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3.人の想い
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屋敷に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
冷たさは消え、柔らかな風が頬を撫でる。鼻先をくすぐるのは、花の香りだった。
「……春だ」
志帆は、思わず呟いた。
屋敷の庭園には、花が咲き誇っていた。
桜だけではない。桃の花、藤、名を知らぬ花々。
春の季節に咲くはずの花が、折り重なるように庭を彩っている。
「春屋敷は、春という季節そのものを留めている場所なんでしょうね」
翠が静かに呟く。
屋敷は歴史を感じさせる古い建物だったが、荒れた様子はない。
縁側は磨かれ、障子も張り替えられている。
敷地の端には、小さな洋館も建っている。
早桃から許可は得ているが、それでも他人の領域へ踏み込んでいく感覚は、どこか居心地が悪かった。
「花嵐さん、お届け物です」
志帆がそう呼びかけると、風が少しだけ強く吹いた。
花びらが舞い、屋敷の奥へと流れていく。
導かれるように、その先を見る。
そこに、一人の男が立っていた。
白い髪だが、顔立ちは若い。
人の時間から切り離された存在だと、一目で分かる。
瞳は、淡い青と桃色の二色を宿し、静かに志帆を見つめていた。
「月島志帆といいます。そしてこちらは翠。屋敷に押し入る形になってしまい、すみません」
名を名乗ると、花嵐はわずかに目を伏せた。
「志帆に、翠…か。よくここまで辿り着いたものだ」
声は低く、穏やかだった。
拒絶ではない。だが、歓迎とも言えない。
「早桃さんから、お届け物です」
志帆は一歩前に出て、包みを差し出した。
「春宮桜子さんの形見だそうです。これを、貴方に返したいと仰っていました」
花嵐は、それをすぐには受け取らなかった。
「あの子は元気だろうか」
「正直にお伝えしても、よろしいでしょうか」
頷く花嵐に対し、志帆は視線を逸らさずに答えた。
「病により、余命は半年ほどだそうです」
沈黙が落ちる。
花嵐の周囲で、花が静かに揺れた。
先ほどまで光を纏っていた花々が、わずかに影を落としたように見える。
「ひとつ、提案があります」
志帆は、意を決して言った。
「花嵐さんから、早桃さんへ。春屋敷への招待状を出すことはできませんか」
一瞬、花嵐の目が揺れた。
「お二人の間に何があったのか、私には分かりません。ですが、この包みを渡して終わりにするのはどうしても、気がかりで」
どうか、考えてほしい。その想いを、志帆は言葉に乗せた。
「…わざわざ来てもらったのに、すまないな」
花嵐は、ぽつりと呟いた。
「逃げてしまった拙には、もう早桃に合わせる顔がない」
「それは―」
志帆は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
代わりに、翠が一歩前へ出る。
「僕たちにとって、人の一生は瞬く間の出来事です。それでも、半年もの時間が貴方には残されている」
「翠、」
翠のいつもと違う様子に志帆は戸惑った。
「その“逃げた”ことを、後悔しているのなら、今からでも遅くはないと思いますよ」
静かに言葉を紡ぐ翠を、花嵐は見つめた。
「君は付喪神か」
「はい」
「若いからだろうか。ずいぶんと、人に肩入れするのだな」
「人に、ではありません」
翠は、少しだけ柔らかく微笑んだ。
「人の想いに、肩入れしてしまうようになりました」
再び、沈黙。
やがて、花嵐は包みを受け取った。
その手が、わずかに震えている。
花の香りが、ひときわ強くなる。
「…少し、考える時間をくれ」
それは、拒絶ではなかった。
春屋敷の奥で、季節は変わらず留まり続けている。
だが確かに。
何かが、静かに動き始めていた。
冷たさは消え、柔らかな風が頬を撫でる。鼻先をくすぐるのは、花の香りだった。
「……春だ」
志帆は、思わず呟いた。
屋敷の庭園には、花が咲き誇っていた。
桜だけではない。桃の花、藤、名を知らぬ花々。
春の季節に咲くはずの花が、折り重なるように庭を彩っている。
「春屋敷は、春という季節そのものを留めている場所なんでしょうね」
翠が静かに呟く。
屋敷は歴史を感じさせる古い建物だったが、荒れた様子はない。
縁側は磨かれ、障子も張り替えられている。
敷地の端には、小さな洋館も建っている。
早桃から許可は得ているが、それでも他人の領域へ踏み込んでいく感覚は、どこか居心地が悪かった。
「花嵐さん、お届け物です」
志帆がそう呼びかけると、風が少しだけ強く吹いた。
花びらが舞い、屋敷の奥へと流れていく。
導かれるように、その先を見る。
そこに、一人の男が立っていた。
白い髪だが、顔立ちは若い。
人の時間から切り離された存在だと、一目で分かる。
瞳は、淡い青と桃色の二色を宿し、静かに志帆を見つめていた。
「月島志帆といいます。そしてこちらは翠。屋敷に押し入る形になってしまい、すみません」
名を名乗ると、花嵐はわずかに目を伏せた。
「志帆に、翠…か。よくここまで辿り着いたものだ」
声は低く、穏やかだった。
拒絶ではない。だが、歓迎とも言えない。
「早桃さんから、お届け物です」
志帆は一歩前に出て、包みを差し出した。
「春宮桜子さんの形見だそうです。これを、貴方に返したいと仰っていました」
花嵐は、それをすぐには受け取らなかった。
「あの子は元気だろうか」
「正直にお伝えしても、よろしいでしょうか」
頷く花嵐に対し、志帆は視線を逸らさずに答えた。
「病により、余命は半年ほどだそうです」
沈黙が落ちる。
花嵐の周囲で、花が静かに揺れた。
先ほどまで光を纏っていた花々が、わずかに影を落としたように見える。
「ひとつ、提案があります」
志帆は、意を決して言った。
「花嵐さんから、早桃さんへ。春屋敷への招待状を出すことはできませんか」
一瞬、花嵐の目が揺れた。
「お二人の間に何があったのか、私には分かりません。ですが、この包みを渡して終わりにするのはどうしても、気がかりで」
どうか、考えてほしい。その想いを、志帆は言葉に乗せた。
「…わざわざ来てもらったのに、すまないな」
花嵐は、ぽつりと呟いた。
「逃げてしまった拙には、もう早桃に合わせる顔がない」
「それは―」
志帆は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
代わりに、翠が一歩前へ出る。
「僕たちにとって、人の一生は瞬く間の出来事です。それでも、半年もの時間が貴方には残されている」
「翠、」
翠のいつもと違う様子に志帆は戸惑った。
「その“逃げた”ことを、後悔しているのなら、今からでも遅くはないと思いますよ」
静かに言葉を紡ぐ翠を、花嵐は見つめた。
「君は付喪神か」
「はい」
「若いからだろうか。ずいぶんと、人に肩入れするのだな」
「人に、ではありません」
翠は、少しだけ柔らかく微笑んだ。
「人の想いに、肩入れしてしまうようになりました」
再び、沈黙。
やがて、花嵐は包みを受け取った。
その手が、わずかに震えている。
花の香りが、ひときわ強くなる。
「…少し、考える時間をくれ」
それは、拒絶ではなかった。
春屋敷の奥で、季節は変わらず留まり続けている。
だが確かに。
何かが、静かに動き始めていた。
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