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【7】
夜のお茶会
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太陽はすっかり山の後ろに隠れた。森を抜けると旅人達が足で踏み固めて出来たなだらかな道が現れる。森に生えている植物とは明らかに違う瀬の低い雑草が、雪のブランケットを肩までかぶらせていた。
時折息をつくように降り止む雪は少しずつ、そして溶けること無く層を重ねていく。北の国境沿いまで来ると白くなった小さな雑木林が至る所で凍えるように立っていた。所々倒されていたり焦げているのは、そこが戦場だった証だ。
そんな場所でも道の先には小さな集落があった。まわりをぐるりと囲む柵はその先端を鋭く尖らせてある。比較的小さな地方の村だが、入口には門番の役目を担った村人が立っていて奥には鍛冶屋や商店、宿屋もある。
王都から遠く離れた場所に位置しそれでも廃れずいられるのは、国境が近く旅人や荷物を運ぶ商人達の出入りが多いからだろう。皆この場所で荷を下ろし、備品を補充し、英気を養い、また次の旅へと向かうのだ。
カールトンは集落の端にある宿屋の前で馬の手綱を引いた。石と黒く古びた木板で出来た壁、そして冬の寒さを和らげるためか屋根には藁が敷き詰めてある。店先にぶら下がっている看板はそれほど古いものではないが、塗られた漆喰は痛みが多く、剥がれた隙間から雑草が生えていた。
扉を開くと髭の生えた中年の男がカウンターから顔を出し、そしてその背から茶色い髪をひとつにまとめた女性が「いらっしゃい」と、にこやかに笑う。彼女の腹は荷物を沢山詰め込んだリュックのように膨らんでいた。妊婦らしい。
ポルトの視線は思わずそこに惹かれ、気がついた女性が「来月出てくる予定なの」と声を弾ませた。
「部屋は残ってるか?」
床板を革靴が踏み硬質な音を鳴らす。
「ええ、今夜は静かなもんだわ。どの部屋だって空いてるわよ」
エプロンで濡れた手を拭きながら女は宿帳をカウンターに出した。カールトンはそこに羽ペンを走らせる。その姿を見ながら、ポルトはふと小首をかしげた。彼はどこで読み書きを習ったんだろか?
「お二人様一泊ね。朝食は出来たらベルを鳴らすから。宿代は前金だけど良いかしら?」
「ああ」
カールトンは腰帯に下げた巾着の口を広げる。掲示された料金を渡すと二階のどの部屋でも好き選んで良いと言われた。
カールトンは一番奥の部屋の扉を開き、ポルトも後に続く。
「わぁ…、思っていたより綺麗なお部屋ですね……っ」
柱にはファールン王都ではあまり見ない文様が描画されていて、ポルトは思わず立ち止まって見入った。きっと北国の装飾技術が混じっているのだろう。蔦にも似た曲線を描く二本のラインが複雑に絡み合っていて、そこには鹿とよく似た生き物の姿も彫刻されている。大きな角にしっかりとした鼻先…。この角の張り方は見たことはない。北国の動物なのだろう。
室内には小さな暖炉と必要最低限のものしか置かれていない。床板は一歩歩くごとにキィキィと鳴く質素な造りであったが、ベッドを見つけると思わず肩の力が抜ける。今夜は硬い土の上で眠らなくて済むようだ。
急な客ではあったが、夫婦は二人に夕食を用意してくれた。温かいスープとパンで冷え切った腹を満たしたポルトは、ふぅっと息をつく。その後カールトンは早々に部屋に戻り、ポルトは店主の妻と二人でデザートとして出されたドライフルーツの甘さに目を細めた。
「えーと…アナタがキーさん?」
「?」
妻の言葉にキョトンとした顔のポルト。
「宿帳に書かれていた名前がキー=ターナーとホーン=ターナーだったから。アナタがキーさんなのかと思ったんだけど……」
何のことかと思ったら名前だった。
