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昨夜降っていた雨も夜中のうちに止んでいて、窓からは眩しいほどの朝日が差し込んでいた。
啓一がいつもより早く目を覚したのは、ソファで寝ていたせいもあったし、差し込んだ朝日がまぶしかったせいもあったが、聞き慣れない音が耳に入ってきたせいでもあった。
向こうのキッチンから、何やら音がしている。
寝起きでぼーっとしていた頭が少しはっきりしてくるにつれ、啓一は一体それがなんの音なのかが解かった。
水を流す音,食器がかちゃかちゃと当たる音,やかんでお湯を沸かしている音など。
いわゆる炊事の音だ。
啓一はソファから起き上がり、音のする方、つまりキッチンへ向かう。
キッチンに入ると、香菜が何かを作っているようだった。
ちょうどその時、何か道具を取ろうとしたのだろう、香菜がこちらを振り返った。
半分寝ぼけた頭で、啓一は何と声をかけたらいいのかよく解からないでいたが、香菜の方から、
「あ、おはようございます」
と啓一に挨拶した。
「…あ、おはよう…」
啓一も香菜に挨拶を返して、
「あの、これは…」
と続けた。
啓一の言葉を受けて、香菜は、
「…勝手に色々触っちゃってごめんなさい。ゆうべ泊めてもらったお礼に、朝ごはんを作らせてもらおうと思って…」
と言って、少し申し訳なさそうな顔をした。
香菜の表情を見て、
「とんでもない、お礼だなんてそんな大げさな事、考えなくていいのに。かえってこっちが恐縮しちゃうよ」
ちょっと早口で啓一は言った。
「あまりおいしくないかもしれないけど、もしよかったら食べてくれますか?」
香菜がそう聞くと、
「もちろんごちそうになるよ。せっかく作ってもらっているのに、断るとバチがあたっちゃうよ」
啓一はそう言って微笑んだ。
香菜はそれを聞いて、
「よかった。もうすぐですから、向こうで待ってて下さい」
そう言いながら向こうを振り返って、朝食の準備を進めた。
朝食が済む頃には、啓一が仕事に出かける時間になった。
着替えを済ませて出かける準備をしながら、
「僕はこれから仕事にいかなくちゃいけないけど、もし僕がいない間に出て行くんだったら、鍵をガスメーターのところにでも置いといて」
啓一は香菜にそう言ったが、香菜は返事をしなかった。
「ばたばたしちゃってごめん。じゃ」
啓一がそう言うと、香菜は玄関先まで見送りながら、
「いってらっしゃい」
と言ってくれた。
下に降りるエレベーターの中で、『誰かに見送られるってのも悪くないな』と啓一は何となく考えていた。
夜。啓一は仕事が終わってマンションに帰ってきた。
玄関に着いて、すぐ脇のガスメーターをごそごそと探る。
鍵は、あった。
出てきた鍵を見て、啓一は何となく複雑な気分になりながらも、鍵を開けて部屋に入った。
電気を点けると部屋の中はきちんと片付いていて、朝まで香菜がいた事など微塵も感じさせなかった。
『まぁ、ただの雨宿りだったから…』
啓一はそう考えて、取りあえず晩ごはんの支度を始めようとした。
冷蔵庫を開けて何か材料はないかと覗いていたら、玄関のチャイムが鳴った。
誰だろうと思って玄関のドアを開けると、スーパーの袋をぶら下げた香菜が立っていた。
あまりに予想外の出来事に、啓一は
「香菜さん…」
と言うのが精一杯だった。
「あの、近所のスーパーで買い物してたら、勝手がわからなくって手間取ちゃって、それで…」
そこまで言って、香菜は啓一の様子が少し違う事に気付いた。
「…あの、もしかして、迷惑でした?」
香菜がおずおずと聞くと、啓一ははっと我に帰るとぶんぶんと首を振り、
「とんでもない、迷惑だなんて。まさか、こんな所にまた戻ってくるって思ってなかっただけで…迷惑だなんて事は…」
