36 / 154
1-35 優しい世界
しおりを挟む
***
そう。いつだって思い出されるのは、あの時のこと。
純粋だったあの頃、人をただ信じただけのあの頃。
そして、裏切られたあの日から襲ってくる絶望。
カペルは暗闇の世界で息を殺しながらも、ずっと負の感情の波に飲み込まれていた。誰とも接することなく、カペルにとって優しかったはずの世界も、今となってはカペルに関心一つ払わないでいる。
この黒に包まれた世界から抜け出したいと思っても、抜け出し方は分からなかった。そもそも抜け出したところで、現実世界ではこれ以上の苦痛を受けるに違いない。
だから、今日も心を焼きながら、抵抗もせずに底へ底へと堕ちていく――はずだった。
「ここに、います」
カペルの目の前にクルム・アーレントという旅人が現れてから、黒しか存在しなかった世界に一筋の光が差し込んだ。
過去に二度、現実世界を見せられるために、光のようなものが現れたことがあった。しかし、今回のそれは今までとは全く違っていた。
二度見た光が薄くぼやけた光だと表現するならば、今見える光は本物の光と表現するのに相応しいほど完全に輝いていた。
七年の間、一度も目の当たりにすることのなかった完全な光だ。
しかし、本当に小さな、意識しなければ儚く消えてしまいそうな光だった。
そして、光が差し込んだことをきっかけにして、完全に漆黒に染まっていたはずの世界が、均衡を保てずに歪み始めた。
その時、暗闇の世界に光の存在を拒むような言葉が響き渡った。
このカペルだけが存在する暗闇の世界に突如投じられた異物を、容赦なく言葉の剣と本物の剣をもって退けようとし始めた。
けれど、光は大小の形は変わるとしても、決してその輝きを失うことはない。
カペルはここまで傍観して、この光が暗闇の世界にとって都合の悪い存在だということがようやく理解できた。
光が強くなればなるほど、この世界は形を保てなくなり、壊れるのだ。
世界が曖昧になるのを阻止しようと、この世界の意志かは分からないが、色々な方法で世界は形作られようとしていた。しかし、その労力は虚しく、徐々に、しかし確実に、この暗黒の世界は瓦解していく。
しかし、カペルは見守り続けるものの、決定的にこの世界が壊れることはなかった。
カペルはどんどんと暗闇の底に堕ちていく中で、遠くに離れてゆく光を見ながら、考えた。
――この世界が壊れたら、どうなるのだろう。前のように、あの光のようにキラキラと世界が輝くのだろうか。
けれど、カペルは過去見た世界が思い出せなかった。どれほど色づいていて、綺麗な世界だったのか、もう思い出せない。それ以前に、カペルはこの世界から出るのが怖かった。
どうせ裏切られるに決まっている。誰が裏切られるために、わざわざ生きようとするのか。だから、自らの意志で何も聞こえなくなるまで、何も見えなくなるまで、底に行こう。
カペルを見守り続けているように輝くこの光だって、カペルが無視し続ければ、結局は愛想を尽かしてカペルのことをこの世界に一人置き去りにするに違いない。
しかし、そのカペルの考えとは違い、クルムの言葉一言一言が発せられる度に、光はむしろ輝きを増した。
カペルは、そのことを信じたくなくて、否定する。
――助けを呼ぶ声が聞こえたんです。その声を放っておくことは出来ませんから。
そんなの言葉だけだ。
――相手が誰であれ、どんな状況であろうと、人を傷つけることはしません。
俺は人が利益しか求めないことを知っている。お前もどうせ裏切るんだろう。
――この世界に一人しかいないあなたを救うため。
俺より有能な奴は腐るほどいる。むしろ、俺は世界の害だ。……だから、もう放っておいてくれよ。
――ひどい仕打ちを受けても、最後まで信じてくれる人はいます。
人は裏切る。七年前に身をもって体験したから、それは正しい。
なのに、なぜ……
――見捨てない。
なぜ、こんなにも否定し続ける俺を裏切ってくれない……っ!
