龍血の系譜

盤上の観察者

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制圧

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 午後⼀時。東京、新宿。

 三⼗代半ばのサラリーマン、佐藤は、スマートフォンの画⾯に映る取引先からのメールに悪態をついていた。胃の奥には安物の油淋鶏が重く停滞し、アスファルトからはむせ返るような排気ガスの匂いが⽴ち上がる。

 歩⾏者信号の⾚が、⼀秒、また⼀秒と、正確なリズムで明滅を繰り返している。

 その「⼀秒」が、突如として永遠に引き伸ばされた。
 スマートフォンの時計が「13:02」のまま凍りつき、液晶の粒⼦が砂嵐のように静⽌する。

 ⼤型ビジョンのアイドルは⼝を動かしているが、そこから漏れるのは⾳ではなく、⿎膜を直接針で刺すような、乾いた「空⽩」だった。

 新宿を埋め尽くす三千⼈の⾜⾳が、発⽣した瞬間に何かに吸い取られ、街から⼀切の反響が消失した。

 次の瞬間、春の空が、古いフィルムが燃え落ちるように漆黒に割れた。
 
 ⻲裂の奥から、数百の「質量」が吐き出される。パラシュートもない。重⼒に従っているのではない。座標そのものが移動している。

 ガーゴイルの死兵たちがアスファルトに着地した瞬間、佐藤の⽬の前で物理法則が死んだ。
 ビルの窓ガラスが⼀⻫に粉砕される。だが、破⽚は地⾯に落ちない。重⼒を失ったように空中に滞留し、そのまま内側から押し潰されて銀⾊の塵へと変わる。変電所が爆発した。

 だが、炎は膨張しなかった。

 凄まじい閃光を放ちながら、爆⾵も熱も外へ漏れず、ただ爆発そのものが内側へと「圧殺」され、漆黒の空洞を残して消滅した。

 その絶望的な不⾃然さの中に、異様な「規律」が⽴ち上がった。
 着地したガーゴイルたちは、⼀切の咆哮を上げない。

 佐藤の⽬の前に降り⽴った⼀頭は、喉を鳴らすことすらなく、ただ最短距離で⽬的の配電盤へと歩み出した。

「ひっ……!」
 佐藤は腰を抜かし、無様に這いずり回る。ガーゴイルの巨⼤な⽖が佐藤の頭上を掠める。

 だが、それは攻撃ではない。
 ガーゴイルは佐藤の存在を認識しながら、彼を「殺す⼿間」すら惜しむように、わずかに⾜⾸の⾓度を変えて彼を避けた。

 逃げ惑う⼥⼦⾼⽣、絶叫する⽼⼈。
 ガーゴイルたちの進路上に⽴ち塞がる⼈間たちは、ただの「障害物」として、機械的に、最⼩限の動作で弾き⾶ばされる。

 彼らは⼈間を喰わない。殺戮すら贅沢な無駄だと⾔わんばかりに、ただ淡々と、外科⼿術のような正確さで都市の神経系を断ち切っていく。

 信号機のポールは⼀撃で根元から断たれ、地下鉄の通気⼝は⼨分の狂いもない配置で⽡礫によって塞がれた。

 その「無駄のなさ」が、⼈間に本当の絶望を教えた。パニックは、単なる混乱を越えて「倫理の棄却」へと進化した。

 佐藤の隣で、若い男が⾎相を変えて⾛り出す。その前には、逃げ遅れた⽼⼥が転んでいた。
 男は⼀瞬、⾜を⽌めた。だが、その瞳に宿ったのは憐れみではなく、極めて冷徹な「⽣存計算」だった。

 男は⽼⼥の腕を掴み、後ろから迫るガーゴイルの⽅へと⼒任せに放り投げた。彼⼥を⾁の盾にして、⼀秒でも⻑く⽣き残る。それは狂気ではなく、この異常な空間に適応した結果の「合理性」だった。
 
