはスズとのキスを強要するようなものではなかったが「しても良い」のだという認識は完全に広まってしまった。はびこった。蔓延していた。

 その流れに皆は乗ってしまった。

 それが本当に嫌な事だったなら皆もしやしなかっただろうが、スズの言動や愛嬌は確かにキスしてあげたくなってしまうくらいには「可愛い」ものだった。

 優花は先導も指導もしていない。手を引く事も背中を押す事もしていなかったが、許可を出してしまった――いや「駄目とは言わなかった」だけか。

 スズの魅力に惑わされた皆は「駄目だ」と止めてくれるヒトが居ない事を良い事に彼女とのキスをした。

「だって。優花もしてたから」

 桧山優花の存在は皆の良い言い訳になっていた。

 そんな優花が不意にスズとのキスを拒否した。

 時は放課後の始まり。場所は教室。クラスメイトの殆どがその場には居た。

 皆が見ていた。

 それ以降、スズの「ん」に「ちゅ」と返すヒトは居なくなった。

 皆のお母さんが止めたから。皆にそれはイケナイ事なのだという認識が広まった。

 まるで梯子を外された、急にてのひらを返されたような状況となってしまった富田スズは何を思ったのだろうか。

 誰にキスを拒まれてもスズは以前のように分かり易くしょんぼりと落ち込んでみせたりはしなかった。更に踏み込んでもう一度、求めてみるような事もしなかった。

「拒む」未満の難色を敏感に察知してスズは驚くほどすんなりと引き下がる。

 スズは今、何を考えているのだろうか。

 何にしろ。

 クラスの女子で唯一、以前からスズとキスをしていなかった京子には関係の無い話だ――と気を抜いていたら、

「京子ちゃんは凄い。ちゃんとしてる」

 スズと一度もキスをしていないのは京子だけだと何故だか妙な感心をされるようになってしまった。

 クラス内での伊藤京子の株が絶妙に上がってしまった。

 以前は「空気が読めない。いや。空気を読まない」と軽く面倒臭いヒト扱いされていたような気もしたが今では「先見の明がある」的な。普段は邪魔だが、いざという時には頼りになる的な。どうも変に見上げられている感じがしだしていた。

 このままでは優花の「お母さん」ならぬ、皆の「お父さん」ポジションに置かれてしまいそうな雰囲気だった。

 しまいには優花にまで、

「京子ちゃんは、はじめからスズちゃんを人間として見ていた」

 とか訳の分からない事を言われる始末だ。

 優花を始め、クラスの皆はスズの事を何だと思って接していたのだろう。妖精か?

 京子から見たスズの印象は、何処にでも居るような小さな子供だった。

 酷く気分屋な母親の顔色を常に窺いながらおどける小さな子供だ。

 自分に自信が無いのか、はたまた自分自身が無いのか。

 スズはいつも他人が求める表情を拵えて相手の笑顔を得ようとしていた。

 そんなスズに京子がキスで応えなかった理由は、

「なんとなく。うざかったから」

 であった。何か深い考えがあっての事ではなかった。

 とてもシンプルにスズは相手に「好き」と思ってもらう為だけに自分の「好き」をその相手に捧げていた。

 京子にはその行動が気持ち悪かった。

 それは等価交換ではなくて物々交換だ。

「好き」と「好き」は同じものでも、スズの「好き」とスズに返される「好き」は完全に別の物だった。どう考えてもその二つは同じ価値ではなかった。

 スズの「好き」に京子が「好き」を返す事で京子は損をしてしまう気がしていた。

 仮に京子が「好き」を返したら、スズは更に「好き」を返してくれるのか。いや。くれない。キスをしてもらえたスズはただ満足をしてしまうだけだ。そこで終わる。

 一区切りだ。

 京子はそれに納得がいっていなかった。

 そんな感情は「好き」でも何でもないだろう。京子は肩をすくめる。

「ん」と自分から唇を突き出してくるスズにキスをしたいとは思えない。

 でも。今現在の伏し目がちなスズのあごをくいっと持ち上げてなら「ちゅ」としてあげても良いかなとは思えた。

「え?」

 見上げるスズと見下ろす京子。身長差のある二人の目が合う。見詰め合う。

「…………」

 京子は何も言わない。スズもまた何も聞いてはこなかった。

 すっと。京子の強い視線に押し負けたみたいにスズはまぶたを閉じた。

 場所は教室。昼休み。クラスメイト達が横目で注目をしていた――。

 ――たっぷりと数秒後。突き出されてはいなかったスズの小さな唇に、

「ちゅ」

 と唇が押し当てられる。


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