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本編
見えない鎖、溶ける傷口
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日々は無情に過ぎ去り、ついに本番前日。
寮への帰り道、ワゴン車の中は、重苦しい空気に包まれていた。
「……ふざけんなよ、マジで」
ソウタが、悔しそうにシートを叩く。
「あいつ結局、一回も来なかった……逃げたんだ。 あんなに大掛かりな舞台で、ぶっつけ本番なんてありえない!」
「……あいつらしいといえば、らしいけどな」
コマチが、窓の外を見ながら低く呟く。
「相手を極限まで不安にさせて、ステージ上で食うつもりなんだろ。……性格悪すぎて、反吐が出る」
ロクは、隣に座るチカの横顔を、心配そうに盗み見ていた。
チカは、目を閉じて、イヤホンで音楽を聴いているフリをしている。
だが、その膝の上で組まれた指先は、白くなるほど強く握りしめられ、微かに震えていた。
寮に着くと、マネージャーは「明日は早い。今日はもう休め」と短く告げた。
誰もが、チカに何か言葉をかけたかった。
「頑張れ」とも、「大丈夫」とも言えない。どんな言葉も、今のチカには空虚に響くだろう。
結局、彼らは「おやすみなさい」と小さな声で言い残し、それぞれの部屋へと消えていった。
ロクだけが、別れ際に心配そうにチカを見、絞り出すように声をかけた。
「……チカ。眠れそう?」
「ああ。……お前こそ、明日に備えて寝ろ」
「……うん。おやすみ」
チカは、自室のドアを閉め、鍵をかけた。
シン、とした静寂が、耳に痛い。
明日の今頃は、すべてが終わっている。
だが、今のチカには、その未来が断崖絶壁のように思えた。
(……会いたくない)
本音が、漏れ出す。
あの男の顔を見たくない。声を聞きたくない。触れられたくない。
ベッドに入り、目を閉じると、またあの映像がフラッシュバックする。
自分を見下ろす、嗜虐的な瞳。
無理やり開かされた足。
そして、快楽に負けて声を漏らしてしまった、浅ましい自分の姿。
「……ぅ、っ」
チカは、口元を押さえてうずくまった。
吐き気がする。
ソラは、チカの「アイドルとしての矜持」だけでなく、「人間としての尊厳」をも踏みにじった。
それは体罰のように魂に刻まれ、チカから「自分を信じる力」を奪い去っていた。
明日、ステージの上で彼と対峙した瞬間。
また体がすくみ、声が出なくなり、あいつの操り人形にされてしまうのではないか。
それが何よりも怖かった。
ガタガタと震えが止まらない。
毛布を頭から被り、膝を抱えて、嵐が過ぎ去るのを待つ子供のように息を潜める。
誰にも会いたくない。
誰にも、こんな無様な姿を見せたくない。
コン、コン。
静寂を破る、控えめなノックの音。
チカの心臓が跳ね上がった。
無視しようとした。
だが、ドアの向こうから聞こえてきた声は、一番聞きたくて、一番聞きたくなかった声だった。
「……チカ。起きてる?」
トキだ。
「……寝てる」
とっさに嘘をついた声は、ひどく掠れて震えていた。
しばらくの沈黙の後。
カチャリ、と鍵が開く音がする。
忍んできたがるトキにせがまれ、合鍵を渡してしまったことを、今更ながらに後悔した。
ドアが開き、廊下の光と共に、トキが入ってきた。
逆光で表情は見えない。
チカは、ベッドの上で身を固くしたまま、トキを睨んだ。
「……勝手に入るな」
「ごめん」
トキは、静かにドアを閉め、再び部屋を闇に戻した。
目が慣れてくると、トキの顔が見えた。
パジャマ姿の彼は、どこか迷うような、それでいて決意を秘めたような、痛々しい表情で立っていた。
「……何の用だ。明日は早いんだぞ」
「眠れてないだろ」
図星を突かれ、チカは口ごもる。
トキは、ゆっくりとベッドに近づいてきた。
チカは反射的に身を引いた。
汚れた自分を見られたくない。近づかれたくない。
その拒絶の反応に、トキの顔が一瞬歪んだが、彼は足を止めなかった。
ベッドの縁に腰を下ろす。