それにしても何故カールトンはそんな名を……?と思った瞬間に閃いた。カウンターの壁側に本棚が置いてある……。つまり「木の棚」と「本の棚」というわけだ。そのネーミングセンスに通じるもの感じ、思わず感慨にふけった。何故か鼻の奥がツンとして、天井を仰ぐ。
「ねぇ、貴女達、夫婦なの??」
妻の問にポルトは喉を詰まらせる。飛び跳ねた身体が古いテーブルをガタンと揺らした。
色々口から吹き出した何かを袖でぐいっと拭う。
「ゲホゲホゲホッ!……ち・違いますよっ」
「あら、ごめんなさい。名字同じだし、見た目も兄妹ってわけじゃなさそうだし……つい…。お仕事仲間なのかしらね?」
「……まぁ、でもそんな感じです」
王都から離れているとは言え、ここはまだファールン領。あまり細かいことは話せない。
野盗のアジトで手に入れた服がカールトンに与えられた時のものより女性らしいデザインをしていたせいか、今回は男に間違われなかったみたいだ。それはちょっと嬉しかった。
「これから何処へ行くの?北へ行くには大変だと思うんだけど、急ぎの用事でもあるの?」
「一緒に来た彼が知っていると思うのですけど、あまり話をしてくれる人ではないので私も詳しいことは……。ここに来る前に別の人にも北は止められたので、ちょっと不安なんですけど……」
「あらまぁ…大変ねぇ。お仕事で旅をしているのなら、きっと取引先から内密にって言われているのね。よくいるのよ、そういうお客さん。明日は天気も良いだろうから馬も歩きやすいと思うわ。私も貴女達みたいにどこかよその地へ旅に出られたら良いのに。生まれてからずっとこの村にいるのよ」
「ずっと居られる場所があるというのも良いことですよ」、ポルトはそう思ったが口にはしなかった。店主の妻は少し飽き飽きした顔で頬杖をつく。
「はぁ……。毎日毎日同じ風景の中で同じ作業の繰り返し。いい加減飽きちゃうわよね。だからこうやって宿屋をやることにしたのよ。そしたら旅人から色んな話が聞けるでしょ?」
そう言ってふふっと妻は笑う。
「店主…旦那様もこの村の方なのですか?」
「旦那は隣の村の出身よ。三年に一回、この辺りの農村で集まって開かれるお祭りがあるんだけど、そこで知り合ってね。結婚して二年になるわ。結婚といえば貴女もそろそろ良いお年頃でしょ?そういう話はないの?」
「!」
「もしかして一緒に来た彼氏?夫婦じゃなくて恋人だったとか?」
「っ!?」
少し意地悪そうな目をして女はにんまりと笑う。女同士でありがちな何気ない会話だが、今の自分には少しトゲが刺さる。深入りされないようにとっさに話題を変えた。
「いえいえっ!私はまだそっちの方は考えて無くて。お・お相手もいないし…っ。あ、そうだ!この村って頑丈な柵があるんですね!作るのも大変だったでしょう。この辺りにはやっぱり物騒な人たちが多いのでしょうかっ?も・もし野盗が多かったら出立前に鍛冶屋へ寄って行った方がいいですよねっ」
「あー、そうねぇ。国境を行き交う荷物って珍しい物も結構あるみたいでねぇ、ちょっと良い荷車は空でも襲われるって噂もあるくらいよ。こんな小さな村なんていつ襲われてもおかしくない。こっちだって何もしないわけにはいかないでしょ。そのひとつがあの柵ってわけ」
「やっぱり…そういうものですよね……。野盗から見ればこの辺りは隠れる場所だっていくらでもあるし、国境を越えてしまえば衛兵も追いかけることが難しくなりますものね。やっぱりここを出る前に鍛冶屋さん寄っていこうかな……」
「一応ここには自警団もいるし、賊を追い出したことだってあるわ。だからアナタ達もここにいる間は安心して大丈夫よ。それにマルコ…旦那は顔立ちは派手じゃないけど、毎日の薪割りや水汲みで鍛えた腕っぷしはなかなかのもんよ!何かあってもきっと守ってくれるわ。彼ね、私のこと大切にしてくれるの。平凡だけど毎日それなりに楽しくやれてるのは彼のおかげね。それにもうじきこの子にも会えるし……。賊なんかに負けてなんかいられないわ」
妻は嬉しそうに大きくなった腹を撫でる。
