カナリア

松田 かおる

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静かに流れていたBGMが止んで、徐々に照明が暗くなると、今までざわついていた店内は、波が引いていくように静かになった。
しばらくして真っ暗になった店内に天井から淡いスポットライトが点ると、そこに一台のピアノと、一人の女性の姿が現われた。
その姿を見て、客は静かな拍手で彼女を迎えた。
彼女はそれに応えるように一度お辞儀をすると、ピアノに向かって座った。
静かに伴奏が流れ始め、彼女の透き通った声が店内に広がっていった。
その歌声を聞いている客は皆、彼女の歌声で心が癒されていくかのような表情だった。
それほどまでに、彼女の歌声は聞く人の心をひきつけるものだった。
始まった時と同じように、静かに一曲目が終わると、しばらくの間は、まるで彼女の歌声に全てを忘れさせられてしまったかのように店内は静まり返っていた。
やがて店内のあちこちから小さな拍手が起こり始め、それは店全体に広がる大きなものへと変わる。
彼女はそれに小さく微笑んで応え、拍手がなり止むのを待って、二曲目の前奏を弾き始める。
そして客はまた彼女の歌声に聞き入る。

「まるでカナリアがさえずっているような声だ」と、彼女の歌を聞いた一人の客が言った事がある。
そしていつの頃からか、「ここにはピアノを弾くカナリアがいる」と言われるようになり、その話を聞いた人達が彼女の歌声を聞きに、今夜もこの店に集まっていた。
やがて二曲目が終わって、続けて三曲目の前奏が流れ始めた。



帰りがけに一杯飲もうと思って立ち寄ったバーは、今日も休業だった。
「…誠に勝手ながら、本日は休業させていただきます…」
誰に言うでもなく、啓一はそこに書いてある文章を、口に出して読んでみた。
そしてほころび始めた休業案内の紙をもう一度見て、軽く溜め息をついた。
「しょうがない…部屋で飲むか」
啓一はそう言って傘をさし直して歩き始めた。
どこかで聞いたような鼻歌を啓一は歌いながら、傘をたたんでコンビニエンスストアに入る。
缶ビールを4本、瓶入りカクテルを2本、それとおつまみを少し。
お酒は今日中に全部飲んでしまうわけではなかったが、貼りっぱなしになっていたバーの休業案内を思い出して、しばらくあそこで飲むのはお預けだと思ったからだ。

片手に傘、そしてもう片方の手にコンビニエンスストアの袋をぶら下げて、啓一が住んでいるマンションの入り口に着いた。
ポストから新聞と郵便を抜き取って、そのままエレベータの方に行こうとした時、入口の方から衣擦れのような音がした。
そこは外側からは見えない部分だったので気付かなかったが、振り返るとそこに女性が一人、ちょっと大きめの鞄を抱えて床に座り込んでいた。
しかも今まで雨に打たれっぱなしだったらしく、全身がずぶ濡れだったが、身体でかばっていたのだろうか、鞄は全然濡れていなかった。
啓一が住んでいるマンションはそう大きくないので、全員の顔は知っていたが、彼女の顔には全く見覚えがなかった。
このマンションはオートロックではないので、誰かに会いに来たのならば、そのうちの玄関口で待てばいいはずなので、住んでいる誰かを待っている雰囲気ではなかった。
かといって酔っ払いが倒れ込んでいる様でもなかった。
きっと雨宿りをしているのだろう、啓一はそう思った。
けれども彼女の表情が妙に深刻に見えたので、どうにも気になってしまい、
「あの…」
と、つい声をかけてしまった。
その声に彼女は一瞬ビクっと肩を動かしたが、顔だけを動かして啓一の方に向けた。
「誰かを待ってるの?」
啓一が聞くと、彼女は何も言わず、首を横に振った。
「それじゃ、雨宿り?」
更に続けて聞くと、彼女は無言で頷いた。
「ふーん…」
啓一は一瞬考えて、
「とにかく、このままじゃカゼをひいてしまう。うちで少し休んで行けばいいよ」
と彼女に声をかけた。
なぜこんな事を彼女に言ったかは、啓一自身もよく解からなかった。
けれど最初に見た彼女の深刻な表情から、放っておけない何かを感じたのかもしれない。
啓一のその言葉に彼女は一瞬警戒の表情を見せたが、頷きながらゆっくりと立ち上がった。

