龍血の系譜

盤上の観察者

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孤児

⽣存

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 深夜⼆時。東京の空は泣くというより嘔吐していた。激しい⾬⾳。
 俺、ケンジは⾆打ちしながら店の裏⼝を開けた。

「……クソが」
 重たいゴミ袋を両⼿に提げ、⼀歩、外に出る。
 湿気が、肌にまとわりつく。⽣ゴミの腐臭と、排気ガスの匂い。そして、⽿障りな重低⾳。

 ブゥゥゥゥン……。

 何台もの業務⽤の室外機が悲鳴のような唸りを上げている。この裏路地は都市の掃き溜めだ。俺の⼈⽣と同じだ。ゴミをポリバケツに放り込もうとした、
 その時だった。
 視界の端。
 室外機の隙間の、本来なら猫すら寄り付かないデッドスペースに、「黒い染み」があった。

 いや、違う。影じゃない。⼈だ。
 ⼦供……?

 四歳か、五歳くらい。ボロ雑⼱のような布を被り、膝を抱えて座り込んでいる。普通なら、「可哀想な迷⼦」だと思う場⾯だ。
 
 だが、俺の背筋を⾛ったのは憐れみではなかった。
 恐怖だ。異常だった。

 これだけの豪⾬だ。地⾯も壁も、叩きつけられる⽔⾶沫で煙っている。
なのに、その⼦供の周りだけ、⾬が当たっていなかった。

 静寂。
 嵐の中で、そこだけが真空のように⾳が死んでいる。そして呼吸だ。

 ブゥゥゥゥン……。

 室外機のファンが回る⼀定のリズム。⼦供の⼩さな肩は、その機械的な振動と完全に同期していた。吸って、吐いて。まるで、この都市の⼼臓の⾳に合わせて⽣命維持を⾏っているような不気味な正確さ。

(……死んでるのか?)

 俺は息を呑んだ。確かめようと、⼀歩踏み出す。

 バシャリ。

 ⽔溜まりを踏む⾳が響いた瞬間、⼦供が顔を上げた。
 ⼼臓が早鐘を打った。
 泥と油にまみれた⼩さな顔。だが、その瞳だけが異様に澄んでいた。

 ガラス⽟のような無機質な瞳。
 助けを求める⽬じゃない。
 ⺟親を探す⽬でもない。

 頬を、⼀筋の⽔が伝う。
 少年はそれを、指先で正確に払った。
 無意識ではない。機械のような動作。

 俺は今⾒下ろしているはずだ。
 俺が⼤⼈であいつは⼦供。
 俺が店員であいつは不法侵⼊者。
 優位なのは俺のはずだ。

 なのになぜだ。
 なぜ、俺の⽅が「値踏み」されていると感じるんだ。

 『敵か。味⽅か。それともただの⾵景か』声に出さずその瞳がそう語っていた。
 俺は動けなかった。

 蛇に睨まれた蛙のようにゴミ袋を握りしめたまま⽴ち尽くす。
 本能が警鐘を鳴らす。
 関わるな。
 ⾒なかったことにしろ。

 こいつは、ここにあるべき存在じゃない。
 先に瞬きをしたのは、俺だった。

 数秒か、永遠か。
 俺は強張った指から⼒を抜き、ゴミ袋をバケツに放り込んだ。
 逃げるように店内に戻ろうとして、⾜が⽌まる。

 あの⽬は、俺に何かを求めていたわけじゃない。ただ、そこに「在った」だけだ。
 だが、俺の中で何かが軋んだ。恐怖の裏側にある、奇妙な焦燥感。
 俺は廃棄登録するはずだった弁当を⼀つ、カゴから掴み取った。
 消費期限切れの幕の内。
 本来ならゴミになるはずのカロリーの塊。
 裏⼝へ戻る。
 ⾬はまだ叩きつけている。

 少年は、⼀ミリも動いていなかった。
 俺が戻ってくることを知っていたかのように。

「……⾷うか」
 震える声が出た。

 これは、俺の安全を買うための供物だ。
 俺は濡れたアスファルトの上に、弁当を置いた。
 少年は俺を⾒ない。
 弁当も⾒ない。
 だが、俺が⼿を引いた瞬間、黒い影が動いた。

 ガッ。
 速い。獣が餌に⾶びつく速さではない。

 武⼠が⼑を抜くような、無駄の⼀切ない挙動。
 プラスチックの蓋が開く⾳すら、⾬⾳にかき消されるほど静かだ。
 少年は箸を割ると、⽶を⼝に運び始めた。
 ガツガツとむさぼる姿を想像していた俺は、またしても裏切られた。
 箸の持ち⽅が、異様に美しい。
 背筋を伸ばし、⼀定の速度で、淡々と咀嚼し、嚥下する。

 味わっているのではない。
 燃料を補給しているのだ。

 煮物、焼き⿂、⽩⽶。
 三⾓⾷べですらない。

 無駄な順番が⼀つもない。
 五歳児が持つべき「⾷欲」という感情が、そこには⽋落していた。

 あるのは「⽣存」への執着だけ。

 ⼀粒の⽶も残さず平らげると、少年は箸を⽌め、空になった容器を⽔で軽くゆすいだ。⾬⽔を使って。
 そして、プラスチックの容器をパキパキと⾳を⽴てて折りたたみ、最⼩限のサイズに圧縮した。

 箸の袋の中に、ゴミをまとめる。
 完璧な隠滅。

 ここに「⾷事をした痕跡」を残さないための迷いがない動作。

 少年が⽴ち上がる。
 俺の⽅を⾒た。

 いや、俺という障害物を認識しただけか。
 礼の⾔葉はない。

 だが、その瞳の⾊が、さっきとは僅かに違って⾒えた。
 
 『契約は成⽴した』
 そう⾔われた気がした。

 俺は、この得体の知れない⽣物に、餌付けをしてしまったのだ。
 あるいは、俺が飼われたのか。
 ⾬の中、⼩さく折り畳まれたゴミだけが、俺たちの間に残されていた。
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