沈み込むマットレスの感触が、二人の距離を縮める。
「……話したいことがあって」
トキは、膝の上で自分の手を握りしめていた。
「……もし、チカが嫌だったら。俺は、絶対に触らない」
「……は?」
「指一本、触れない。このまま、朝までここで座ってるだけでもいい」
トキは、真剣な眼差しでチカを見つめた。
「でも……もし、チカが」
言葉を切る。
トキの喉仏が、ごくりと動いた。
「もしチカが、明日を恐れているなら」
その一言が、チカの心の堤防を決壊させた。
恐れている。
死ぬほど、怖い。
その本音を見透かされ、チカの瞳が揺らぐ。
「俺が、全部抱きしめてあげる」
「……」
「明日、ソラのことなんて考えられないくらい……俺でいっぱいにしてあげる」
トキの声は、甘く、そして力強かった。
それは「守る」という誓いであり、「上書きする」という執着でもあった。
チカの目から、ポロリと涙がこぼれた。
張り詰めていた糸が切れ、感情が溢れ出す。
「……バカ野郎」
チカは、濡れた声で悪態をついた。
「許可なんて……もう、いらない。お前は。お前だけは……」
その言葉を聞いた瞬間。
トキの表情が崩れた。安堵と、愛おしさが混ざり合った顔で、彼はチカに手を伸ばした。
だが。
その手は、チカの肩に触れる直前で、ピタリと止まった。
震えている。
あの、独占欲の塊のようなトキが。
獣のような強引さで、チカを「所有」したがるトキが。
今は、壊れ物に触れるように、おずおずと手を彷徨わせている。
ふわり。
ようやく触れたその腕は、あまりにも優しく、頼りなかった。
強く抱きしめれば、チカが壊れてしまうとでも思っているかのように。
必要以上に神経を使った、慎重すぎる抱擁。
チカは、その優しさが嬉しくもあり、同時に、胸を抉られるように辛かった。
トキが遠慮しているのは、自分が「傷ついている」からだけじゃない。
あの夜の、ソラの匂いと痕跡が、まだ俺に残っているからではないか。
やはり、「汚れてしまった」からではないのか?
拭い去れない疑念が、黒いインクのように心に広がる。
チカは、トキの胸に顔を埋めたまま、どうしても聞かずにいられない問いを口にした。
「……なあ」
掠れた声が、闇に溶ける。
「やっぱり……汚いか?」
トキの体が、ビクリと強張った。
「あいつに……あんなことされて。あいつの手で……」
その先は、到底、言えなかった。
惨めさで死にたくなる。言葉にする勇気がなかった。
「やっぱり……触るの、嫌か……?」
沈黙。
数秒の静寂が、永遠のように感じられた。
やっぱり。
そう思った、次の瞬間。
ギュッ!!!
背中を回された腕に、猛烈な力がこもった。
骨が軋むほどの強さで、抱きすくめられる。
「……そんなわけ、ないだろ!」
頭上から降ってきた声は、低く、震えていた。
チカが驚いて顔を上げると、至近距離にあるトキの顔は、怒りで歪んでいた。
だがそれは、チカへの嫌悪ではない。
そんなことを言わせてしまった状況への、そして、そんな風に自分を卑下するチカへの、半ば本気の苛立ちだった。
「そんなこと言うと……怒るよ。本気で」
「……トキ?」
「チカは、汚くなんてない」
トキは、噛み締めるように言った。
「俺のために傷ついた人が……俺を守ろうとしてくれた人が、汚いなんてことあるわけがない!」
トキの瞳から、一筋の涙が伝い落ちた。
その熱い雫が、チカの頬に落ちる。
「……俺が怖がったのは、チカが嫌がるかもしれないと思ったからだ。……今は俺の手さえも苦痛なんじゃないかって……それが怖かっただけだ」
トキの手が、チカの頬を両手で包み込む。
その掌は熱く、力強く、そして何よりも愛おしさに満ちていた。
「汚いなんて、二度と思わないで。……お願いだから」
トキは、懇願するように、チカの額に自分のおでこを押し当てた。
「チカは、世界で一番綺麗だ」
チカの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
一番欲しかった言葉。
一番恐れていた拒絶を、この男は、全力で否定してくれた。
