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第1話:出会いの香りは、極上に甘く、そして危険
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蛍光灯がチカチカと不規則に瞬く。閉め切ったオフィスに満ちるのは、澱んだ空気と、鳴りやまない電話のコール音、そして微かな疲労の匂い。
私、佐藤美咲(さとうみさき)、26歳。広告代理店の営業事務。私の日常は、今まさに目の前で山となっている未処理の請求書のように、灰色の現実でできていた。
「佐藤さん、これ、急ぎで修正お願い。今日中ね」
「……はい、課長」
定時を二時間も過ぎた今になって「今日中」という魔法の言葉を繰り出す五十代の課長を、笑顔で見送る。心の中では舌打ちの嵐が吹き荒れているが、社会人として五年も経てば、無の表情を貼り付けることくらい朝飯前だ。
カタカタと無心でキーボードを叩き、気づけば時計の針は午後九時を回っていた。窓の外はとっぷりと暮れ、ビルの灯りが作り出す偽物の星が瞬いている。
(あー……お腹すいた。今日の晩ごはんは、コンビニの新作パスタにしようかな)
そんなささやかな楽しみを胸に、私は重たい身体を引きずって会社を後にした。満員電車に揺られ、誰かの香水の匂いや湿った息に耐えながら、ようやく最寄り駅にたどり着く。駅から徒歩十五分。築二十年の、オートロックもないけれど、日当たりだけは良い、私の城。
ぼんやりとアパートの階段を上っていた私は、ふと足を止めた。
長いこと『空室』の札が掛かっていたはずの、私の部屋の隣『102号室』。そのドアに、真新しい『九条』という陶器の表札が掛けられていたのだ。
(あ、お隣さん、入ったんだ。……どうしよう、挨拶、したほうがいいよね、一応)
社会人としての常識が、疲労困憊の身体に鞭を打つ。こういう時、気の利いた手土産の一つでもあればいいのに。生憎私のバッグには、スーパーで買った見切り品のカット野菜しか入っていない。
私は一度自室のドアを開け、部屋の奥から非常用に買い置きしていた、ちょっとだけ高級な洋菓子店のクッキーの箱を引っ張り出した。よし、これなら失礼にはならないだろう。
深呼吸を一つ。
ピンポーン。
静かな廊下に、少し間延びしたチャイムの音が響く。どんな人が出てくるんだろう。無口な人? それとも、騒がしい人? どうか、常識的な人でありますように。
そんなことを考えていると、カチャリ、と軽い音を立ててドアが開いた。
そこに立っていたのは―――現実感を喪失させるほど、美しい人だった。
「……はい」
穏やかなテノールの声。
艶のある、月の光を溶かし込んだような金の糸の髪。切りそろえられた前髪の下で、夕暮れの空をそのまま閉じ込めたような、紫と橙が混じった不思議な色の瞳が、静かに私を見つめている。シンプルな白いシャツ一枚なのに、それが世界で一番高価な衣装のように見えた。
少女漫画から抜け出してきた王子様、なんて陳yぷな表現では追いつかない。人という生き物の造形美を、遥かに超越している。
「あ……」
声が出ない。あまりの衝撃に固まっていると、彼が不思議そうに、そっと首を傾げた。その人間離れした美貌に、ふと人間らしい仕草が混じる。そのギャップに、私の心臓が「きゅっ」と小さな悲鳴を上げた。
「あ、あのっ! け、今日、101号室に越してきました、佐藤と申します! あ、違った、今日越してきたのは貴方で、私は前から住んでて……!」
「ふふ、大丈夫ですよ」
パニックで支離滅裂になる私を見て、彼が初めて小さく笑った。花が綻ぶ、という表現は、きっとこの人のためにあるのだろう。
私は顔が沸騰しそうなのを感じながら、必死でクッキーの箱を差し出した。
「こ、これ、つまらないものですが、どうぞ! これから、よろしくお願いします!」
「ご丁寧にどうも。……九条刹那(くじょうせつな)です。こちらこそ、よろしくお願いします」
刹那さん、と名乗った彼は、私の差し出した箱を、そっと受け取った。その時、彼の指先が僅かに私の手に触れる。ひんやりとしているのに、触れた部分から電気が走ったような衝撃があった。
彼の瞳が、私と、私の持つ箱をゆっくりと見比べる。そして、すぅ、と目を細めた。
「ですが」
―――その瞬間、空気が変わった。
それまでの柔らかな雰囲気が霧散し、ぞくりと背筋が粟立つような、濃密な何かが辺りに満ちる。
彼の夕暮れ色の瞳が、まるで獲物を見つけた飢えた獣のように、爛々と光を放った気がした。
「俺が本当に『食べたい』のは……」
―――え?
