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2つの戦場
入門
しおりを挟むビュッ、ビュッ、と。
極限まで圧縮された空気が裂ける音が、早朝の静寂を規則的に叩き切っていた。
午前六時。神宮寺流居合術・大西道場。
板間には三十名を超える門下生たちが並び、黙々と素振りを繰り返している。初夏の重い湿気の中、男たちの身体から立ち昇る熱気が、道場の空気をじっとりと歪ませていた。
上座に胡座をかき、その光景を半分閉じた目で見つめているのは、大西正義だ。
正義の視線の先にある門下生たちの剣筋には、十年前にあったような「武道としての甘さ」や「型としての美しさ」は微塵も残っていない。
皆、血反吐を吐くような凄惨な気迫で木刀を振るっている。彼らをここまで駆り立てているのは、十年前に正義から突きつけられた、ある「呪い」のような教えだった。
――十年前。
道場が石の怪物(ガーゴイル)に蹂躙された夜。
全身の骨を砕かれ、集中治療室のベッドに運び込まれた正義を囲み、師範代の町田をはじめとする門下生たちは、ボロボロと涙を流して泣き崩れていた。
『申し訳ありません……お師匠……! 俺たちが弱かったばかりに!』
『あんな化け物……俺たちの剣なんかじゃ、どうにもならない……!』
絶望と無力感に押し潰される男たち。
だが、酸素マスクを外した正義は、血を吐きながら彼らを一喝した。
『……泣く暇があるなら、思い出せ。お前たちは、あの怪物どもの中に何を見た』
男たちは息を呑み、顔を上げた。
『奴らは東京を破壊し、天文学的な被害を出した。この儂でさえ、手も足も出なかった。……だがな、本当に恐ろしいのはそこではない』
正義の瞳には、死の淵にあってなお、ギラギラとした武人としての業火が燃えていた。
『思い出せ。奴らの挙動を。怒りがあったか? 驕りがあったか? 殺戮を楽しむような下賎な感情が、ただの一欠片でもあったか?』
町田たちはハッとした。
怪物たちは、ただ淡々と破壊を遂行しただけだ。無駄な動作は一切なく、完璧な脱力と重力移動だけで、圧倒的な質量をコントロールしていた。
『あれこそが……我々が目指すべき、真たる武人の姿だ。完全に無駄を削ぎ落とした、絶対の理(ことわり)。あの純度に到達し、あの化け物どもを斬り伏せられるようにならぬ限り……我らの武に先はないと思え』
仮想の敵は、もはや人間だけではない。
あの時、正義が植え付けた強烈な到達点こそが、門下生たちの甘さを殺したのだ。
あの異形に届くために。その焦燥と渇望だけが、男たちを狂気的な修練へと駆り立てていた。
「……まだまだ。踏み込みが浅い」
正義が低く、地を這うような声で呟いた。
それだけで、門下生たちの足の指がさらに深く板間を掴み、振るわれる木刀の風切り音が一段と鋭さを増す。
道場が、完璧な「殺意の空間」として統制されていた、その時だった。
開け放たれた道場の入り口の敷居に、一つの影が落ちた。
「道中、失礼いたします」
静かな、よく通る声だった。
門下生たちの動きがピタリと止まる。
正義の横で、見学を兼ねて竹刀の手入れをしていた綾が、弾かれたように顔を上げた。
「天童くん……? なんで、あなたが」
綾の声には、明らかな動揺が混じっていた。
そこに立っていたのは、クラス委員長の天童だった。
休日の早朝だというのに、アイロンの行き届いた清潔な白シャツにスラックス。髪の毛一本乱れておらず、額に汗すら浮かべていない。
天童は道場の敷居を決して踏まず、板間の外で深く、完璧な角度で一礼した。
「おはよう、綾さん。朝早くから突然申し訳ない。君のお父様に、入門のお願いに上がったんだ」
天童は、いつものように爽やかな、裏表のない笑顔を向けた。
正義はゆっくりと立ち上がり、門下生たちの間を抜け、天童の数歩手前で足を止めた。
黒紋付の羽織から無意識に漏れ出す、現代の剣聖としての重圧。
だが、天童は瞬き一つせず、真っ直ぐに正義の目を見返した。
「……剣の経験は」
「全くありません。素人です」
「なぜ、剣を握ろうと思った」
「大切な人を、自分の手で守れるようになりたいからです」
天童の視線が、わずかに綾の方へ向いた。
門下生たちの間に微かなざわめきが走る。綾自身も、気まずそうに目を逸らした。
正義は、天童の真っ直ぐな瞳をじっと見つめ返した。
そして、ふと、その視線の焦点を「外した」。
視覚という最も欺かれやすい器官を捨て、対象の“芯”に触れる。大西正義の真骨頂である「心眼」の領域。
正義が捉えた天童の芯は、言葉通り、真っ直ぐで善良な若者のそれだった。
――だが。
(……こいつは)
正義は、羽織の袖の中で微かに指を動かした。
天童の善良な芯。
その全く同じ座標に、もう一つ、冷たくて底知れない「別の意志」が重なっている。
明らかなる異物。
(……浅はかなことだ)
正義は内心で冷たく吐き捨てた。
「……さて、どうしたものか」
正義は沈黙した。
綾はそっぽを向き、明らかに父に断わってほしい顔をしている。
「……よかろう」
正義は、頷く。
「素振りから始めてもらう。……町田、こいつに木刀を貸してやれ」
「それから、町田…お前が面倒を見ろ」
「は、はいっ!」
師範代の町田が慌てて走り寄る。
「ありがとうございます、先生」
天童は再び深く一礼した。
その時天童の眼は一瞬黒くなる。
(なめられたものよ…)
正義は押し黙っていた。
(あの子は…どこまであれをものにしたかな…)
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