「お腹の中がそろそろ狭いみたいでね。内側から蹴って…変形するのがわかるくらいよ」
「そ・そんなことがあるんですね……!」
「触ってみる?」
「っ!?そんな…だ・駄目ですよ!大切なお腹なのに……!」
「色んな人に撫でてもらった方が安産になるっていう話もあるし。ほら、それに貴女も近い将来、こんなお腹になるかもしれないでしょ?どんなものか勉強しておいたら?」
ニコニコ顔の妻の提案にポルトは思い切り首を振った。ぽんぽこりんに膨らんだそれは、なんだかとっても神聖なものに見えてしまう。例えるならウルム大聖堂の一番奥にある聖神具のよう。皆に見守られ、守らなくてはならないもので、こんな何を触ってきたかわからないような手で触れたら汚れてしまうのではないだろうか。
「大丈夫よっ。ホラ、手を出してっ」
「で・でもっ」
「優しくね?」
畑仕事で荒れた手が少女の掌をきゅっと握った。「ほら、どうぞ」と促され、しばらく鼓動を踊らせながら固まった後、ゆっくりと息を呑む。小さな赤ん坊に触れることは初めてではない。なんなら世話だってしたこともある。でも外に出てくる前の子は初めてだ。好奇心と動揺が入り交じる手が胸元から動かない。妻は固まっているその片手を大きく膨らんだ自分の腹へと導いた。
「!」
世界一優しい曲線に自分の手が触れる。その大きさにも驚いたが、少しして内側からドンと振動が来た時は思わず金瞳が大きくなった。錯覚だったのではないかと凝視したが、すぐにもう一度振動が届いた。「生きてるよ」、そんな声なき意志を確かに感じた。
「…っ!…っ!」
「ね?動くでしょ?」
「ぅ…!うご……!うごごご……っっ!」
何かをとてもとても訴えたい瞳。上手く言葉にならない。そのあまりの必死な形相に女は眉を下げて笑った。
ポルトはしばらく身を固くし、大きなお腹をじいっと見つめる。目の前に見えているのは一人。でも本当は違う。ここには二人いる。その事実は頭でわかっていたことなのに、動揺したままで上手く繋がらない。でもこの手で感じた小さな命の振動は、強い強い衝撃となって魂にまで響いてくるようだった。
「あっはっはっは!貴女って子供みたいな反応するのね!貴女の村にだって妊婦はいたでしょ?」
「――……」
ポルトは首を振る。妊婦は旅先や遠征先で見かけることはあったが所詮見知らぬ者同士。声を掛ける機会など殆どなかった。
「あら、そうだったの。弟妹はいる?いるならお母さんのお腹に触ったことあるでしょ?」
「お…かア…さン……?」
この言葉を口にしたのは何年ぶりのことだろうか。姿すら見たことがない存在だ。初めからいない人間に寂しさを感じたことは無かったが、この瞬間少しだけ…その気配に触れたいと思った。今までにない…不思議な感覚だ。
「うち、片親で……」
「あ、そうだったのね…!私ったら無神経なこと言っちゃって…ごめんなさい……っ」
「いえ、問題ありません!父は優しいし、兄妹もいたので!」
「あ、お茶のおかわり入れるわね。お詫びにお菓子つけちゃう」
「あの……!本当にお気遣いなく…!」
「何かと理由をつけて私が食べたいだけなのよ。気にしないで。…よっこいしょっと」
「奥様っ、座っていてくださっ。私が…!私が全部やりますからぁ…っ!!」
何故だかわからないが急に頭のスイッチが切り替わったように、この妊婦が動き回ることを本能が心底嫌がった。物を取ってくること位いくらでも代わってやれる。できればベッドで大人しく寝ていて欲しい。
聞けばこの村には昔から伝わる特別なお茶があるらしく、ポルトはその煎れ方を教わった。妊婦用のもので、気持ちを落ち着かせて毎日飲めば安産になると言われているそうだ。
「明日、出立前に茶葉をわけてあげる。濡らさなければ一年はもつわよ。貴女もそのうち必要になるでしょ。旅先で知り合った他の妊婦さんに分けてあげてもいいし」
「私が?」
妻の表情とはうって変わって、ポルトは唖然としている。
いつか…そんな日が来るんだろうか?