「カペルッ!」
突如、自分の名前を呼んだ何度も聞き覚えのある声がカペルの心を貫いた。暗闇の世界に光が一層満ち溢れるのが分かる。
カペルの否定的な想いなんて、かき消すほど眩しかった。
その光に当てられると、カペルは今までの自分の考えを少しだけ見直した。
あんなにひどい目に遭わせた人々が、目の前にいて、カペルの名を呼んでくれるのだ。
人は簡単に裏切らない。――再びそう思うことを赦されるかもしれない。
その考えがカペルの頭によぎった時、この世界を抜け出して、自らの目で確かめに行きたくなった。カペルは初めて自分の意志で、この世界から抜け出したいと強く決心するに至った。
そして、この暗闇から抜け出すためには、その光を掴むしかないのだと本能的に分かった。
だから、カペルは光を掴むために手を伸ばそうとした。
――しかし、手を伸ばすことは赦されなかった。
手が動かない。それも精神的な問題ではなく、物理的な原因だ。
動かない手に意識を向けると、その手首は鎖に縛られていた。いや、手首だけではない。手首、足首、首元が雁字搦めに鎖に縛られていて、全く身動きの取れない状況だった。
そして、ただ動かないだけならまだ良かったが、それよりも現実は最悪な状況に貶められていた。今までカペルは自らの意志で闇の底に堕ちていると思っていたが、実際は底にいる何者かに鎖で引っ張られていたのだ。
抵抗すると、さらに強い負荷が下から加えられる。
その事実がはっきり分かると同時に、カペルの脳に戦慄が走った。
――このままじゃ……殺されるッ!
カペルはこれ以上、この暗闇の世界にいられなかった。
闇の底に辿り着いてしまったら、二度と、永遠に、光の世界を出ることはおろか、目にすることさえ出来ないだろう。
カペルは声を出して助けを求めようとするものの、その声は闇に呑まれて消えてしまう。
ここが正念場だと言わんばかりに、世界の意志がカペルのことを今までにない力で底へと引っ張る。
これ以上堕ちることがないように、何とか必死にカペルはもがいた。
無駄だと分かっても、身を動かす。届かないとしても、声を張り上げる。
――今更、何をしている? ここにいればお前は幸せな世界にずっと手にすることが出来るのだぞ。
カペルが世界に抵抗をし始めると、制止するかのように暗闇の世界に声が響いた。耳を澄ませば、暗く、重く、冷たい声は、どこか疲れが交えているようにも聞こえる。
――……俺は、こんな幸せは望んでいないっ! お前は誰だ!?
――私は英雄。英雄シエル・クヴントだ。
――嘘だ! お前は英雄なんかじゃない!
カペルは堂々と世界に向けて言いつけた。英雄シエル・クヴントが、こんなことをするわけがないと、今ならはっきりと分かる。
漆黒の世界を静寂が包む。
――……違う。シエルだ。信じてくれ。
――絶対に違う!
カペルは体中が鎖に縛られているのにも関わらず、力強く言葉を出す。
――もっとお前の体をくれ。私が受け取って災いを受けないようにする。目の前の状況も切り抜けて、お前の理想世界を共に作ろう。
――もう騙されない! お前は悪魔だ!
カペルはもう声に屈することはなかった。カペルの心は定まったように、揺れない。
カペルの言葉を受け、暗闇の世界の主は声を上げて笑った。その笑い声は、人の心に本質的に嫌に響く。
――そうだ。そして、お前は悪魔に体の所有権を委ねた愚かな人間。
漆黒の世界で自らの正体を認めた悪魔の冷たく重い言葉が、カペルの心に圧し掛かる。カペルは今まで恐ろしいものと対峙していたことを、今更にして思い知った。
――悪魔の甘い誘惑に騙されたことに、ようやく気付いたのか? だが、もう遅い。これから更にお前の体を使って、罪を犯そう。そして、お前はその身と心に罪の烙印を押され、永遠に地獄の業火で燃やされるのだ!