ソラの呪いが、解けていく。
あの夜に刻み込まれた、恐怖も、自己嫌悪も、トキの無条件の肯定の前では、形を保てずに溶けていく。
トキは、泣きじゃくるチカを見て、ふわりと微笑んだ。
それは、いつもの完璧なリーダーの笑顔でも、嫉妬に狂う狼の顔でもない。
すべてを包み込む、春の陽だまりのような、ただ一人の男としての笑顔だった。
「……でも、何度でも聞いていいよ」
「……え」
「チカが不安に思うとき。あの夜を思い出して、自分が嫌になるとき。……何度でも、何百回でも、俺に聞いて」
トキの指が、チカの涙を優しく拭う。
「その度に、俺は言うから。……汚くないよ、って」
「……」
「チカ、愛してるよ、って」
その言葉と共に、唇が重ねられた。
今度は、遠慮なんてなかった。
深く、熱く、互いの存在を確かめ合うような口づけ。
チカの口内に、トキの熱が侵入してくる。
あの夜、ソラに犯されたその場所を、トキが丁寧に、執拗に、愛で塗り替えていく。
不快感なんてない。
あるのは、胸が焼き切れるほどの愛しさと、安堵だけ。
「……ん……っ」
唇が離れると、二人の間には、銀色の糸が引いていた。
かつてソラに見せつけられた時は、死にたいほどの屈辱だった光景が、今は、ただ愛の証のように思えた。
「……お前、しつこいからな」
チカは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、精一杯の悪態をついた。
「覚悟しとけよ。……本番前にも、聞くかもしれないぞ」
「うん。何回でも答える」
トキは、愛おしそうにチカの鼻先を甘噛みした。
「だから、明日は……俺だけを見てて。俺の声だけを聞いて」
「……ああ」
「あいつが何を囁こうが、関係ない。……チカの体も、心も、全部俺のもので満たされてるんだから」
チカは、その背中に腕を回し、強くしがみついた。
そうだ。
俺には、この男がいる。
あのルシファーがどれほど強大で、恐ろしくても。
この不器用で、誠実で、愛おしい狼が、俺を繋ぎ止めてくれる。
(……上等だ、ソラ)
トキの匂いに包まれながら、チカは暗闇の中で瞳を光らせた。
明日は、決戦だ。
恐怖はある。震えも止まらないかもしれない。
けれど、もう魂までは奪わせない。
二人は、互いの体温を確かめ合うように、その夜、深く重なり合い、眠りについた。
嵐の前の、最後の静寂だった。
寮への帰り道、ワゴン車の中は、重苦しい空気に包まれていた。
「……ふざけんなよ、マジで」
ソウタが、悔しそうにシートを叩く。
「あいつ結局、一回も来なかった……逃げたんだ。 あんなに大掛かりな舞台で、ぶっつけ本番なんてありえない!」
「……あいつらしいといえば、らしいけどな」
コマチが、窓の外を見ながら低く呟く。
「相手を極限まで不安にさせて、ステージ上で食うつもりなんだろ。……性格悪すぎて、反吐が出る」
ロクは、隣に座るチカの横顔を、心配そうに盗み見ていた。
チカは、目を閉じて、イヤホンで音楽を聴いているフリをしている。
だが、その膝の上で組まれた指先は、白くなるほど強く握りしめられ、微かに震えていた。
寮に着くと、マネージャーは「明日は早い。今日はもう休め」と短く告げた。
誰もが、チカに何か言葉をかけたかった。
「頑張れ」とも、「大丈夫」とも言えない。どんな言葉も、今のチカには空虚に響くだろう。
結局、彼らは「おやすみなさい」と小さな声で言い残し、それぞれの部屋へと消えていった。
ロクだけが、別れ際に心配そうにチカを見、絞り出すように声をかけた。
「……チカ。眠れそう?」
「ああ。……お前こそ、明日に備えて寝ろ」
「……うん。おやすみ」
チカは、自室のドアを閉め、鍵をかけた。
シン、とした静寂が、耳に痛い。
明日の今頃は、すべてが終わっている。
だが、今のチカには、その未来が断崖絶壁のように思えた。
(……会いたくない)
本音が、漏れ出す。
あの男の顔を見たくない。声を聞きたくない。触れられたくない。
ベッドに入り、目を閉じると、またあの映像がフラッシュバックする。