その時には新しい誰かが側にいるということで……。
きっとあの王子のことなんて過去の思い出話になっていて……。
(――……)
あの人と同じ色の瞳を見ても、同じ位の背丈の人を見ても、似たような声を聞いても何とも思わなくなっていて……。
涙がでるほど嬉しかった記憶も、切なかった記憶も全てが色褪せて、いつか聞いたお伽噺のように冗談交じりに話せるような日が来る……と?
思い出の重さを表すようにポルトの視線がゆっくりと沈む。
必要になるのは自分ではなく彼の方だろう。
新しいリガルティアを迎え、結婚の翌年にはきっと花嫁はこんなお腹になっているに違いない。……いや、彼のことだ。結婚式の日にはすでに花嫁のお腹が大きくなっていることだって考えられる。あの人なら本当にやりかねない……。
瞼を閉じれば光景が目に浮かぶ。
――空気を揺らす大聖堂の鐘。楽師がリュートや笛で良き日を祝う旋律を奏でる。城の前では民達が色とりどりの花びらを真っ青な空に放り、子供たちが広場で輪になって踊る。
皆も陛下も、花嫁も殿下も笑顔で皆笑っていて…さながら幸せに包まれて終わる絵本の最終ページのよう。
……ふいに胃がちくちくと痛みだし、背が小さく丸まった。
時折息をつくように降り止む雪は少しずつ、そして溶けること無く層を重ねていく。北の国境沿いまで来ると白くなった小さな雑木林が至る所で凍えるように立っていた。所々倒されていたり焦げているのは、そこが戦場だった証だ。
そんな場所でも道の先には小さな集落があった。まわりをぐるりと囲む柵はその先端を鋭く尖らせてある。比較的小さな地方の村だが、入口には門番の役目を担った村人が立っていて奥には鍛冶屋や商店、宿屋もある。
王都から遠く離れた場所に位置しそれでも廃れずいられるのは、国境が近く旅人や荷物を運ぶ商人達の出入りが多いからだろう。皆この場所で荷を下ろし、備品を補充し、英気を養い、また次の旅へと向かうのだ。
カールトンは集落の端にある宿屋の前で馬の手綱を引いた。石と黒く古びた木板で出来た壁、そして冬の寒さを和らげるためか屋根には藁が敷き詰めてある。店先にぶら下がっている看板はそれほど古いものではないが、塗られた漆喰は痛みが多く、剥がれた隙間から雑草が生えていた。
扉を開くと髭の生えた中年の男がカウンターから顔を出し、そしてその背から茶色い髪をひとつにまとめた女性が「いらっしゃい」と、にこやかに笑う。彼女の腹は荷物を沢山詰め込んだリュックのように膨らんでいた。妊婦らしい。
ポルトの視線は思わずそこに惹かれ、気がついた女性が「来月出てくる予定なの」と声を弾ませた。
「部屋は残ってるか?」
床板を革靴が踏み硬質な音を鳴らす。
「ええ、今夜は静かなもんだわ。どの部屋だって空いてるわよ」
エプロンで濡れた手を拭きながら女は宿帳をカウンターに出した。カールトンはそこに羽ペンを走らせる。その姿を見ながら、ポルトはふと小首をかしげた。彼はどこで読み書きを習ったんだろか?
