英雄の弾丸

葉泉 大和

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3-20 籠の外

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 ***

 小さな町全体を見渡せる花が咲く丘――、そこに一人の女性が座っていた。

 オレオルはその女性の姿を見かけると、自分でも不思議なくらい自然に口元を綻ばせ、

「相変わらずここにいるんだな、クレディ」

 町を見渡す女性――クレディに声を掛けた。

 オレオルの声を聞いたクレディは、視線をトリクルからオレオルに移すと、町を見ていた時と同じような笑みを見せた。否、その笑みはより慈愛に満ち溢れていた。そして、クレディの肩まで届く髪が風によって小さくなびく。

「――あなたもね、オレオル。そんなにこの場所が気に入ったのかしら」

 この場所は、オレオルが初めてクレディと出会った時に教えてもらった場所だ。

 クレディに強引に手を引かれながら連れて行かれた場所は、オレオルの心を動かした。この時初めて自分が生きている町を見渡すことが出来たし、綺麗に咲き誇る花に、その花をうっとりと見つめるクレディに、目を奪われたものだ。

 あれから数年の時が経ち、二人の体も幼かった子供の体から少しずつ大人の体へと成長していった。

 しかし、変わったのはそれだけだ。
 オレオルは今でもこの場所に来ると、初めてここに来た時のことを思い出せる。

「――ああ、そうだな」

 オレオルは頭に付けているカチューシャに触れながら、自身の気持ちを隠すことなく堂々と言った。

 いつしかオレオルはコルドから自由な時間をもらうと、この場所に来ることが当然のこととなっていた。この丘に来たら、必ずクレディに逢うことが出来るからだ。
 そして、クレディもこの場所でなら、普段逢うことは難しいオレオルにもいつか逢うことが出来ると分かっているから、この場所に毎日足を運んでいた。

 だから、オレオルとクレディの間で、この丘で会うことが暗黙の了解になっていた。

「……どうした? 顔が赤いぞ」

 言葉が返って来ないクレディを不思議に思って見てみると、その表情は見て分かるほどに真っ赤に染まっていた。それに、どこかボーっとオレオルのことを見つめている。

「ふ、ふんっ! 何でもないわ!」

 しかし、クレディはオレオルの指摘を受けると、勢いよく顔を背けた。オレオルは不思議に思いながらも、大して気にすることなく、クレディの左側に腰を下ろした。オレオルが隣に座っても、クレディは機嫌を損ねたようにそっぽを向いている。

 オレオルはふっと吐息を漏らすと、風に身を委ね、花の香に酔いしれ、目を閉じた。そして、そのままオレオルは地面に寝ころんだ。

「――」
「――」

 お互いの間に会話はなかった。

 しかし、それでもこの空気を気まずいと思ったことはないし、むしろオレオルはこの関係が好きだった。自身でも驚くほど、クレディとこの場所に、心を許している。このまま夢の世界に入り込むことだって可能だ。
 それは、いつも周囲に警戒を張り巡らせているオレオルにとって、本来ならあり得ないことだった。

「……また傷を増やしてるのね」

 やがて、クレディが口を開くのをきっかけに、オレオルは閉じていた目を開けた。見ると、右隣にいるクレディは、心配そうにオレオルのことを見つめていた。

「ああ。これが俺の仕事だからな。命令された以上、やるしかねぇ」

 クレディは自分と同じくらいの年齢のオレオルが、会うたびに怪我をする姿を見て、いつも心配し、胸を痛めていた。けれど、どれだけクレディがオレオルの心配をしたところで、オレオルの状況が変わる訳ではない。

 トリクルに暮らすクレディには、オレオルの後ろにいる人間――コルド・ブリガンがどれほど恐ろしい人間なのかを知っている。コルドに逆らった人間は、ただでは済まされない。そして、その評価の立役者こそ、クレディの隣にいるオレオルなのだ。

 クレディの隣で仰向けになっているオレオルの双眸は、遠い青空をはっきりと捉えていた。まるで違う世界を見据えているように、その眼光は鋭い。

 クレディはオレオルのこういう一面を見る時、自分とは住む世界が違う人間なのだと思ってしまう。
 しかし、その一方で、普通の人のように綺麗な景色にも心を動かす同じ人間なのだということも、短くも長くもない付き合いから知っている。

 だから、クレディは――、

「ねぇ、オレオルは何をして生きたいの?」
「――は?」

 オレオルは突如投げかけられた問いに、疑問符を浮かべた。思わず、寝ころんでいた体を起こし、クレディのことを見つめた。

 オレオルとクレディ、互いの視線が重なる。
 クレディは真剣な眼差しでオレオルのことを見ていた。

「……俺が何をして生きたいか」

 クレディの言葉を、自分に問いかけるようにオレオルは口にする。

 しかし、その問いの答えは、オレオルの中で何も浮かばなかった。

 オレオルという人間は、コルド・ブリガンに買われている身だ。こうして自由時間を与えられているから、何でも出来るように錯覚してしまうが、本来はそのような身分ではない。
 オレオルに自由など存在せず、オレオルの意志に関係なく、生涯コルドに身を捧げなければいけない立場なのだ。