30分後。
「はいこれ。身体が暖まるよ」
啓一はそう言って、彼女の前にホットココアを差し出した。
ずっと雨に打たれていたので、彼女の服はびしょ濡れになってしまっていた。
荷物の中に着替えはあるのかと聞くと、彼女は無言で首を横に振った。
このままではカゼをひいてしまいそうだったので、まず彼女にシャワーを浴びさせた。
彼女が着ていた服は乾燥機に放り込んだので、すぐに乾くだろうけど、さすがにその間何も着せないでおいておくわけにはいかないので、啓一のスウェット・スーツを着せている。
ただサイズがちょっと大きかったらしく、そでもすそもぶかぶかだった。
彼女はぶかぶかのそででカップを引き寄せながら、
「…ありがと…」
そう小さな声で言って、ココアを一口飲んだ。
「…やっと口をきいてくれたね」
啓一は笑いながら彼女に言うと、彼女の頬が少し赤くなった。
それは恥ずかしかったからなのか、それともココアで身体が暖まったからなのかは解からなかった。
けれども彼女の表情の中には、まだどこか警戒しているような感じがした。
その表情を見て啓一は、
「まぁ緊張するのもわかるけど、気楽にしなよ。大丈夫、君に手を出したりするような事はしないから」
と微笑みながら啓一が言うと、その言葉を聞いて安心したのか、彼女の表情から少しだけ緊張の色がとけた様に見えた。
彼女はしばらく黙ったままでいたが、
「…カナ…」
と、つぶやくように言った。
「え?今なんて?」
と啓一が聞くと、彼女は
「わたしの名前…香りと菜っ葉の菜で、香菜」
と言い直した。
いきなり名乗られたので啓一は一瞬慌ててしまったが、すぐに気を取り直して、
「あ、あぁ。香菜…さん、ね。こっちこそ、先に名乗らなくちゃいけないのに。僕は啓一、梁瀬 啓一」
そう応えた。
お互いに名乗りあった事で、少しだけ距離が近くなった様な気がした。
それと同時に、何となく空気が和んだようにも感じられた。

更に30分位経って、そろそろ乾燥機に放り込んだ香菜の服が乾いた頃。
リビングのソファで、二人は向かい合って座っていた。
「…香菜さんは、今夜これから行く宛てはあるの?」
啓一が訊ねた。
その言葉を聞いて、香菜は何も答えられずに黙っていた。
『行く所はありません』と言っているようなものだった。
「そうか…」
啓一はそれだけ言ってしばらく黙りこんで、壁にかけてある時計を見た。
もう夜の12時半を回っていた。
「この時間じゃ電車もないし…じゃあ、今夜はここに泊まっていくといいよ」
啓一がそう言うと、香菜はきょとんとしていたが、やがて
「そんな、服を乾かしてもらっただけでも充分なのに、そこまでしてもらう訳には…」
と、恐縮した口調で言った。
けれども啓一は、
「いいのいいの、ここに住んでるのは僕一人だし。それに、こんな時間に女性を一人追い出すなんて事、できないしね」
全く気にしない口調で答えた。
「けど…」
まだ何か言いたそうだった香菜の言葉をふさぐように、
「ベッドはその奥の部屋にあるから、そこで寝るといいよ。ちょっと散らかってるけど」
啓一はそう言った。
その言葉に気圧されたのか諦めたのか、香菜は、
「…じゃぁ、お言葉に甘えて…」
と、申し訳なさそうに言った。
その言葉に啓一はにっこりと笑って、
「そうと決まれば話は早い。君も疲れてるだろうから、もう寝るといいよ。あ、僕はここでねるから、ヘンな心配しないでいいよ。いざとなれば、内鍵もついてるから」
そう言って啓一は、押入れから自分の毛布を一枚引っ張り出してきた。
香菜は何か言おうと思ったが、あえて彼の好意を受ける事にした。
「…じゃぁ、お休みなさい…」
申し訳なさそうな香菜のその声に、
「はい、お休みなさい」
と啓一は応えた。
香菜はその声を背中に聞きながら、寝室のドアを閉めた。


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