「お二人様一泊ね。朝食は出来たらベルを鳴らすから。宿代は前金だけど良いかしら?」
「ああ」
カールトンは腰帯に下げた巾着の口を広げる。掲示された料金を渡すと二階のどの部屋でも好き選んで良いと言われた。
カールトンは一番奥の部屋の扉を開き、ポルトも後に続く。
「わぁ…、思っていたより綺麗なお部屋ですね……っ」
柱にはファールン王都ではあまり見ない文様が描画されていて、ポルトは思わず立ち止まって見入った。きっと北国の装飾技術が混じっているのだろう。蔦にも似た曲線を描く二本のラインが複雑に絡み合っていて、そこには鹿とよく似た生き物の姿も彫刻されている。大きな角にしっかりとした鼻先…。この角の張り方は見たことはない。北国の動物なのだろう。
室内には小さな暖炉と必要最低限のものしか置かれていない。床板は一歩歩くごとにキィキィと鳴く質素な造りであったが、ベッドを見つけると思わず肩の力が抜ける。今夜は硬い土の上で眠らなくて済むようだ。
急な客ではあったが、夫婦は二人に夕食を用意してくれた。温かいスープとパンで冷え切った腹を満たしたポルトは、ふぅっと息をつく。その後カールトンは早々に部屋に戻り、ポルトは店主の妻と二人でデザートとして出されたドライフルーツの甘さに目を細めた。
「えーと…アナタがキーさん?」
「?」
妻の言葉にキョトンとした顔のポルト。
「宿帳に書かれていた名前がキー=ターナーとホーン=ターナーだったから。アナタがキーさんなのかと思ったんだけど……」
何のことかと思ったら名前だった。
それにしても何故カールトンはそんな名を……?と思った瞬間に閃いた。カウンターの壁側に本棚が置いてある……。つまり「木の棚」と「本の棚」というわけだ。そのネーミングセンスに通じるもの感じ、思わず感慨にふけった。何故か鼻の奥がツンとして、天井を仰ぐ。
「ねぇ、貴女達、夫婦なの??」
妻の問にポルトは喉を詰まらせる。飛び跳ねた身体が古いテーブルをガタンと揺らした。
色々口から吹き出した何かを袖でぐいっと拭う。
「ゲホゲホゲホッ!……ち・違いますよっ」
「あら、ごめんなさい。名字同じだし、見た目も兄妹ってわけじゃなさそうだし……つい…。お仕事仲間なのかしらね?」
「……まぁ、でもそんな感じです」
王都から離れているとは言え、ここはまだファールン領。あまり細かいことは話せない。
野盗のアジトで手に入れた服がカールトンに与えられた時のものより女性らしいデザインをしていたせいか、今回は男に間違われなかったみたいだ。それはちょっと嬉しかった。
「これから何処へ行くの?北へ行くには大変だと思うんだけど、急ぎの用事でもあるの?」
「一緒に来た彼が知っていると思うのですけど、あまり話をしてくれる人ではないので私も詳しいことは……。ここに来る前に別の人にも北は止められたので、ちょっと不安なんですけど……」
「あらまぁ…大変ねぇ。お仕事で旅をしているのなら、きっと取引先から内密にって言われているのね。よくいるのよ、そういうお客さん。明日は天気も良いだろうから馬も歩きやすいと思うわ。私も貴女達みたいにどこかよその地へ旅に出られたら良いのに。生まれてからずっとこの村にいるのよ」
「ずっと居られる場所があるというのも良いことですよ」、ポルトはそう思ったが口にはしなかった。店主の妻は少し飽き飽きした顔で頬杖をつく。
「はぁ……。毎日毎日同じ風景の中で同じ作業の繰り返し。いい加減飽きちゃうわよね。だからこうやって宿屋をやることにしたのよ。そしたら旅人から色んな話が聞けるでしょ?」
そう言ってふふっと妻は笑う。
「店主…旦那様もこの村の方なのですか?」