 だから、自分自身のために生きようとは、一度も考えたことはなかった。

「ワタクシはコルド・ブリガン様に仕えて生きたいデス」
「茶化さないで」

 オレオルは無難であろう答えでやり過ごそうとしたが、その思惑は外れてしまった。
 クレディは変わらず真剣な表情を浮かべている。オレオルは諦めるように、一つ溜め息を吐いた。

「――さぁな。今まで俺は与えられた命令をこなすことだけに生きて来た。今更、夢だなんだに溺れるつもりはねぇよ」

 遠い空を見つめながら言うオレオルの瞳は、綺麗な琥珀色をしているのに、ぼんやりとしていた。

「……じゃあ、好きなものとかはないの?」
「――それこそ分からねぇ」
「……、そっか」

 クレディはオレオルの答えを聞いて、自分の膝に顔を埋めた。その表情は、膨れているような、拗ねているような、嘆いているような――、どこか複雑な表情だった。

「――ただ」

 オレオルの続く言葉に、クレディは顔を上げた。

 オレオルは先ほどと変わらずに空を見上げていたが、その瞳には光が灯っているように見えた。

 そして、オレオルは視線を空から町に落とし、

「ただ、ここから見る景色は嫌いじゃない。……何でだか分からないけど、ここにいる時だけは、俺の体の中が温かくなるんだ」

 心臓に優しく触れながら、確かにそう言った。

 クレディはオレオルに言葉を返すことが出来ず、ただただ黙ってオレオルの横顔を眺めていた。

 オレオルの顔つきは、心の中で確固とした譲れないものを持っている人の顔――、それと同じだ。初めて出会った時には考えられないような、微笑みをオレオルは携えている。そして、その瞳がクレディにも当てられた。
 オレオルの宝石のように輝く琥珀色の瞳に、クレディの中で突き動かされるような衝撃が走った。

「――ねぇ、オレオル」

 ふと思考がまとまるよりも早く、クレディの口が開き、

「私と二人でどこか遠い町へ逃げ出さない?」
「――は?」

 オレオルはあまりの突拍子のない言葉に、目を何度も瞬かせた。遠い空を見つめるクレディの瞳は、キラキラと輝き、希望に満ち溢れていた。

「……逃げる?」
「……」

 オレオルの言葉に、悪戯がバレた子供のようにクレディは肩をびくりと震わせた。

 オレオルはクレディの言葉を頭の中で何度も反芻するも、その言わんとする意味を理解出来ずにいた。それもそのはずだ。いきなりどこかへ逃げると言われても、ピンと来るはずがないだろう。
 そもそも言い出したクレディ本人が、つい口を滑らせてしまったと言いたいように、目を見開いていた。
 クレディの視線が、右往左往に忙しなく動くことから、動揺していることが分かる。

 自分の感情を優先させて、考えずに突拍子もなく行動してしまう――、クレディにはこういう節がある。
 恐らく今も思いついたことを、ぽろっと言ってしまっただけなのだろう。

 オレオルはどう答えるべきか考えあぐね、頭を掻いた。

「あのな――」

 そして、オレオルが口を開こうとした瞬間、クレディはすぐに唇をきゅっと結び直し、

「……っ、私ね、本で読んだんだけど、このダオレイスにはここ以上に素晴らしい景色がたくさんあるの! きっとオレオルの気に入る場所も、オレオルが本当にいるべき場所も見つかるわ!」

 オレオルの話を強引に断ち切って、自分の思いの丈をぶつけた。 よほど興奮しているのか、クレディは身を乗り出してオレオルに迫る勢いだ。

 オレオルは何も反応出来ない。

 暫しの沈黙とした時間が流れた後、クレディは自分の言葉に納得がいったようにしきりに頷くと、

「――うん、そうよ! それがいい! ね、いいでしょ? 行きましょう!」

 立ち上がって、オレオルに向かって手を差し伸べた。

「――っ」

 光輝くように陽に照らされたクレディに、オレオルは言葉を出すことは出来なかった。

 クレディの語る夢物語に一瞬、オレオルは心を掴まれてしまったのだ。そして、クレディの綺麗な瞳に、その夢物語の片鱗を垣間見てしまった。

 オレオルを満たす感覚は、クレディがオレオルを初めて引っ張り出してくれた時と同様だ。
 きっとこの差し伸べられた手を掴んでクレディと旅立てば、オレオルの世界はまた変わるだろう。

 ――そんな確信に似た予感が、オレオルの胸を疼いていた。

 運命に導かれるように、オレオルはゆっくりとクレディに向けて手を伸ばした。

 そして、その手が掴んだのは――、

「……バカなことを言うな。俺達はまだガキだ」

 ――クレディの手ではなく、空だった。

 手を伸ばしたオレオルの心を占めたのは、まだ見ぬ世界への恐怖だった。

 良くも悪くも、オレオルの世界はトリクルという町で完結してしまい、ダオレイスという世界のことを何も知らない。今までコルドの言う通りに従い、視野を広げる機会がなかったのだ。それに加え、生き抜くための知恵も力も持ち合わせていない。