 佐藤⾃⾝もまた、縋り付いてくる同僚の⼿を、躊躇なく踏み躙った。
「離せ、死ぬだろ!」

 数秒前まで「佐藤」という社会⼈を構成していた薄っぺらな尊厳は、⼀瞬で剥がれ落ちた。
 そこにいたのは、⾃分⼀⼈が助かるために他⼈を効率的に犠牲にする、剥き出しの⽣物でしかなかった。

 その光景を、上空の報道ヘリからカメラマンの⽥中が捉えていた。
 だが、彼の脳はそれを映像として処理することを拒絶していた。

 ヘリのローター⾳。本来なら会話も困難な爆⾳が、今は⽿を澄まさなければ聞こえないほど遠い。
 エンジンの熱計器がゼロを指し、物理的には墜落しているはずの機体が、歪んだ空間の縁で不⾃然に静⽌している。

 ⽥中は⾒た。
 送電線を噛みちぎったガーゴイルの⼀体が、こちらを向いて「測定」するようにレンズを⾒つめたのを。

 それは、蟻の巣に毒液を流し込み、その反応を待つ観察者の視線。
 ⽥中はカメラを放り出し、⾃分を助けようとした操縦⼠のシートベルトを、⾃分が脱出する隙間を作るために引き千切った。

 国家の防衛システムすら、この「測定」の前では無⼒だった。
 市ヶ⾕、防衛省地下指令所。⾼⽊⼆佐の⽬の前のモニターが、砂嵐の奥でデタラメな座標へ⾶んでいく。

「システムが、敵を認識しません!質量があるのに、プログラムが『計算不能』として処理を拒否しています!」

 最新鋭の迎撃網は、物理法則そのものが歪められた空間では、ただのプラスチックとシリコンの塊だった。⾃衛隊という「組織の誇り」が、⼀瞬で灰へと帰した。

 その不純で、醜悪で、法則の壊れた⼤気の震え。
 毒のように流れ込む異界の波動を、郊外の道場が迎撃した。

 板間。
 正義が持つ湯呑みの中で、茶柱が凍りついた。
 温かいはずの茶から、⼀切の湯気が消える。

 型の稽古をしていた師範たちの真剣が、空を裂く⾳さえ⽴てずに、空中で「⽌まった」。

 彼らが感じたのは、恐怖ではない。
 この不浄。
 他者を踏みにじる⼈々の精神の汚濁。
 それらが混じり合い、武の理(ことわり)すら通⽤しない世界の腐敗。
 カツ、と。正義が湯呑みを置いた。その⾳だけが、不⾃然に鮮明に響いた。

「……道着を着ろ」
 その⼀⾔は、もはや教えではない。

 この壊れた世界で、唯⼀崩れない「⼰の純度」を保つための宣⾔だった。
 師範たちが無⾔で⽴ち上がる。その瞳には、恐怖を通り越した、冷徹なまでの殺意が宿っていた。

 縁側で、六歳の綾が嘔吐した。
 あまりの「異質」と、空気に混じった⼈間の「醜悪な匂い」に、胃が耐えきれなかった。
 ⽗である正義の背中。それが世界の崩壊を⾷い⽌める唯⼀の楔(くさび)に⾒えた。

 綾は、震える⼿で⾃らの⼝を抑え、そして、その視線は吸い寄せられるように隅に転がる「怪物」へ向かった。

 シンジ。
 彼は、寝ていた。
 この物理法則が狂い、⼈間が獣に成り果てた瞬間のすべてを、彼は夢の淵で「観測」していた。

 ⾳が死に、時計が⽌まり、爆発が内側に潰れる。
 すべてが、⾃分を引きずり出すための「暴⼒的な測定」であることを、彼は誰よりも深く知っている。

 ここで彼が⽬を開けば、この不浄な世界は、彼の持つ「純度」に耐えきれず、完全に崩壊してしまうだろう。

 綾が涙⽬で、縋るように⾒つめる中、シンジは呼吸の⼀⽚すら⼤気に漏らさず、存在の底へと潜り続ける。

 ⽬蓋は決して開かない。
 ただ――道着の裾を握る右⼿の⼩指だけが、⼀ミリにも満たない振幅で、この不条理な測定を嘲笑うように、⼀度だけ、跳ねた。
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