「旦那は隣の村の出身よ。三年に一回、この辺りの農村で集まって開かれるお祭りがあるんだけど、そこで知り合ってね。結婚して二年になるわ。結婚といえば貴女もそろそろ良いお年頃でしょ?そういう話はないの?」
「!」
「もしかして一緒に来た彼氏?夫婦じゃなくて恋人だったとか?」
「っ!?」
少し意地悪そうな目をして女はにんまりと笑う。女同士でありがちな何気ない会話だが、今の自分には少しトゲが刺さる。深入りされないようにとっさに話題を変えた。
「いえいえっ!私はまだそっちの方は考えて無くて。お・お相手もいないし…っ。あ、そうだ!この村って頑丈な柵があるんですね!作るのも大変だったでしょう。この辺りにはやっぱり物騒な人たちが多いのでしょうかっ?も・もし野盗が多かったら出立前に鍛冶屋へ寄って行った方がいいですよねっ」
「あー、そうねぇ。国境を行き交う荷物って珍しい物も結構あるみたいでねぇ、ちょっと良い荷車は空でも襲われるって噂もあるくらいよ。こんな小さな村なんていつ襲われてもおかしくない。こっちだって何もしないわけにはいかないでしょ。そのひとつがあの柵ってわけ」
「やっぱり…そういうものですよね……。野盗から見ればこの辺りは隠れる場所だっていくらでもあるし、国境を越えてしまえば衛兵も追いかけることが難しくなりますものね。やっぱりここを出る前に鍛冶屋さん寄っていこうかな……」
「一応ここには自警団もいるし、賊を追い出したことだってあるわ。だからアナタ達もここにいる間は安心して大丈夫よ。それにマルコ…旦那は顔立ちは派手じゃないけど、毎日の薪割りや水汲みで鍛えた腕っぷしはなかなかのもんよ!何かあってもきっと守ってくれるわ。彼ね、私のこと大切にしてくれるの。平凡だけど毎日それなりに楽しくやれてるのは彼のおかげね。それにもうじきこの子にも会えるし……。賊なんかに負けてなんかいられないわ」
妻は嬉しそうに大きくなった腹を撫でる。
「お腹の中がそろそろ狭いみたいでね。内側から蹴って…変形するのがわかるくらいよ」
「そ・そんなことがあるんですね……!」
「触ってみる?」
「っ!?そんな…だ・駄目ですよ!大切なお腹なのに……!」
「色んな人に撫でてもらった方が安産になるっていう話もあるし。ほら、それに貴女も近い将来、こんなお腹になるかもしれないでしょ?どんなものか勉強しておいたら?」
ニコニコ顔の妻の提案にポルトは思い切り首を振った。ぽんぽこりんに膨らんだそれは、なんだかとっても神聖なものに見えてしまう。例えるならウルム大聖堂の一番奥にある聖神具のよう。皆に見守られ、守らなくてはならないもので、こんな何を触ってきたかわからないような手で触れたら汚れてしまうのではないだろうか。
「大丈夫よっ。ホラ、手を出してっ」
「で・でもっ」
「優しくね?」
畑仕事で荒れた手が少女の掌をきゅっと握った。「ほら、どうぞ」と促され、しばらく鼓動を踊らせながら固まった後、ゆっくりと息を呑む。小さな赤ん坊に触れることは初めてではない。なんなら世話だってしたこともある。でも外に出てくる前の子は初めてだ。好奇心と動揺が入り交じる手が胸元から動かない。妻は固まっているその片手を大きく膨らんだ自分の腹へと導いた。
「!」
世界一優しい曲線に自分の手が触れる。その大きさにも驚いたが、少しして内側からドンと振動が来た時は思わず金瞳が大きくなった。錯覚だったのではないかと凝視したが、すぐにもう一度振動が届いた。「生きてるよ」、そんな声なき意志を確かに感じた。
「…っ!…っ!」
「ね?動くでしょ?」
「ぅ…!うご……!うごごご……っっ!」