悪魔の言葉をきっかけに、カペルは底から熱気を感じた。下に意識を向けると、赤い炎がメラメラと燃え盛っていた。
そして、それはすなわち暗闇の底にある地獄も近いということを示している。
地獄の火はカペルが近づくごとに、更に熱と勢いが増す。まるで、カペルが火に投じられるのを心待ちにしているかのようだ。
カペルは恐怖心に駆られ、必死に助けを求めた。少しでも下に引っ張られないように、上へ上へと意識を張る。
あの頭上で輝く光は、漆黒に染まる世界を変わらずに照らし続けていた。
――俺は……。俺は……。
カペルは必死の抵抗をしながら、すでに終わった過去の人生を振り返る。
思い出すのは、裏切られた日の――悪魔と話した時間。
なんて過ちを犯してしまったのだろうか、とカペルは後悔した。
確認もしないで、何も信じないと言っていたくせに、自分に甘い言葉は簡単に受け入れて――。
それでいて、助けるために差し伸べてくれた手は払い除けて――。
なんて、愚かだったのだろう。
カペルは己の莫迦さ加減に、唇を噛み締めた。
しかし、悔いても悔いても、カペルの抵抗は虚しく、底へと引っ張られていく。
――今更後悔しても遅い! お前はもう俺の物だ!
悪魔の下賤な笑い声を耳に、カペルは心の中で切実に願った。
――助けてくれ!
闇を退けるように、祈りを届けるように叫ばれた、たった一つしかないカペルの願いは――、
「心優しかった彼は――。シエル・クヴントは、悪魔も退治していた」
カペルの祈りに応えたかのようにクルムの声が暗闇の世界に響く。
クルムの声と同時に、一発の銃声が鳴り響いた。
銃声と共に暗闇の世界に現れた光。その光は軌道を真っ直ぐに描きながら、カペルの横を過ぎて、底へと向かっていく。すると、その光が、底にいる悪魔に命中したのか、断末魔の叫びを上げた。
悪魔は叫び声を上げていたが、暫くすると、まるで逃げるかのように悲鳴が遠くなっていく。
漆黒の世界の主人であるはずの悪魔は、光によってこの世界から追い出されたのだ。
それに伴い、悪魔によって引っ張られていた力からカペルは解放された。まだまだ多くの部位は鎖に縛られているが、自由に動く。手を伸ばそうとすれば――、伸ばせる。
カペルは自分を悪魔から救ってくれた光を見上げた。
いつの間にか、光は形を変えていた。
最初は本当に小さな、微かな光だったのに、今は闇の世界を完全にかき消すほどに大きくなっていた。
そして、その光の中では、誰かが手を伸ばしていた。光が明るすぎてはっきりとその姿を見ることが出来ないが、その人物が誰なのかは予想するのは容易い。そして、その手が誰のために差し伸べられているのか、今のカペルには分からない訳がなかった。
闇の中にいるカペルは微笑むと、光あるところまで昇れるようにと意識を集中させた。
すると、カペルは光に導かれるように、どんどんと暗闇から這い上がって、昇り始めた。
もうカペルを縛るものがない今なら、どこまでだって行ける。心のままに生きることが出来る。
カペルはどんどんと光に近づいていく。
そして、光との距離が縮まるほどに、誰かの姿が明白になっていく。
そこにいるのはカペルが予想した人物――、クルム・アーレントだった。
クルムは光の中に留まれる限界の線まで身を乗り出して、手を伸ばしていた。
カペルは胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、クルムの手を掴んだ。カペルがクルムの手を掴むと、力強く握り返されるのを感じた。
そして、久方ぶりの温もりを感じるのも束の間、カペルはクルムによって光の中に勢いよく引っ張られた。
――光の中は、懐かしくも優しく、温かい世界だった。
暗闇に慣れ過ぎていたカペルは、光の中に入った途端、意識が遠のいた。
しかし、カペルはそのことに抵抗を示さなかった。むしろ、そのことを喜んで受け入れられた。まるで母親に抱かれて眠る赤子のような安心感を持って全てを委ねられる。
もう裏切られることはないだろう。少なくとも、この光の世界にいる間は、確信をもってそう言える。
