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命
標的
しおりを挟む⼤⻄道場の分厚い樫の正⾨が、爆薬を仕掛けられたように内側へと弾け⾶んだ。
⽊⽚が散弾となって板間を薙ぎ払う。
⼟煙が晴れるよりも早く、絶対零度の冷気が、春の⽣温い道場の空気を⼀瞬にして凍らせた。
現れたのは、⼆つの巨⼤な影。
マナなき真空の都市に降り⽴った、漆黒の⽯の死兵たちだった。
「散れッ!!」
師範代・町⽥の怒号が響く。
同時に、⼗数⼈の屈強な⾨下⽣たちが、蜘蛛の⼦を散らすように板間を蹴った。
直後、町⽥たちが先ほどまで⽴っていた床板が、ガーゴイルの⼀体が無造作に振り下ろした⽯の拳によって、基礎のコンクリートごとクレーター状に粉砕された。
轟⾳。道場全体が地震のように揺れる。
「囲め!⽌まるな、⽌まれば死ぬぞ!」
町⽥は、綾に砕かれた右腕のギプスを庇いながら、左⼿に持った⽊⼑の柄を強く握りしめた。
相⼿は物理法則を無視した質量。
まともに受ければ、⽊⼑ごと臓物をすり潰される。
だが、絶望はなかった。
町⽥の、いや、⾨下⽣全員の脳裏には、数ヶ⽉前の光景が焼き付いていた。
(……あの「お嬢様」の⽊⼑に⽐べれば……!)
五歳の少⼥が放った、軌道すら⾒えない唐⽵割り。
それに⽐べれば、⽬の前の怪物の挙動は、質量こそ絶望的だが、線が太く、明確な「予備動作」が存在している。
ガーゴイルが⽯の翼を翻し、薙ぎ払うように剛腕を振るう。空気を圧縮する死の⾵圧。
町⽥は、それを「避ける」のではなく、あえて前へ、怪物の懐である死⾓へと滑り込んだ。あの時、綾が⾃分に⾒せた「⼊る」動きの完全なトレース。
「今だッ!」
町⽥の合図と同時に、死⾓へ回り込んでいた三⼈の⾨下⽣が、⼀⻫に真剣を振り下ろした。
⽕花が散る。
鍛え上げられた⽇本⼑が、ガーゴイルの⽯の⽪膚の関節部、最も装甲が薄いであろう膝裏と肘の内側に正確に叩き込まれた。
硬質な破砕⾳と共に、ガーゴイルの⽪膚に⻲裂が⾛り、銀⾊の粉塵が舞う。
⼈間の技術が、異界の兵に届いた瞬間。
だが、歓喜の声は上がらなかった。
ガーゴイルは、⾃らの関節に刃が⾷い込んでいるというのに、表情の筋⾁⼀つ動かさなかったのだ。
痛覚がない。
いや、痛みという信号を「任務に不要なノイズ」として完全に遮断している。
怪物は、刃を⾷い込ませたままの腕を、鬱陶しい⾍を払うように無造作に横へ振った。
「ぐあッ!」
⾨下⽣の⼀⼈が、⼑ごと吹き⾶ばされ、道場の壁に激突して⾎を吐く。
肋⾻が数本折れる嫌な⾳が響いた。
殺そうと思えば、⼀撃で⾁⽚にできたはずの軌道。
だが、怪物は彼を「殺さなかった」。
あえて急所を外し、痛みと絶望だけを与え、道場に悲鳴という名の撒き餌を撒いている。
標的(バグ)を引きずり出すための、冷酷な「いたぶり」。
縁側の隅。
その⾎の匂いと、⾨下⽣たちの悲痛な叫びを背に受けながら。
シンジは、ただ丸くなって寝ていた。
彼の⽿は、床を伝う振動から、倒れた⾨下⽣の⼼拍数の低下を正確に読み取っている。
今、⾃分が動けば、この惨劇は⼀秒で終わる。
だが、⽬蓋の裏の暗闇で、彼は冷徹に⼰の気配を殺し続けた。
(……)
シンジの右⼿の⼩指が、⼰の無⼒さを呪うように、微かに畳を引っ掻いた。
そのシンジの沈黙の数メートル先、道場の中央。
もう⼀体のガーゴイルと対峙している⼤⻄正義は、⼀歩も退いてはいなかった。正義の⾜元には、真っ⼆つにへし折られた愛⼑の残骸が転がっている。
だが、彼の⼿には、いつの間にか⼀本の⽩扇(はくせん)が握られていた。
ホテルでプロの暗殺者を解体した、あの紙と⽵の玩具。
「……なるほど。貴様ら、探しているな」
正義は、低く地を這うような声で呟いた。
⽬の前の怪物は、正義を殺そうとしていない。
その視線は正義という「個」を通り越し、道場の奥、縁側、そして建物の裏側へと、レーダーのように絶えずスキャンを繰り返している。
正義の全⾝から、現代武道家の理性が剥がれ落ちた。
⽑⽳から噴き出すのは、汗ではなく、室町から続く「⼈斬り」の濃密な⾎の匂い。
道場の空気が、泥と、錆びた鉄と、死臭が⽴ち込める戦国時代の戦場へと強制的に書き換わる。
正義が、⾳もなく踏み込んだ。
縮地。
ガーゴイルの瞳孔が、初めて微かに収縮した。
質量を持った⽯の拳が、正義の頭部を粉砕すべく振り下ろされる。
正義は避けない。
振り下ろされる豪腕の側⾯、⼒のベクトルが最も脆弱になる⼀点に、閉じた⽩扇の要(かなめ)を正確に叩き込んだ。
バチィッ!!
