龍血の系譜

盤上の観察者

文字の大きさ
55 / 94
2つの戦場

教え

しおりを挟む

 ファイヤードラゴンの喉元。
 銀の砂が最も濃く舞った瞬間、シンジは月光を正眼に構え深く深呼吸した。

 氷のような空気が肺を満たす。
 その刹那、戦場の時間は誰一人として止まってはいない。
 背後では、綾が血を吐くような集中で両手をかざし続けている。
 ドームを構成していたガーゴイルたちが、己の存在を維持できず次々と銀色の砂へと崩れ落ち、熱風に乗って交差点を狂乱のように舞う。
 自らの支配する空間が中和されていく異常に、上空のファイヤードラゴンが反応した。
 足元の脅威を消し去るため、巨大な顎が開かれる。
 その喉の奥底で、これまでの比ではない極大の熱量が圧縮され、周囲の空間がぐにゃりと歪み始めた。

 放たれれば、綾ごと交差点が蒸発する。
 猶予はゼロコンマ数秒。
 だが、極限まで冷却されたシンジの知覚の中で、その圧倒的な速度と熱量は、ただ処理すべき物理的データとして認識されていた。
 視界の端で揺らぐファイヤードラゴンの熱波が、十数年前の冷たい朝の記憶を静かに引きずり出した。

 ――大西道場の裏庭。
 霜の降りた土の上で、太さ四寸の青竹が音もなく斜めに滑り落ちた。
 切断面は鏡面のように滑らかだった。大人用の樫の木刀を下げて立つのは、当時五歳のシンジである。
 縁側からその異常な切断を見下ろしていた大西正義が、静かに問う。

「なぜ、斬れた」
「隙間があるから」

 それは思考を通した言葉ではない。
 視覚と皮膚が空間の目減りを捉え、最適化された運動を叩き込んだというだけの、無機質な事象の報告だった。

 正義は無言で裏庭へ降りた。
 その手には、たっぷりと水気を含んだ板こんにゃくが握られている。正義はそれをシンジの頭上へ放り投げた。

「斬ってみろ」

 五歳の身体が反射し、完璧な軌道で木刀を振り抜く。
 だが、刃は通らない。衝撃は分散され、灰色の塊はひしゃげたまま土に落ちて転がった。
 シンジは動かない。
 手元の木刀と地面の塊を、ただ無言で見つめている。

 正義は木刀を取り上げ、再びこんにゃくを宙に投げた。
 極めて遅い軌道。
 対象の構造を読み取り、抵抗のない座標へ刃を滑り込ませる。
 こんにゃくは木刀を境に二つに分かれ流れていく。

「身体能力に任せたいまのおまえは確かに強いが、この先確実に壁に当たり、今のままではそれを乗り越えることはできん」
 正義の声は冷徹な事実だけを告げていた。
「最低でも数十年は修行をすることだ」

 正義は懐から一冊の分厚い和装本を取り出した。事象の成り立ち、世界の構造、理を言語化するための書。それをシンジの胸に差し出す。

「まずは読み書きからだな」
 シンジは渡された本の重みを、ただ無言で受け取った。
「……これは秘伝だ。会得しろ。お前ならできるかもしれん」

 正義は背を向け、縁側へと歩き出した。

 ――記憶の照合が終わる。
 現実の時間は、ファイヤードラゴンが喉の奥で熱を圧縮し終える、その一瞬の間に収束している。

 渋谷のスクランブル交差点。
 ファイヤードラゴンが放つ圧倒的な熱量と、刃が触れる瞬間に生じる位相のズレ。
 対象をただの物理的な「肉体」として斬るのではない。このファイヤードラゴンが空間に存在し、熱を放射し続けるための『本質』を見極める。

 銀の砂が舞う一瞬。ファイヤードラゴンの喉元に生じた、数ミリの結節点。
 シンジは極限まで脱力した。
 ファイヤードラゴンが咆哮し、極大の熱が放たれる、その間隙へ向けて。
 シンジは音もなく地を蹴った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】精霊に選ばれなかった私は…

まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。 しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。 選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。 選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。 貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…? ☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

無能なので辞めさせていただきます!

サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

処理中です...