龍血の系譜

盤上の観察者

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瞬殺

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 祭壇の下で倒れる正義の顎から、⼀滴の⾎がこぼれ落ちようとした。

 その時シンジがブレた。

 空気が圧縮される轟⾳すらない。
 シンジの姿が「ブレた」という視覚情報すら、正義の網膜には発⽣しない。

 ⾎の雫が空中に停⽌している間に、シンジは、倒れた正義の襟⾸と、腰を抜かしている綾の帯を同時に掴み、崩落する道場の安全圏――庭の敷⽯の上へと「配置」した。

 乱暴ではない。
 ⼆⼈の三半規管が「移動させられた」という事実を脳に伝達する暇すらない、完璧な重⼼移動。

 直後、緑の⾐が東京の地図を蹂躙した。

 新宿、市ヶ⾕、そして道場。
 名⼑『⽉光』の冷たい鉄が、都市に点在する数百のガーゴイルたちの急所を、同時多発的に撫でる。

 数百キロの⽯の死兵たちは、迎撃する暇もなく、ただ「斬られた」という絶対の結果だけを上書きされ、空中で⼀⻫に銀⾊の粉塵へと還元された。

 正義の⾎の雫はまだ床に到達していない。

 東京の上空、はるか雲の上の絶対零度。
 地上を完全なパニックに陥れるべく降下を開始していた氷の将・アイスドラゴンは、眼下の景⾊が「消失」したのを⾒た。

 ⼰の配下である数千の死兵の命の灯⽕が、たった⼀つの黒い刃の軌跡によって、ドミノ倒しのように全滅していく。

 そして、その黒い点が、重⼒を無視し、⾳速を置き去りにして、下から⾃分に向かって⼀直線に逆流してくる。

『――ッ』
 正義の⾎が床に到達し、はねた。

 アイスドラゴンの⻩⾦の瞳孔が、極限まで収縮した。

 ⾒えた。
 緑の⾐。幼児。

 そして、その⼿に握られた、かつて⼰の軍勢を蹂躙した「黒き⾐」と同じ波⻑を放つ、呪いの刃。

 アイスドラゴンは、迎撃の覇気を練り上げる。絶対零度のブレス。空間そのものを凍結させる、氷⻯の絶技。

 だが、それを放つための筋⾁が躍動するよりも早く、シンジは怪物の懐に「いた」。

 すでにそこに存在しているという結果。
 アイスドラゴンにとっては思考を上回る速度。

 ⽉光が、静かに振り抜かれる。

 絶対零度の装甲ごと、アイスドラゴンの巨体が、⾳もなく斜めにズレた。
 熱も、⾳も、爆発もない。

『斬られた・・・のか』

 ただ、極上の刃によって存在の理(ことわり)を断たれた氷の将は、満⾜げな微かな眼差しを残し、春の夜空の塵となって消え去った。

 ピチャッ。
 道場。

 正義の顎から落ちた⾎の雫の2滴⽬が床板を叩いた。
 正義が、瞬きをする。

 網膜に、⼀本の極めて鋭い「光の線」が焼き付いていた。
 それだけだ。

 気付けば、⾃分と綾は庭の敷⽯の上に座り込んでいる。
 ⽬の前の道場を埋め尽くしていたガーゴイルたちは、跡形もなく消え去り、ただの銀⾊の砂となって⾵に吹かれていた。

「……おとう、さん……?」
 綾が、焦点の合わない⽬で呟く。

 正義もまた、⾃らに何が起きたのか全く理解できていない。
 ただ、武⼈としての本能が警鐘を鳴らし、道場の縁側へと視線を向ける。

 そこには。先ほどと⼀⼨の狂いもなく、柱の陰で丸くなり、静かな寝息を⽴てるシンジの姿があった。

 すでに⼑など持っていない。
 乱れた⾐のシワ⼀つ、先ほどと何⼀つ変わっていない。

 呼吸のピッチも、⼼拍⾳も、完全に「睡眠状態の幼児」のそれ。

 まるで、世界の崩壊も、圧倒的な光の線も、すべてが正義の⾒た⽩昼夢であったかのように。
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