――だって、二度と一人にさせないと言わんばかりに、強く、優しく、温かく、抱きしめられているのだから。
カペルは意識が途切れる瞬間――、クルムの満面の笑みを瞳に焼き付けた。
そう。いつだって思い出されるのは、あの時のこと。
純粋だったあの頃、人をただ信じただけのあの頃。
そして、裏切られたあの日から襲ってくる絶望。
カペルは暗闇の世界で息を殺しながらも、ずっと負の感情の波に飲み込まれていた。誰とも接することなく、カペルにとって優しかったはずの世界も、今となってはカペルに関心一つ払わないでいる。
この黒に包まれた世界から抜け出したいと思っても、抜け出し方は分からなかった。そもそも抜け出したところで、現実世界ではこれ以上の苦痛を受けるに違いない。
だから、今日も心を焼きながら、抵抗もせずに底へ底へと堕ちていく――はずだった。
「ここに、います」
カペルの目の前にクルム・アーレントという旅人が現れてから、黒しか存在しなかった世界に一筋の光が差し込んだ。
過去に二度、現実世界を見せられるために、光のようなものが現れたことがあった。しかし、今回のそれは今までとは全く違っていた。
二度見た光が薄くぼやけた光だと表現するならば、今見える光は本物の光と表現するのに相応しいほど完全に輝いていた。
七年の間、一度も目の当たりにすることのなかった完全な光だ。
しかし、本当に小さな、意識しなければ儚く消えてしまいそうな光だった。
そして、光が差し込んだことをきっかけにして、完全に漆黒に染まっていたはずの世界が、均衡を保てずに歪み始めた。
その時、暗闇の世界に光の存在を拒むような言葉が響き渡った。
このカペルだけが存在する暗闇の世界に突如投じられた異物を、容赦なく言葉の剣と本物の剣をもって退けようとし始めた。
けれど、光は大小の形は変わるとしても、決してその輝きを失うことはない。
カペルはここまで傍観して、この光が暗闇の世界にとって都合の悪い存在だということがようやく理解できた。
光が強くなればなるほど、この世界は形を保てなくなり、壊れるのだ。
世界が曖昧になるのを阻止しようと、この世界の意志かは分からないが、色々な方法で世界は形作られようとしていた。しかし、その労力は虚しく、徐々に、しかし確実に、この暗黒の世界は瓦解していく。
しかし、カペルは見守り続けるものの、決定的にこの世界が壊れることはなかった。
カペルはどんどんと暗闇の底に堕ちていく中で、遠くに離れてゆく光を見ながら、考えた。
――この世界が壊れたら、どうなるのだろう。前のように、あの光のようにキラキラと世界が輝くのだろうか。
けれど、カペルは過去見た世界が思い出せなかった。どれほど色づいていて、綺麗な世界だったのか、もう思い出せない。それ以前に、カペルはこの世界から出るのが怖かった。
どうせ裏切られるに決まっている。誰が裏切られるために、わざわざ生きようとするのか。だから、自らの意志で何も聞こえなくなるまで、何も見えなくなるまで、底に行こう。
カペルを見守り続けているように輝くこの光だって、カペルが無視し続ければ、結局は愛想を尽かしてカペルのことをこの世界に一人置き去りにするに違いない。
しかし、そのカペルの考えとは違い、クルムの言葉一言一言が発せられる度に、光はむしろ輝きを増した。
カペルは、そのことを信じたくなくて、否定する。
――助けを呼ぶ声が聞こえたんです。その声を放っておくことは出来ませんから。
そんなの言葉だけだ。
――相手が誰であれ、どんな状況であろうと、人を傷つけることはしません。
俺は人が利益しか求めないことを知っている。お前もどうせ裏切るんだろう。
――この世界に一人しかいないあなたを救うため。
俺より有能な奴は腐るほどいる。むしろ、俺は世界の害だ。……だから、もう放っておいてくれよ。
――ひどい仕打ちを受けても、最後まで信じてくれる人はいます。
人は裏切る。七年前に身をもって体験したから、それは正しい。
なのに、なぜ……
――見捨てない。
なぜ、こんなにも否定し続ける俺を裏切ってくれない……っ!