雷が落ちたような衝撃⾳。
数百キロの質量の軌道が、たった⼀本の扇⼦によって完全に逸らされ、正義の横の 床板を深く抉り取る。
その隙を⾒逃さず、正義は扇⼦を開き、カミソリと化した和紙のエッジで、ガーゴイルの視界を奪うべくその両⽬を横薙ぎに切り裂いた。
ギギィィッ!
初めて、怪物の⼝から硬質な軋み⾳が漏れた。
⽯のまぶたに浅い裂け⽬が⼊り、銀⾊の粉塵が噴き出す。
正義はそのまま怪物の懐に潜り込み、がら空きになった胸部の中⼼へ、全霊の「発勁」を込めた掌底を叩き込んだ。
衝撃波が怪物の背中へ抜け、背後の障⼦が粉々に吹き⾶ぶ。
数トンを誇る巨体が、数メートル後⽅へズザザザッと滑り、⽚膝をついた。
「……どうした。化け物と⾔う割には、随分と軽いな」
正義は、扇⼦をパチリと閉じ、悠然と⾒下ろした。
だが。
⽚膝をついたガーゴイルは、顔に⼀⽂字の傷を負いながら、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に浮かんでいたのは、怒りではない。
四百年という、永い永い記憶の底から引きずり出された「郷愁」と「落胆」だった。
怪物の脳裏に、⼀つの記憶の座標が蘇っていた。
四百年前。泥と⾎に塗れた、この国の戦場。
そこで出会った、⼀⼈の⼈間。
黒い着物を纏い、マナを持たないにも関わらず、ただ「理(ことわり)」のみで空を裂き、絶対の覇者である氷の将(アイスドラゴン)すら凌駕するほどの純度を持った、本物の「異常」。
ガーゴイルは、ゆっくりと⽴ち上がった。⽚膝をつかされた胸のダメージなど、微塵も感じていない。
怪物の瞳が、冷徹な鑑定⼠のように正義を射抜く。
『……似テイル、ト思ッタガ』
怪物の顎(あぎと)から、⼤気を直接震わせるような重いノイズが響いた。
⼈間の⾔語ではないが、その意思は正義の脳へ直接流れ込んでくる。
『同ジ⾊ノ⾐。同ジ論理。ダガ、貴様ハ、只ノ模造品(レプリカ)ダ』
その瞬間。
ガーゴイルの全⾝から、「⼿加減」というタガが完全に外れた。
周囲の空気が、急激に圧縮される。
ただの質量ではない。千年を戦い抜いてきた、真の「武」の純度が、殺意として道場を埋め尽くした。
『本物ノ深淵ハ、貴様ノヨウニ、⾃⼰ノ強サヲ誇⽰シナイ。……貴様ハ、弱イ』
怪物が、姿を消した。
正義の⽬が、極限まで⾒開かれる。
縮地ではない。純粋な速度による消失。
次の瞬間、正義の腹部に、⾒えない丸太で打ち抜かれたような致命的な衝撃が⾛った。
「ガハッ……!」
正義の体が、くの字に折れ曲がりながら後⽅へ吹き⾶ぶ。
板間を⼆度、三度と跳ね、道場の上座の祭壇に激突してようやく⽌まった。
⼝から、⼤量の鮮⾎が吐き出される。
「お、お師匠ッ!!」
町⽥の絶叫が響く。
現代の剣聖と呼ばれた男が、完全に無⼒化された。
だが、⾎まみれになった正義の⼝元は、微かに笑っていた。
(……これが、本物の……戦場……)
恐怖はない。
ただ、⼰が⼀⽣を懸けても届かなかった「武の極致」を前にした、武⼈としての悦びだけが、折れた肋⾻の痛みを凌駕していた。
ガーゴイルは、倒れた正義にはもう⽬もくれなかった。
偽物の鑑定は終わった。
怪物は、ゆっくりと⾸を巡らせる。
壁際で崩れ落ちる⾨下⽣たち。
恐怖で顔を引き攣らせ、後ずさる町⽥。