と、ちょっとしどろもどろになりながらも応えた。
啓一のその言葉を聞いて、香菜は安心したような表情になり、
「よかった…」
とだけ言った。
「あの、立ちっぱなしもなんだから、中へ入って」
啓一の言葉に頷いて、香菜は部屋の中へ入った。
香菜がスーパーで買ってきた材料で作った晩ごはんが済んで、食後の一時を過ごしている時、
「あの、お願いがあるんですけど…」
と、香菜が口を開いた。
「お願い?」
啓一が答えると、香菜は姿勢を正して、
「お願いします。もう少し、もう少しだけ、ここにいさせて下さい」
と言って、深々と頭を下げた。
その素振りを見て、
『なにを大げさに…』
と言おうと思ったが、香菜があまりに真剣な表情なので、啓一もつられて真剣な表情になり、
「いや、そんなにかしこまらなくても、君がいたければ明日まででも半年先まででも、好きなだけいればいいよ」
と答えた。
啓一のその言葉を聞いて、香菜は安心した表情にはなったが、
「ありがとうございます」
と、妙にかしこまった口調でお礼を言い、また深々と頭を下げた。
香菜との生活が始まって三日ほど経って、啓一はひとつ気付いた事があった。
香菜は決して音楽を聞かないのだ。
一度だけ食事中に
「音楽でもかけようか」
と啓一が言ったところ、
香菜は
「ごめんなさい、音楽をかけるのだけはやめて」
と強く反対された事がある。
「音楽」と言う言葉を耳にしたときの香菜の表情はとても辛そうだったが、それ以外は全く普通で、むしろとても楽しそうに見えた。
それはまるで「音楽」というよりも、音楽の中にある「何か」に立ち向かっているようにも見えた。
そして香菜はその埋め合わせでもするかの様に、努めて明るくしていた。
かえってそれが香菜の「音楽」に対する態度を強調させている事になってしまっていたが、それでも香菜は明るくふるまっていた。
啓一は香菜のそれに気付いていたが、あえて何も口出しせず、気付かない振りをしていた。
啓一がいつもより早く目を覚したのは、ソファで寝ていたせいもあったし、差し込んだ朝日がまぶしかったせいもあったが、聞き慣れない音が耳に入ってきたせいでもあった。
向こうのキッチンから、何やら音がしている。
寝起きでぼーっとしていた頭が少しはっきりしてくるにつれ、啓一は一体それがなんの音なのかが解かった。
水を流す音,食器がかちゃかちゃと当たる音,やかんでお湯を沸かしている音など。
いわゆる炊事の音だ。
啓一はソファから起き上がり、音のする方、つまりキッチンへ向かう。
キッチンに入ると、香菜が何かを作っているようだった。
ちょうどその時、何か道具を取ろうとしたのだろう、香菜がこちらを振り返った。
半分寝ぼけた頭で、啓一は何と声をかけたらいいのかよく解からないでいたが、香菜の方から、
「あ、おはようございます」
と啓一に挨拶した。
「…あ、おはよう…」
啓一も香菜に挨拶を返して、
「あの、これは…」
と続けた。
啓一の言葉を受けて、香菜は、
「…勝手に色々触っちゃってごめんなさい。ゆうべ泊めてもらったお礼に、朝ごはんを作らせてもらおうと思って…」
と言って、少し申し訳なさそうな顔をした。
香菜の表情を見て、
「とんでもない、お礼だなんてそんな大げさな事、考えなくていいのに。かえってこっちが恐縮しちゃうよ」
ちょっと早口で啓一は言った。
「あまりおいしくないかもしれないけど、もしよかったら食べてくれますか?」
香菜がそう聞くと、
「もちろんごちそうになるよ。せっかく作ってもらっているのに、断るとバチがあたっちゃうよ」
啓一はそう言って微笑んだ。
香菜はそれを聞いて、
「よかった。もうすぐですから、向こうで待ってて下さい」
そう言いながら向こうを振り返って、朝食の準備を進めた。
朝食が済む頃には、啓一が仕事に出かける時間になった。