今、なんて……?
私の思考が、完全に停止する。彼の視線は、もうクッキーの箱にはない。まっすぐに、私の瞳を、私の喉を、私の心臓を射抜くように注がれている。その瞳は、甘く、飢えていて、そして、本能が警鐘を鳴らすほど、恐ろしかった。
「……そちらの箱よりも、貴女が作ってくれるという手料理だったりして。なんて」
刹那さんは、先程までの緊張感を微塵も感じさせない悪戯っぽい笑みを浮かべて、言葉を締めくくった。
「……っ!?」
私は自分の耳まで真っ赤になっているのを感じながら、ぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
「い、いえ! そんな! とんでもない! あの、私、これで失礼します!」
何を言っているんだ、私は! 何をされているんだ、私は!
これ以上この空間にいたら、心臓が爆発するどころか、魂ごと吸い取られてしまいそうだ。私は脱兎のごとく踵を返し、自室のドアノブに手をかけた。
ドアが閉まる直前、彼の部屋から漂ってきた香りに、足がもつれそうになる。
高級な香水や、柔軟剤の匂いじゃない。もっと本能の奥深くに直接訴えかけてくるような、甘く熟した果実と、少しだけ獣めいたムスクが混じり合った、抗いがたい香り。
バタン、と自室のドアを乱暴に閉め、そのままズルズルと床にへたり込む。
(な、なんなの、あの人……!)
どくどくと暴れ続ける心臓を押さえる。ただ、とんでもないイケメンを前にして、緊張して、舞い上がっただけ。そうに決まってる。変なことを言われたのだって、きっと外国育ちの冗談か何かだ。
そう頭では理解しようとしているのに、身体の震えが止まらない。
あの瞳は、あの香りは、冗談なんかじゃなかった。
こうして、コンビニの新作パスタを食べるはずだった私の平凡な日常は、甘く、そして“喰われる”かもしれない危険な香りに満たされていくことになる。
まだ、私はその本当の意味を、知る由もなかった―――。
私、佐藤美咲(さとうみさき)、26歳。広告代理店の営業事務。私の日常は、今まさに目の前で山となっている未処理の請求書のように、灰色の現実でできていた。
「佐藤さん、これ、急ぎで修正お願い。今日中ね」
「……はい、課長」
定時を二時間も過ぎた今になって「今日中」という魔法の言葉を繰り出す五十代の課長を、笑顔で見送る。心の中では舌打ちの嵐が吹き荒れているが、社会人として五年も経てば、無の表情を貼り付けることくらい朝飯前だ。
カタカタと無心でキーボードを叩き、気づけば時計の針は午後九時を回っていた。窓の外はとっぷりと暮れ、ビルの灯りが作り出す偽物の星が瞬いている。
(あー……お腹すいた。今日の晩ごはんは、コンビニの新作パスタにしようかな)
そんなささやかな楽しみを胸に、私は重たい身体を引きずって会社を後にした。満員電車に揺られ、誰かの香水の匂いや湿った息に耐えながら、ようやく最寄り駅にたどり着く。駅から徒歩十五分。築二十年の、オートロックもないけれど、日当たりだけは良い、私の城。
ぼんやりとアパートの階段を上っていた私は、ふと足を止めた。
長いこと『空室』の札が掛かっていたはずの、私の部屋の隣『102号室』。そのドアに、真新しい『九条』という陶器の表札が掛けられていたのだ。
(あ、お隣さん、入ったんだ。……どうしよう、挨拶、したほうがいいよね、一応)
社会人としての常識が、疲労困憊の身体に鞭を打つ。こういう時、気の利いた手土産の一つでもあればいいのに。生憎私のバッグには、スーパーで買った見切り品のカット野菜しか入っていない。
私は一度自室のドアを開け、部屋の奥から非常用に買い置きしていた、ちょっとだけ高級な洋菓子店のクッキーの箱を引っ張り出した。よし、これなら失礼にはならないだろう。
深呼吸を一つ。
ピンポーン。
静かな廊下に、少し間延びしたチャイムの音が響く。どんな人が出てくるんだろう。無口な人? それとも、騒がしい人? どうか、常識的な人でありますように。
そんなことを考えていると、カチャリ、と軽い音を立ててドアが開いた。
そこに立っていたのは―――現実感を喪失させるほど、美しい人だった。
