或るタクシー

Kaito

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美術館-1

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ひとしきり雨に降られた金曜の夜、タクシーを駅前の待ち場で止まらせた。
駅前には、酒にまかせて体をふらつかせるスーツ姿の人、厚化粧にタバコといった絵になる人、トイレットペーパーのみを持って立ち止まる人、様々な種類の人間が混在していた。ただこれはいわば日常茶飯事で高橋さんにとっては当たり前だった。

駅の入口から出てきた中年の男がこちらに近づいてくる。男はタクシーの後部座席を覗き込み、乗客だとわかると高橋さんは扉を開けた。

「お願いします~」

スーツを着た男は少々うつむき加減に言った。
大きい目、黒縁のメガネ、はげた髪、茶色っぽい上着。
仕事帰りだろうと高橋さんは思った。

「どちらまで?」
「幸付美術館までで」
「わかりました」

高橋さんはハンドブレーキを戻し、左右を確認して出発させた。待ち場を過ぎて、冷え込んだ夜の商店街、アーケード、狭い路地を抜けていく。もう夜、いや、これからが夜だといわんばかりの若者たち、仕事帰りの人たちを横目に車は駆け抜けていった。
ルームミラーをちらりと見るとスマホに目を落とし、なにやら忙しそうに男は指を画面上で動かしている。夜の車の中で煌々と光る画面で男の顔は光に照らされていた。

普通、タクシーを運転するときには客の顔をじろじろ見るのは当然失礼だ。しかし、高橋さんにとっては少し見るくらいはよくしているし、むしろ客に興味をもって運転することはよくある。
夜の暗い車内の中で高橋さんは話しかけてみた。

「お仕事の帰りですか?」
「ええ」
「お疲れ様です」
「いえいえ、ありがとうございます」

男は、スマホから目を離し、疲れに嘘をついているとしか思えない屈託のない笑顔で高橋さんを見た。高橋さんにとってこういうコミュニケーションは大事なことだった。
すると、男は少しの間のあと続けてこう言った。

「なんでこんな夜に美術館なんだろう、って思ってます?」

高橋さんは、えぇ、と適当な返事をした後我に返った。男の言う通り、こんな夜に美術館なんて普通はおかしい。美術館は午後6時くらいには閉まるはずだし、今はもう午後10時だ。

「なぜですか?」

高橋さんは戸惑いながらも尋ね返した。

「強盗です」
「はい?」
「冗談です」

あぁびっくりした、という表情で高橋さんは笑い、男も笑い、そして高橋さんは男にもう一度聞いた。

「明日の準備です」
「というと?」
「デートです」
「おぉ、いいですね、奥さんですか?」

赤信号で車が止まる。

「妻であり妻ではありません」

不思議なことを言う男に高橋さんは首をかしげながら手を膝の上において少し後ろを向いて、どういう意味ですか、と聞いた。

「子供がいるんです、でも離婚してしまって」

いらぬ事を聞いてしまったかもしれない、と思って高橋さんは前を向いて信号が青になるのを待った。こういうことだって車内では時々ある。
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