「カペルッ!」
突如、自分の名前を呼んだ何度も聞き覚えのある声がカペルの心を貫いた。暗闇の世界に光が一層満ち溢れるのが分かる。
カペルの否定的な想いなんて、かき消すほど眩しかった。
その光に当てられると、カペルは今までの自分の考えを少しだけ見直した。
あんなにひどい目に遭わせた人々が、目の前にいて、カペルの名を呼んでくれるのだ。
人は簡単に裏切らない。――再びそう思うことを赦されるかもしれない。
その考えがカペルの頭によぎった時、この世界を抜け出して、自らの目で確かめに行きたくなった。カペルは初めて自分の意志で、この世界から抜け出したいと強く決心するに至った。
そして、この暗闇から抜け出すためには、その光を掴むしかないのだと本能的に分かった。
だから、カペルは光を掴むために手を伸ばそうとした。
――しかし、手を伸ばすことは赦されなかった。
手が動かない。それも精神的な問題ではなく、物理的な原因だ。
動かない手に意識を向けると、その手首は鎖に縛られていた。いや、手首だけではない。手首、足首、首元が雁字搦めに鎖に縛られていて、全く身動きの取れない状況だった。
そして、ただ動かないだけならまだ良かったが、それよりも現実は最悪な状況に貶められていた。今までカペルは自らの意志で闇の底に堕ちていると思っていたが、実際は底にいる何者かに鎖で引っ張られていたのだ。
抵抗すると、さらに強い負荷が下から加えられる。
その事実がはっきり分かると同時に、カペルの脳に戦慄が走った。
――このままじゃ……殺されるッ!
カペルはこれ以上、この暗闇の世界にいられなかった。
闇の底に辿り着いてしまったら、二度と、永遠に、光の世界を出ることはおろか、目にすることさえ出来ないだろう。
カペルは声を出して助けを求めようとするものの、その声は闇に呑まれて消えてしまう。
ここが正念場だと言わんばかりに、世界の意志がカペルのことを今までにない力で底へと引っ張る。
これ以上堕ちることがないように、何とか必死にカペルはもがいた。
無駄だと分かっても、身を動かす。届かないとしても、声を張り上げる。
――今更、何をしている? ここにいればお前は幸せな世界にずっと手にすることが出来るのだぞ。
カペルが世界に抵抗をし始めると、制止するかのように暗闇の世界に声が響いた。耳を澄ませば、暗く、重く、冷たい声は、どこか疲れが交えているようにも聞こえる。
――……俺は、こんな幸せは望んでいないっ! お前は誰だ!?
――私は英雄。英雄シエル・クヴントだ。
――嘘だ! お前は英雄なんかじゃない!
カペルは堂々と世界に向けて言いつけた。英雄シエル・クヴントが、こんなことをするわけがないと、今ならはっきりと分かる。
漆黒の世界を静寂が包む。
――……違う。シエルだ。信じてくれ。
――絶対に違う!
カペルは体中が鎖に縛られているのにも関わらず、力強く言葉を出す。
――もっとお前の体をくれ。私が受け取って災いを受けないようにする。目の前の状況も切り抜けて、お前の理想世界を共に作ろう。
――もう騙されない! お前は悪魔だ!
カペルはもう声に屈することはなかった。カペルの心は定まったように、揺れない。
カペルの言葉を受け、暗闇の世界の主は声を上げて笑った。その笑い声は、人の心に本質的に嫌に響く。
――そうだ。そして、お前は悪魔に体の所有権を委ねた愚かな人間。
漆黒の世界で自らの正体を認めた悪魔の冷たく重い言葉が、カペルの心に圧し掛かる。カペルは今まで恐ろしいものと対峙していたことを、今更にして思い知った。
――悪魔の甘い誘惑に騙されたことに、ようやく気付いたのか? だが、もう遅い。これから更にお前の体を使って、罪を犯そう。そして、お前はその身と心に罪の烙印を押され、永遠に地獄の業火で燃やされるのだ!
