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2つの戦場
待機
しおりを挟む渋谷が燃え続けているその時刻、大西道場は、音が死に絶えたかのような闇に包まれていた。
広大な板間の中心。
少年――天童は、ただ一人、そこに座していた。
木刀を傍らに置き、端正な姿勢で目を閉じている。
その姿は、一見すれば修練を終えた清廉な若者にしか見えない。
だが、彼を取り囲む空気は、もはや人間のそれではなかった。
道場の四隅、そして縁側の闇。
そこには、町田をはじめとする三十名余りの門下生たちが、抜き身の刀を手に、一分の隙もなく布陣していた。
町田の額からは、夜の冷気にもかかわらず、粘りつくような脂汗が流れ落ちている。
三十人がかりの殺気が、中心にいるたった一人の少年に吸い込まれ、霧散していく。
刀を握る手が、恐怖ではなく「理解不能」という拒絶反応で微かに震えていた。
(……人では、ない)
町田は、目の前にいる存在の輪郭が、時折、二重にぶれるのを見ていた。
少年の呼吸に合わせて、道場の床に落ちる影が、物理的な法則を無視してゆっくりと、粘り気を持って蠢いている。
それは光の角度に従う「影」ではなく、床に空いた「底なしの穴」のように見えた。
上座。
正義は、一歩も動かぬまま、天童を心眼で見据えていた。
正義の視界にあるのは、少年の肉体ではない。
天童という清らかな魂の「芯」に、まるで泥を塗り固めたような、どす黒い「もう一つの意志」が、寄生虫のように深く、深く食い込んでいる光景だ。
その黒い意志が、天童の喉を借りることもなく、道場の空間そのものを震わせて囁いた。
『……まだ、足りないか』
それは声ではなかった。
門下生たちの脳裏に直接、冷たい指でなぞられたような不快な響き。
町田の隣にいた若い門下生が、耐えきれずに嗚咽を漏らしそうになり、自分の口を両手で塞いだ。
彼らにはわかっていた。
今、自分たちが一斉に斬りかかったとしても、この少年の影に飲み込まれ、消えてしまうだけだということを。
正義が「動くな」と命じたのは、門下生たちの命を救うためではなく、この「何か」を道場という結界に繋ぎ止めておくための、文字通り命懸けの封じ込めであることを。
天童の影が、蛇のように長く伸び、正義の足元まで這い寄ってくる。
だが、その影は正義の座す位置だけを、わずかに避けていた。
正義は微動だにしない。
ただ、白扇さえ持たぬその両手を膝に置き、この「夜」の本体を、真っ向から睨み据えていた。
『あの子は、今……良い研ぎ場にいる』
天童の口角が、ほんの数ミリだけ上がった。
その目は依然として閉じたままだ。
だが、その背後の闇から、無数の視線が自分たちを見ている。
町田は、自分の背筋を氷の刃が通り抜けるのを感じ、奥歯を噛み締めて意識を繋ぎ止めるのが精一杯だった。
道場の外では、風さえ止んでいる。
この閉鎖された空間の中で、天童の「影」が、ゆっくりと、確実に道場全体の板間を侵食し始めていた。
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