そして。
縁側の⼿前。
六歳の綾が、ガタガタと震える⾜で⽴ち、⾃分よりも⻑い⽊⼑を構えていた。
恐怖で顔は蒼⽩になり、涙がボロボロとこぼれている。それでも彼⼥は、倒れた⽗と⾨下⽣たちを庇うように、異界の怪物と対峙しようとしていた。
だが、怪物の冷たい瞳は、綾を⾒てはいなかった。
その視線は、綾の肩越し――縁側の奥の「⼀点」に固定されていた。
道場の空気が、完全に停⽌した。
怪物の放っていた「死の重圧」が、霧散したわけではない。
それを遥かに凌駕する、底知れぬ「真空」が、縁側の奥から膨張し、怪物の重圧を丸ごと飲み込んでしまったのだ。
ズリ、と。
静かな⾐擦れの⾳がした。
綾が、息を呑んで振り返る。
そこに⽴っていたのは、六歳になったばかりの緑⾐の少年だった。
寝ぼけ眼ではない。空洞でもない。
その瞳は、深海のように暗く、そして、すべてを削ぎ落とした「純度」だけを湛えていた。
彼の右⼿に握られていたのは、⽊⼑ではない。
道場のもっとも奥、正義の部屋に幾重もの結界と鎖で封印されていたはずの、⼀振りの⼑。
名⼑『⽉光』。
使⽤者の魂を吸い上げ、狂気へと誘うとされる呪いの刃。
いつ、どうやってあの封印を解いたのか。
誰も気づかなかった。
ただ、少年は、その⼤⼈⽤の⻑く重い真剣を、⼰の腕の延⻑であるかのように、極めて⾃然に、⼀切の⼒みなく提げていた。
⼩さな体に似合わない、しかし、完璧に調和した「修羅」の⽴ち居振る舞い。
ガーゴイルの瞳孔が、極限まで収縮する。
千年の戦いの中で研ぎ澄まされてきた彼らの本能が、⽬前の⼩さな存在を前にして、初めて「絶対的な死」の警鐘を鳴らし始めた。
『……標的(ターゲット)、確認』
怪物の顎から、機械的なノイズが漏れる。
だが、その声は、かつて⽇本で出会った「本物」の記憶と⽬の前の少年の姿が重なり、微かに、だが確実に震えていた。
シンジは、綾の横を通り過ぎる。
泣きじゃくる彼⼥を⼀瞥することもなく、ただ、眼前の異物だけを⾒据え。
呪われた名⼑『⽉光』の鯉⼝を、静かに、親指で弾いた。
チャッ、と。
その⼩さな⾳が、世界の終わりを告げる秒針のように、静まり返った道場に響き渡った。
祭壇の下で⾎だまりに沈む正義が、その⾳に弾かれたように顔を上げた。
焦点の合わない⽬が、少年の⼩さな右⼿に握られた妖しい黒塗りの鞘を捉え、戦慄に⼤きく⾒開かれる。
「ば、⾺⿅な……!なぜ、それを……ッ!」
正義の⼝から、おびただしい⾎の泡と共に絶望が漏れた。
「そ、それは……⽣者の魂を吸い尽くす、呪いの……!」
怪物の巨⼤な⽯の体が、カタカタと、明確な『死の恐怖』をもって震え始めたのだ。
⽯のまぶたに刻まれた斬り傷から、銀⾊の粉塵がとめどなく溢れ落ちる。
『マ、マサカ……!』
怪物の顎から、激しいノイズと共に、引き攣った⾳声が漏れた。
『アノ時ノ、黒キ……ッ!』
⼆つの全く異なる戦慄が、⼟埃の舞う道場で交差する。
だが、その中⼼に⽴つ少年は、誰の⾔葉にも⽿を貸さない。
静かに正眼の構えをとるシンジ。
空気が、圧がすべて彼へと流れていく。
ガーゴイルたちと正義だけがそれを感じとる。
その時、焦点がガーゴイルを向いた。
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