悪魔の言葉をきっかけに、カペルは底から熱気を感じた。下に意識を向けると、赤い炎がメラメラと燃え盛っていた。
そして、それはすなわち暗闇の底にある地獄も近いということを示している。
地獄の火はカペルが近づくごとに、更に熱と勢いが増す。まるで、カペルが火に投じられるのを心待ちにしているかのようだ。
カペルは恐怖心に駆られ、必死に助けを求めた。少しでも下に引っ張られないように、上へ上へと意識を張る。
あの頭上で輝く光は、漆黒に染まる世界を変わらずに照らし続けていた。
――俺は……。俺は……。
カペルは必死の抵抗をしながら、すでに終わった過去の人生を振り返る。
思い出すのは、裏切られた日の――悪魔と話した時間。
なんて過ちを犯してしまったのだろうか、とカペルは後悔した。
確認もしないで、何も信じないと言っていたくせに、自分に甘い言葉は簡単に受け入れて――。
それでいて、助けるために差し伸べてくれた手は払い除けて――。
なんて、愚かだったのだろう。
カペルは己の莫迦さ加減に、唇を噛み締めた。
しかし、悔いても悔いても、カペルの抵抗は虚しく、底へと引っ張られていく。
――今更後悔しても遅い! お前はもう俺の物だ!
悪魔の下賤な笑い声を耳に、カペルは心の中で切実に願った。
――助けてくれ!
闇を退けるように、祈りを届けるように叫ばれた、たった一つしかないカペルの願いは――、
「心優しかった彼は――。シエル・クヴントは、悪魔も退治していた」
カペルの祈りに応えたかのようにクルムの声が暗闇の世界に響く。
クルムの声と同時に、一発の銃声が鳴り響いた。
銃声と共に暗闇の世界に現れた光。その光は軌道を真っ直ぐに描きながら、カペルの横を過ぎて、底へと向かっていく。すると、その光が、底にいる悪魔に命中したのか、断末魔の叫びを上げた。
悪魔は叫び声を上げていたが、暫くすると、まるで逃げるかのように悲鳴が遠くなっていく。
漆黒の世界の主人であるはずの悪魔は、光によってこの世界から追い出されたのだ。
それに伴い、悪魔によって引っ張られていた力からカペルは解放された。まだまだ多くの部位は鎖に縛られているが、自由に動く。手を伸ばそうとすれば――、伸ばせる。
カペルは自分を悪魔から救ってくれた光を見上げた。
いつの間にか、光は形を変えていた。
最初は本当に小さな、微かな光だったのに、今は闇の世界を完全にかき消すほどに大きくなっていた。
そして、その光の中では、誰かが手を伸ばしていた。光が明るすぎてはっきりとその姿を見ることが出来ないが、その人物が誰なのかは予想するのは容易い。そして、その手が誰のために差し伸べられているのか、今のカペルには分からない訳がなかった。
闇の中にいるカペルは微笑むと、光あるところまで昇れるようにと意識を集中させた。
すると、カペルは光に導かれるように、どんどんと暗闇から這い上がって、昇り始めた。
もうカペルを縛るものがない今なら、どこまでだって行ける。心のままに生きることが出来る。
カペルはどんどんと光に近づいていく。
そして、光との距離が縮まるほどに、誰かの姿が明白になっていく。
そこにいるのはカペルが予想した人物――、クルム・アーレントだった。
クルムは光の中に留まれる限界の線まで身を乗り出して、手を伸ばしていた。
カペルは胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、クルムの手を掴んだ。カペルがクルムの手を掴むと、力強く握り返されるのを感じた。
そして、久方ぶりの温もりを感じるのも束の間、カペルはクルムによって光の中に勢いよく引っ張られた。
――光の中は、懐かしくも優しく、温かい世界だった。
暗闇に慣れ過ぎていたカペルは、光の中に入った途端、意識が遠のいた。
しかし、カペルはそのことに抵抗を示さなかった。むしろ、そのことを喜んで受け入れられた。まるで母親に抱かれて眠る赤子のような安心感を持って全てを委ねられる。
もう裏切られることはないだろう。少なくとも、この光の世界にいる間は、確信をもってそう言える。
――だって、二度と一人にさせないと言わんばかりに、強く、優しく、温かく、抱きしめられているのだから。
カペルは意識が途切れる瞬間――、クルムの満面の笑みを瞳に焼き付けた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
16
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる