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第2話:残された痕跡と、夜中の囁き
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あの日の夜から、私の日常は少しだけ、いや、大きく変わってしまった。 アパートの自室に閉じこもってからも、心臓はまるでマラソンでもしたかのように暴れ続けていた。耳の奥では、彼の「食べたい」という言葉が、甘く、そして不気味な響きでこだまする。
(まさか、本当に変な人だったりして……?)
ベッドに横になっても、一向に眠気が訪れない。昼間の彼の完璧な美貌と、一瞬だけ見せた獣のような瞳のギャップに、頭の中がぐるぐるしていた。 そして、あの甘くて、少し獣めいた香り。部屋にまで染み込んできそうなほど濃密で、抗いがたい魅力を放っていた。
翌朝、重い瞼をこすりながら何とか会社に向かう。当然、隣の102号室からは何の気配も感じられなかった。
(そりゃそうだよね、たまたま居合わせただけなんだから)
そう自分に言い聞かせながら、私はどこか拍子抜けしている自分にも気づいていた。
会社ではいつも通り、山積みの仕事に追われた。企画書作成、会議の議事録、来客対応。目の前のタスクを機械的にこなしていると、昨夜の出来事も、まるで夢のようだった。
ところが。 会社から帰り、アパートの階段を上っていると、またしてもあの香りが、ほんのりと漂ってきたのだ。
(え……?)
まさか、隣の部屋から? 思わず102号室のドアを見つめる。ドアノブには、昨日にはなかった小さな飾りがかけられていた。和紙でできた、どこか古風な、きつねの形をしたオーナメント。
(ふふ、もしかして、お土産かな? 可愛い)
そんなことを思いながら、自分の部屋の鍵を開けようとして――指が、ぴたりと止まった。 ドアノブに、うっすらと、何かが付着している。 それは、まるで粉雪のように白い、ふわふわとした毛だった。長さは二、三センチ。陽光に当たると、僅かに金色の光を放っている。
「……え?」
思わず指でつまんでみる。柔らかく、シルクのような肌触り。 まさか、あの九条さんの髪の毛? いや、でも、こんなにフワフワした髪の人なんて……
突然、背筋に冷たいものが走った。 あの時、刹那さんの部屋から漂ってきた、獣めいた香り。 そして、この白い毛。
まさか……本当に、「獣」? そんな馬鹿な。私は思わず、ゾッとして後ずさった。
夜が更け、電気を消してベッドに横になる。今日の出来事を反芻するうち、眠気は完全にどこかへ吹き飛んでいた。 あの白い毛は、いったい何の毛だったんだろう。 九条さんの、あの人間離れした美しさ。 そして、あの瞳の奥に宿っていた、得体のしれない光。
(考えすぎだよ、私。疲れてるんだ)
そう言い聞かせた、その時だった。
コンコンコン……
かすかに、壁を叩くような音がした。 私の部屋と、九条さんの部屋を隔てる薄い壁。そこから聞こえる、ごく小さなノックのような音。 心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
(まさか……)
息を殺して耳を澄ます。 コンコンコン…… やはり、聞こえる。それはまるで、私の心臓の音に合わせて叩かれているかのようだった。
次の瞬間。 「……美咲さん」
壁の向こうから、甘く、低い声が響いてきた。 刹那さんの声だ。 私の名前を、呼んでいる。
全身の毛穴がぶわっと開く。 (どうして……私の名前を……!?) 名乗った時に、苗字しか伝えていないはずだ。なのに、彼は私の下の名前を知っている。
「起きてますか?」 囁くような声は、壁一枚隔てているとは思えないほど、すぐそこで語りかけられているように聞こえる。 それはまるで、私だけに向けて、秘密を共有するかのような、甘い響きだった。
「どうかしましたか?」 返事をしない私を待つように、少し間が空く。 そして、彼の声は、さらに甘く、そして少しだけ、焦がれるような色を帯びて聞こえた。
「……貴女が、俺の部屋に、来てくれるのを待ってるんですよ」
―――その言葉は、私に選択を迫っていた。 このまま恐怖に震えながら朝を待つか。 それとも、この壁の向こうにいる、美しくも危険な謎の隣人の元へ、足を踏み入れるか。
私の平凡な日常は、もうとっくに終わりを告げていた。 この壁の向こうには、甘い誘惑と、未知の危険が、口を開けて待っている。
(まさか、本当に変な人だったりして……?)
