龍血の系譜

盤上の観察者

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2つの戦場

試行錯誤

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「ぶっくしょいッ!」
 大西道場から私鉄で数駅離れた、古いアパートの一室。
 万年床の上に胡座をかいていたシンジは、盛大なクシャミと共に鼻を啜った。

「……誰か噂でもしてんのか」
 気怠げに頭を掻き、傍らに放り出されていたスマートフォンを手に取る。
 画面には、綾からのメッセージが表示されていた。

《天童が道場に入門してきた。お父さんが許可したの。信じられない》
《町田のおじさんが面倒見ることになったけど、絶対何か企んでる》

 シンジは文字をなぞるように一瞥し、画面をオフにして携帯を放り投げた。
 返信はしない。
 天童が道場で素振りをしようが、正義が何を考えていようが、今のシンジにとっては文字通り「どうでもいい」ことだった。

 部屋のテレビがついているが、音は完全にミュートされている。
 画面では、スーツ姿のキャスターが何やら深刻な顔で解説ボードを指している。画面下部には『都内で原因不明の局地的な熱波・通信障害相次ぐ』というテロップが流れていたが、シンジの意識はそこにはない。

 彼の視線は、二階の窓から見下ろせる、駅前の交差点に向けられていた。
 通勤や通学を急ぐ人々の波。
 シンジは右手の親指と人差し指を微かに動かし、膝の上で「見えない柄」を握る。

 『心眼の心得』。
 ――目に映るものは、真実ではない。
 ――斬るべきものは、姿ではなく“芯”である。

 シンジの瞳の焦点が、物理的な風景をゆっくりと透過していく。
 視覚という情報を意図的にシャットアウトし、存在の「核」だけを捉えようと意識を沈める。
 横断歩道を急ぎ足で渡る、くたびれたスーツの男。

 見えた。
 男の胸の奥。肉体や臓器のさらに内側で、疲労と焦燥、そして微かな保身の欲が混ざり合った、灰色に濁った泥のような「塊」が蠢いている。

(……あそこだ)
 シンジは呼吸を止め、脳内で刃を振り下ろした。
 無駄な力みは一切ない。対象の芯だけを正確に両断する、完璧な軌道のシミュレーション。

 スッ。

 だが、手応えがない。
 脳内の刃は、確かにその「灰色の塊」のど真ん中を通過したはずだった。
 しかし、刃が触れた瞬間、塊の輪郭が蜃気楼のようにブレて霧散し、刃が通り抜けた直後に、何事もなかったかのように再び元の形へと戻ってしまったのだ。

「……またかよ」
 シンジは舌打ちをし、前髪を乱暴に掻き毟った。

 物理的な肉体を両断することは、今のシンジにとって呼吸より容易い。
 だが、この『芯』と呼ばれる概念は、刃を当てた瞬間に「そこにはいない」のだ。
 見えている。位置も、形も把握している。なのに斬れない。対象を観察し、その「芯」を固定しようとすればするほど、刃は対象からすり抜けていく。

 購買部で天童を見た時のことを思い出す。
 あの時、シンジの目には天童の芯が「まっすぐで綺麗なもの」に見えた。
 だが、もし自分の目が、その辺を歩いている通行人の泥のような芯すら斬れないほど未熟なのだとすれば。天童のあの「綺麗さ」も、ただ自分が表層の皮しか見えていなかっただけではないのか。

(……同調できてねえんだ。俺の刃と、あいつらの存在の位相が)
 シンジは仰向けに倒れ込んだ。

 天井の木目をぼんやりと見つめる。
 イラつきはある。だが、かつてないほどの巨大な「壁」に直面している事実だけが、シンジの底にある闘争心を微かにくすぶらせていた。
 斬れないものがある。それが無性に癪だった。

 窓の外から、遠くの消防車のサイレンが、ミュートされた部屋に微かに響いてくる。
 交差点のアスファルトが、季節外れの異常な熱を帯びて陽炎を揺らしていることに、シンジはまだ気づいていない。

 ただ、見えない刃をどうにかして「芯」に届かせるための試行錯誤だけが、彼の脳内で延々と繰り返されていた。
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