「……はい」
穏やかなテノールの声。
艶のある、月の光を溶かし込んだような金の糸の髪。切りそろえられた前髪の下で、夕暮れの空をそのまま閉じ込めたような、紫と橙が混じった不思議な色の瞳が、静かに私を見つめている。シンプルな白いシャツ一枚なのに、それが世界で一番高価な衣装のように見えた。
少女漫画から抜け出してきた王子様、なんて陳yぷな表現では追いつかない。人という生き物の造形美を、遥かに超越している。
「あ……」
声が出ない。あまりの衝撃に固まっていると、彼が不思議そうに、そっと首を傾げた。その人間離れした美貌に、ふと人間らしい仕草が混じる。そのギャップに、私の心臓が「きゅっ」と小さな悲鳴を上げた。
「あ、あのっ! け、今日、101号室に越してきました、佐藤と申します! あ、違った、今日越してきたのは貴方で、私は前から住んでて……!」
「ふふ、大丈夫ですよ」
パニックで支離滅裂になる私を見て、彼が初めて小さく笑った。花が綻ぶ、という表現は、きっとこの人のためにあるのだろう。
私は顔が沸騰しそうなのを感じながら、必死でクッキーの箱を差し出した。
「こ、これ、つまらないものですが、どうぞ! これから、よろしくお願いします!」
「ご丁寧にどうも。……九条刹那(くじょうせつな)です。こちらこそ、よろしくお願いします」
刹那さん、と名乗った彼は、私の差し出した箱を、そっと受け取った。その時、彼の指先が僅かに私の手に触れる。ひんやりとしているのに、触れた部分から電気が走ったような衝撃があった。
彼の瞳が、私と、私の持つ箱をゆっくりと見比べる。そして、すぅ、と目を細めた。
「ですが」
―――その瞬間、空気が変わった。
それまでの柔らかな雰囲気が霧散し、ぞくりと背筋が粟立つような、濃密な何かが辺りに満ちる。
彼の夕暮れ色の瞳が、まるで獲物を見つけた飢えた獣のように、爛々と光を放った気がした。
「俺が本当に『食べたい』のは……」
―――え?
今、なんて……?
私の思考が、完全に停止する。彼の視線は、もうクッキーの箱にはない。まっすぐに、私の瞳を、私の喉を、私の心臓を射抜くように注がれている。その瞳は、甘く、飢えていて、そして、本能が警鐘を鳴らすほど、恐ろしかった。
「……そちらの箱よりも、貴女が作ってくれるという手料理だったりして。なんて」
刹那さんは、先程までの緊張感を微塵も感じさせない悪戯っぽい笑みを浮かべて、言葉を締めくくった。
「……っ!?」
私は自分の耳まで真っ赤になっているのを感じながら、ぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
「い、いえ! そんな! とんでもない! あの、私、これで失礼します!」
何を言っているんだ、私は! 何をされているんだ、私は!
これ以上この空間にいたら、心臓が爆発するどころか、魂ごと吸い取られてしまいそうだ。私は脱兎のごとく踵を返し、自室のドアノブに手をかけた。
ドアが閉まる直前、彼の部屋から漂ってきた香りに、足がもつれそうになる。
高級な香水や、柔軟剤の匂いじゃない。もっと本能の奥深くに直接訴えかけてくるような、甘く熟した果実と、少しだけ獣めいたムスクが混じり合った、抗いがたい香り。
バタン、と自室のドアを乱暴に閉め、そのままズルズルと床にへたり込む。
(な、なんなの、あの人……!)
どくどくと暴れ続ける心臓を押さえる。ただ、とんでもないイケメンを前にして、緊張して、舞い上がっただけ。そうに決まってる。変なことを言われたのだって、きっと外国育ちの冗談か何かだ。
そう頭では理解しようとしているのに、身体の震えが止まらない。
あの瞳は、あの香りは、冗談なんかじゃなかった。
こうして、コンビニの新作パスタを食べるはずだった私の平凡な日常は、甘く、そして“喰われる”かもしれない危険な香りに満たされていくことになる。
まだ、私はその本当の意味を、知る由もなかった―――。
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