ベッドに横になっても、一向に眠気が訪れない。昼間の彼の完璧な美貌と、一瞬だけ見せた獣のような瞳のギャップに、頭の中がぐるぐるしていた。 そして、あの甘くて、少し獣めいた香り。部屋にまで染み込んできそうなほど濃密で、抗いがたい魅力を放っていた。
翌朝、重い瞼をこすりながら何とか会社に向かう。当然、隣の102号室からは何の気配も感じられなかった。
(そりゃそうだよね、たまたま居合わせただけなんだから)
そう自分に言い聞かせながら、私はどこか拍子抜けしている自分にも気づいていた。
会社ではいつも通り、山積みの仕事に追われた。企画書作成、会議の議事録、来客対応。目の前のタスクを機械的にこなしていると、昨夜の出来事も、まるで夢のようだった。
ところが。 会社から帰り、アパートの階段を上っていると、またしてもあの香りが、ほんのりと漂ってきたのだ。
(え……?)
まさか、隣の部屋から? 思わず102号室のドアを見つめる。ドアノブには、昨日にはなかった小さな飾りがかけられていた。和紙でできた、どこか古風な、きつねの形をしたオーナメント。
(ふふ、もしかして、お土産かな? 可愛い)
そんなことを思いながら、自分の部屋の鍵を開けようとして――指が、ぴたりと止まった。 ドアノブに、うっすらと、何かが付着している。 それは、まるで粉雪のように白い、ふわふわとした毛だった。長さは二、三センチ。陽光に当たると、僅かに金色の光を放っている。
「……え?」
思わず指でつまんでみる。柔らかく、シルクのような肌触り。 まさか、あの九条さんの髪の毛? いや、でも、こんなにフワフワした髪の人なんて……
突然、背筋に冷たいものが走った。 あの時、刹那さんの部屋から漂ってきた、獣めいた香り。 そして、この白い毛。
まさか……本当に、「獣」? そんな馬鹿な。私は思わず、ゾッとして後ずさった。
夜が更け、電気を消してベッドに横になる。今日の出来事を反芻するうち、眠気は完全にどこかへ吹き飛んでいた。 あの白い毛は、いったい何の毛だったんだろう。 九条さんの、あの人間離れした美しさ。 そして、あの瞳の奥に宿っていた、得体のしれない光。
(考えすぎだよ、私。疲れてるんだ)
そう言い聞かせた、その時だった。
コンコンコン……
かすかに、壁を叩くような音がした。 私の部屋と、九条さんの部屋を隔てる薄い壁。そこから聞こえる、ごく小さなノックのような音。 心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
(まさか……)
息を殺して耳を澄ます。 コンコンコン…… やはり、聞こえる。それはまるで、私の心臓の音に合わせて叩かれているかのようだった。
次の瞬間。 「……美咲さん」
壁の向こうから、甘く、低い声が響いてきた。 刹那さんの声だ。 私の名前を、呼んでいる。
全身の毛穴がぶわっと開く。 (どうして……私の名前を……!?) 名乗った時に、苗字しか伝えていないはずだ。なのに、彼は私の下の名前を知っている。
「起きてますか?」 囁くような声は、壁一枚隔てているとは思えないほど、すぐそこで語りかけられているように聞こえる。 それはまるで、私だけに向けて、秘密を共有するかのような、甘い響きだった。
「どうかしましたか?」 返事をしない私を待つように、少し間が空く。 そして、彼の声は、さらに甘く、そして少しだけ、焦がれるような色を帯びて聞こえた。
「……貴女が、俺の部屋に、来てくれるのを待ってるんですよ」
―――その言葉は、私に選択を迫っていた。 このまま恐怖に震えながら朝を待つか。 それとも、この壁の向こうにいる、美しくも危険な謎の隣人の元へ、足を踏み入れるか。
私の平凡な日常は、もうとっくに終わりを告げていた。 この壁の向こうには、甘い誘惑と、未知の危険が、口を開けて待っている。
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