何かをとてもとても訴えたい瞳。上手く言葉にならない。そのあまりの必死な形相に女は眉を下げて笑った。
ポルトはしばらく身を固くし、大きなお腹をじいっと見つめる。目の前に見えているのは一人。でも本当は違う。ここには二人いる。その事実は頭でわかっていたことなのに、動揺したままで上手く繋がらない。でもこの手で感じた小さな命の振動は、強い強い衝撃となって魂にまで響いてくるようだった。
「あっはっはっは!貴女って子供みたいな反応するのね!貴女の村にだって妊婦はいたでしょ?」
「――……」
ポルトは首を振る。妊婦は旅先や遠征先で見かけることはあったが所詮見知らぬ者同士。声を掛ける機会など殆どなかった。
「あら、そうだったの。弟妹はいる?いるならお母さんのお腹に触ったことあるでしょ?」
「お…かア…さン……?」
この言葉を口にしたのは何年ぶりのことだろうか。姿すら見たことがない存在だ。初めからいない人間に寂しさを感じたことは無かったが、この瞬間少しだけ…その気配に触れたいと思った。今までにない…不思議な感覚だ。
「うち、片親で……」
「あ、そうだったのね…!私ったら無神経なこと言っちゃって…ごめんなさい……っ」
「いえ、問題ありません!父は優しいし、兄妹もいたので!」
「あ、お茶のおかわり入れるわね。お詫びにお菓子つけちゃう」
「あの……!本当にお気遣いなく…!」
「何かと理由をつけて私が食べたいだけなのよ。気にしないで。…よっこいしょっと」
「奥様っ、座っていてくださっ。私が…!私が全部やりますからぁ…っ!!」
何故だかわからないが急に頭のスイッチが切り替わったように、この妊婦が動き回ることを本能が心底嫌がった。物を取ってくること位いくらでも代わってやれる。できればベッドで大人しく寝ていて欲しい。
聞けばこの村には昔から伝わる特別なお茶があるらしく、ポルトはその煎れ方を教わった。妊婦用のもので、気持ちを落ち着かせて毎日飲めば安産になると言われているそうだ。
「明日、出立前に茶葉をわけてあげる。濡らさなければ一年はもつわよ。貴女もそのうち必要になるでしょ。旅先で知り合った他の妊婦さんに分けてあげてもいいし」
「私が?」
妻の表情とはうって変わって、ポルトは唖然としている。
いつか…そんな日が来るんだろうか?
その時には新しい誰かが側にいるということで……。
きっとあの王子のことなんて過去の思い出話になっていて……。
(――……)
あの人と同じ色の瞳を見ても、同じ位の背丈の人を見ても、似たような声を聞いても何とも思わなくなっていて……。
涙がでるほど嬉しかった記憶も、切なかった記憶も全てが色褪せて、いつか聞いたお伽噺のように冗談交じりに話せるような日が来る……と?
思い出の重さを表すようにポルトの視線がゆっくりと沈む。
必要になるのは自分ではなく彼の方だろう。
新しいリガルティアを迎え、結婚の翌年にはきっと花嫁はこんなお腹になっているに違いない。……いや、彼のことだ。結婚式の日にはすでに花嫁のお腹が大きくなっていることだって考えられる。あの人なら本当にやりかねない……。
瞼を閉じれば光景が目に浮かぶ。
――空気を揺らす大聖堂の鐘。楽師がリュートや笛で良き日を祝う旋律を奏でる。城の前では民達が色とりどりの花びらを真っ青な空に放り、子供たちが広場で輪になって踊る。
皆も陛下も、花嫁も殿下も笑顔で皆笑っていて…さながら幸せに包まれて終わる絵本の最終ページのよう。
……ふいに胃がちくちくと痛みだし、背が小さく丸まった。
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