自分を見下ろす、嗜虐的な瞳。
無理やり開かされた足。
そして、快楽に負けて声を漏らしてしまった、浅ましい自分の姿。
「……ぅ、っ」
チカは、口元を押さえてうずくまった。
吐き気がする。
ソラは、チカの「アイドルとしての矜持」だけでなく、「人間としての尊厳」をも踏みにじった。
それは体罰のように魂に刻まれ、チカから「自分を信じる力」を奪い去っていた。
明日、ステージの上で彼と対峙した瞬間。
また体がすくみ、声が出なくなり、あいつの操り人形にされてしまうのではないか。
それが何よりも怖かった。
ガタガタと震えが止まらない。
毛布を頭から被り、膝を抱えて、嵐が過ぎ去るのを待つ子供のように息を潜める。
誰にも会いたくない。
誰にも、こんな無様な姿を見せたくない。
コン、コン。
静寂を破る、控えめなノックの音。
チカの心臓が跳ね上がった。
無視しようとした。
だが、ドアの向こうから聞こえてきた声は、一番聞きたくて、一番聞きたくなかった声だった。
「……チカ。起きてる?」
トキだ。
「……寝てる」
とっさに嘘をついた声は、ひどく掠れて震えていた。
しばらくの沈黙の後。
カチャリ、と鍵が開く音がする。
忍んできたがるトキにせがまれ、合鍵を渡してしまったことを、今更ながらに後悔した。
ドアが開き、廊下の光と共に、トキが入ってきた。
逆光で表情は見えない。
チカは、ベッドの上で身を固くしたまま、トキを睨んだ。
「……勝手に入るな」
「ごめん」
トキは、静かにドアを閉め、再び部屋を闇に戻した。
目が慣れてくると、トキの顔が見えた。
パジャマ姿の彼は、どこか迷うような、それでいて決意を秘めたような、痛々しい表情で立っていた。
「……何の用だ。明日は早いんだぞ」
「眠れてないだろ」
図星を突かれ、チカは口ごもる。
トキは、ゆっくりとベッドに近づいてきた。
チカは反射的に身を引いた。
汚れた自分を見られたくない。近づかれたくない。
その拒絶の反応に、トキの顔が一瞬歪んだが、彼は足を止めなかった。
ベッドの縁に腰を下ろす。
沈み込むマットレスの感触が、二人の距離を縮める。
「……話したいことがあって」
トキは、膝の上で自分の手を握りしめていた。
「……もし、チカが嫌だったら。俺は、絶対に触らない」
「……は?」
「指一本、触れない。このまま、朝までここで座ってるだけでもいい」
トキは、真剣な眼差しでチカを見つめた。
「でも……もし、チカが」
言葉を切る。
トキの喉仏が、ごくりと動いた。
「もしチカが、明日を恐れているなら」
その一言が、チカの心の堤防を決壊させた。
恐れている。
死ぬほど、怖い。
その本音を見透かされ、チカの瞳が揺らぐ。
「俺が、全部抱きしめてあげる」
「……」
「明日、ソラのことなんて考えられないくらい……俺でいっぱいにしてあげる」
トキの声は、甘く、そして力強かった。
それは「守る」という誓いであり、「上書きする」という執着でもあった。
チカの目から、ポロリと涙がこぼれた。
張り詰めていた糸が切れ、感情が溢れ出す。
「……バカ野郎」
チカは、濡れた声で悪態をついた。
「許可なんて……もう、いらない。お前は。お前だけは……」
その言葉を聞いた瞬間。
トキの表情が崩れた。安堵と、愛おしさが混ざり合った顔で、彼はチカに手を伸ばした。
だが。
その手は、チカの肩に触れる直前で、ピタリと止まった。
震えている。
あの、独占欲の塊のようなトキが。
獣のような強引さで、チカを「所有」したがるトキが。
今は、壊れ物に触れるように、おずおずと手を彷徨わせている。
ふわり。
ようやく触れたその腕は、あまりにも優しく、頼りなかった。
強く抱きしめれば、チカが壊れてしまうとでも思っているかのように。
必要以上に神経を使った、慎重すぎる抱擁。
チカは、その優しさが嬉しくもあり、同時に、胸を抉られるように辛かった。
トキが遠慮しているのは、自分が「傷ついている」からだけじゃない。
あの夜の、ソラの匂いと痕跡が、まだ俺に残っているからではないか。
やはり、「汚れてしまった」からではないのか?