着替えを済ませて出かける準備をしながら、
「僕はこれから仕事にいかなくちゃいけないけど、もし僕がいない間に出て行くんだったら、鍵をガスメーターのところにでも置いといて」
啓一は香菜にそう言ったが、香菜は返事をしなかった。
「ばたばたしちゃってごめん。じゃ」
啓一がそう言うと、香菜は玄関先まで見送りながら、
「いってらっしゃい」
と言ってくれた。
下に降りるエレベーターの中で、『誰かに見送られるってのも悪くないな』と啓一は何となく考えていた。
夜。啓一は仕事が終わってマンションに帰ってきた。
玄関に着いて、すぐ脇のガスメーターをごそごそと探る。
鍵は、あった。
出てきた鍵を見て、啓一は何となく複雑な気分になりながらも、鍵を開けて部屋に入った。
電気を点けると部屋の中はきちんと片付いていて、朝まで香菜がいた事など微塵も感じさせなかった。
『まぁ、ただの雨宿りだったから…』
啓一はそう考えて、取りあえず晩ごはんの支度を始めようとした。
冷蔵庫を開けて何か材料はないかと覗いていたら、玄関のチャイムが鳴った。
誰だろうと思って玄関のドアを開けると、スーパーの袋をぶら下げた香菜が立っていた。
あまりに予想外の出来事に、啓一は
「香菜さん…」
と言うのが精一杯だった。
「あの、近所のスーパーで買い物してたら、勝手がわからなくって手間取ちゃって、それで…」
そこまで言って、香菜は啓一の様子が少し違う事に気付いた。
「…あの、もしかして、迷惑でした?」
香菜がおずおずと聞くと、啓一ははっと我に帰るとぶんぶんと首を振り、
「とんでもない、迷惑だなんて。まさか、こんな所にまた戻ってくるって思ってなかっただけで…迷惑だなんて事は…」
と、ちょっとしどろもどろになりながらも応えた。
啓一のその言葉を聞いて、香菜は安心したような表情になり、
「よかった…」
とだけ言った。
「あの、立ちっぱなしもなんだから、中へ入って」
啓一の言葉に頷いて、香菜は部屋の中へ入った。
香菜がスーパーで買ってきた材料で作った晩ごはんが済んで、食後の一時を過ごしている時、
「あの、お願いがあるんですけど…」
と、香菜が口を開いた。
「お願い?」
啓一が答えると、香菜は姿勢を正して、
「お願いします。もう少し、もう少しだけ、ここにいさせて下さい」
と言って、深々と頭を下げた。
その素振りを見て、
『なにを大げさに…』
と言おうと思ったが、香菜があまりに真剣な表情なので、啓一もつられて真剣な表情になり、
「いや、そんなにかしこまらなくても、君がいたければ明日まででも半年先まででも、好きなだけいればいいよ」
と答えた。
啓一のその言葉を聞いて、香菜は安心した表情にはなったが、
「ありがとうございます」
と、妙にかしこまった口調でお礼を言い、また深々と頭を下げた。
香菜との生活が始まって三日ほど経って、啓一はひとつ気付いた事があった。
香菜は決して音楽を聞かないのだ。
一度だけ食事中に
「音楽でもかけようか」
と啓一が言ったところ、
香菜は
「ごめんなさい、音楽をかけるのだけはやめて」
と強く反対された事がある。
「音楽」と言う言葉を耳にしたときの香菜の表情はとても辛そうだったが、それ以外は全く普通で、むしろとても楽しそうに見えた。
それはまるで「音楽」というよりも、音楽の中にある「何か」に立ち向かっているようにも見えた。
そして香菜はその埋め合わせでもするかの様に、努めて明るくしていた。
かえってそれが香菜の「音楽」に対する態度を強調させている事になってしまっていたが、それでも香菜は明るくふるまっていた。
啓一は香菜のそれに気付いていたが、あえて何も口出しせず、気付かない振りをしていた。
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