 まだ見ぬ世界に憧れはあるものの、果てしなく広い世界に逃げ出して、クレディと生きていく自信がなかったのだ。

 オレオルはクレディから視線を逸らして、何も掴んでいない自分の手を見つめながら、

「そもそも俺と違って、お前には家族がいるだろ。仮に一緒に逃げ出したって、飯はどうする? 寝床だってそうだ。それに、道の途中で誰かに襲われたら――」
「オレオルが守ってくれるでしょ?」

 クレディの声に言葉を失った。

 反射的にオレオルは自分の手の平からクレディへと視線を移していた。クレディの顔は真剣そのもので、一切冗談を言っているようには見えなかった。

 確かにクレディの言う通り、誰かに襲われても、オレオルなら難なく返り討ちにすることが出来る。その点は、一切の杞憂に入らない。

 しかし、それでも――、

「――無理だ。俺にはこの町から逃げ出せない理由がある」

 オレオルの口からは否定の言葉が出ていた。

 この時、オレオルの頭に一人の人物の姿が過っていた。オレオルの買い主、コルド・ブリガンだ。コルドに買われて以来、ずっとオレオルはコルドに従って生きて来た。コルドに逆らったら、何をされるか分からない。今までコルドに相対する者は、悲惨な最後を迎えていた。
 
 ――それが、いつもコルドの隣にいたオレオルが把握している現実だ。

 その抗えない現実を思い、オレオルはゆっくりと目を閉じた。

 コルドがどんな最悪な人間でも、オレオルの世界はコルドが握っている。

「俺の事情知っているだろ? あいつは……」
「私が何とかしてみせるわ!」
「は?」

 オレオルは事情を読み込めず、間抜けた声を漏らした。
 自信に満ち溢れるクレディは、胸を叩いて堂々としている。

 オレオルは開けていた口を閉ざすと、

「……何をするつもりか分からないけど、馬鹿なことはやめろ。……俺は今の生活で――、十分だ」

 自身を嘲笑うような口調でクレディに言った。

 これは本心のはずだ。確かに外の世界を見てみたいとは思うが、コルドに買われてしまった以上、オレオルの自由は制限されてしまっている。それに、オレオルは生きる上での衣食住には困っていない。
 よく分からない外の世界に出て、わざわざ死にに行く必要はない。

 しかし、クレディはオレオルの意図を読み取ることはせず、

「いいから私に任せなさい! 絶対オレオルを自由にしてみせるから!」

 どれだけ否定材料を投げかけても、クレディは根拠のない自信で更にそれを否定してみせる。

 分からなかった。

「……どうして、そこまで」

 だから、オレオルは無意識に疑問の言葉を口にしていた。

 どうしてここまでクレディはオレオルに固執するのだろうか。

「決まってるじゃない」

 小さなオレオルの言葉を聞き取ると、

「私がオレオルと一緒にいたいからよ!」
「――ッ」

 クレディは満面の笑みを見せた。

 ――初めてだった。打算抜きで、オレオルと一緒にいたいと言ってくれた人に出会ったのは。

 オレオルはあまりの衝撃に言葉を発することが出来なかった。ただただ目の前にいるクレディという人物に心を奪われている。

 そして、クレディはもう一度にっこりと笑みを浮かべると、

「じゃ、約束ね! 明日、ここで待ってるから! 一緒に外の町に行こうね!」

 茫然とするオレオルを置いて、あっという間に走り去ってしまった。

「……っ、あ。お、おい、ちょっと待て! クレディ!」

 オレオルが気付いた時には、クレディは下り坂の力も借りて遠くまで走り去っていた。

 オレオルは立って追いかけることも間に合わず、ただクレディの背中が小さくなっていくのを黙って見守った。
 否、オレオルにとってクレディが勢いよく走ったところで、追い付くのはあまりにも簡単なことだ。しかし、それでもオレオルがクレディを追いかけなかったのは、きっとクレディの言葉を信じたかったからだ。

 クレディの語る淡い夢物語に、縋ってみたくなった。

「――弱いな、俺は」

 いつだって、オレオルはクレディのおかげで新しい世界を見ることが出来ている。自分一人では出来ないことも、クレディがいれば、叶えることが出来ると無根拠にそう思えてしまう。

 武力では誰にも引けを取らないはずのオレオルの、唯一の弱みだ。

 オレオルは一つ溜め息を吐くと、ずっと育ってきたトリクルの町を見下ろした。

 この場所より綺麗な場所とは、どんな場所だろうか。

 自分には似つかない空想に、空の色が茜色に変わるまでの間、ずっとオレオルは耽っていた。

 ――この時クレディの足を止めなかったことを、オレオルが一生後悔するようになったのは、早くもこの約束を交わした次の日のことだった。
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