拭い去れない疑念が、黒いインクのように心に広がる。
チカは、トキの胸に顔を埋めたまま、どうしても聞かずにいられない問いを口にした。
「……なあ」
掠れた声が、闇に溶ける。
「やっぱり……汚いか?」
トキの体が、ビクリと強張った。
「あいつに……あんなことされて。あいつの手で……」
その先は、到底、言えなかった。
惨めさで死にたくなる。言葉にする勇気がなかった。
「やっぱり……触るの、嫌か……?」
沈黙。
数秒の静寂が、永遠のように感じられた。
やっぱり。
そう思った、次の瞬間。
ギュッ!!!
背中を回された腕に、猛烈な力がこもった。
骨が軋むほどの強さで、抱きすくめられる。
「……そんなわけ、ないだろ!」
頭上から降ってきた声は、低く、震えていた。
チカが驚いて顔を上げると、至近距離にあるトキの顔は、怒りで歪んでいた。
だがそれは、チカへの嫌悪ではない。
そんなことを言わせてしまった状況への、そして、そんな風に自分を卑下するチカへの、半ば本気の苛立ちだった。
「そんなこと言うと……怒るよ。本気で」
「……トキ?」
「チカは、汚くなんてない」
トキは、噛み締めるように言った。
「俺のために傷ついた人が……俺を守ろうとしてくれた人が、汚いなんてことあるわけがない!」
トキの瞳から、一筋の涙が伝い落ちた。
その熱い雫が、チカの頬に落ちる。
「……俺が怖がったのは、チカが嫌がるかもしれないと思ったからだ。……今は俺の手さえも苦痛なんじゃないかって……それが怖かっただけだ」
トキの手が、チカの頬を両手で包み込む。
その掌は熱く、力強く、そして何よりも愛おしさに満ちていた。
「汚いなんて、二度と思わないで。……お願いだから」
トキは、懇願するように、チカの額に自分のおでこを押し当てた。
「チカは、世界で一番綺麗だ」
チカの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
一番欲しかった言葉。
一番恐れていた拒絶を、この男は、全力で否定してくれた。
ソラの呪いが、解けていく。
あの夜に刻み込まれた、恐怖も、自己嫌悪も、トキの無条件の肯定の前では、形を保てずに溶けていく。
トキは、泣きじゃくるチカを見て、ふわりと微笑んだ。
それは、いつもの完璧なリーダーの笑顔でも、嫉妬に狂う狼の顔でもない。
すべてを包み込む、春の陽だまりのような、ただ一人の男としての笑顔だった。
「……でも、何度でも聞いていいよ」
「……え」
「チカが不安に思うとき。あの夜を思い出して、自分が嫌になるとき。……何度でも、何百回でも、俺に聞いて」
トキの指が、チカの涙を優しく拭う。
「その度に、俺は言うから。……汚くないよ、って」
「……」
「チカ、愛してるよ、って」
その言葉と共に、唇が重ねられた。
今度は、遠慮なんてなかった。
深く、熱く、互いの存在を確かめ合うような口づけ。
チカの口内に、トキの熱が侵入してくる。
あの夜、ソラに犯されたその場所を、トキが丁寧に、執拗に、愛で塗り替えていく。
不快感なんてない。
あるのは、胸が焼き切れるほどの愛しさと、安堵だけ。
「……ん……っ」
唇が離れると、二人の間には、銀色の糸が引いていた。
かつてソラに見せつけられた時は、死にたいほどの屈辱だった光景が、今は、ただ愛の証のように思えた。
「……お前、しつこいからな」
チカは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、精一杯の悪態をついた。
「覚悟しとけよ。……本番前にも、聞くかもしれないぞ」
「うん。何回でも答える」
トキは、愛おしそうにチカの鼻先を甘噛みした。
「だから、明日は……俺だけを見てて。俺の声だけを聞いて」
「……ああ」
「あいつが何を囁こうが、関係ない。……チカの体も、心も、全部俺のもので満たされてるんだから」
チカは、その背中に腕を回し、強くしがみついた。
そうだ。
俺には、この男がいる。
あのルシファーがどれほど強大で、恐ろしくても。
この不器用で、誠実で、愛おしい狼が、俺を繋ぎ止めてくれる。
(……上等だ、ソラ)
トキの匂いに包まれながら、チカは暗闇の中で瞳を光らせた。
明日は、決戦だ。
恐怖はある。震えも止まらないかもしれない。
けれど、もう魂までは奪わせない。
二人は、互いの体温を確かめ合うように、その夜、深く重なり合い、眠りについた。
嵐の前の、最後の静寂だった。
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