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2つの戦場
教え
しおりを挟むファイヤードラゴンの喉元。
銀の砂が最も濃く舞った瞬間、シンジは月光を正眼に構え深く深呼吸した。
氷のような空気が肺を満たす。
その刹那、戦場の時間は誰一人として止まってはいない。
背後では、綾が血を吐くような集中で両手をかざし続けている。
ドームを構成していたガーゴイルたちが、己の存在を維持できず次々と銀色の砂へと崩れ落ち、熱風に乗って交差点を狂乱のように舞う。
自らの支配する空間が中和されていく異常に、上空のファイヤードラゴンが反応した。
足元の脅威を消し去るため、巨大な顎が開かれる。
その喉の奥底で、これまでの比ではない極大の熱量が圧縮され、周囲の空間がぐにゃりと歪み始めた。
放たれれば、綾ごと交差点が蒸発する。
猶予はゼロコンマ数秒。
だが、極限まで冷却されたシンジの知覚の中で、その圧倒的な速度と熱量は、ただ処理すべき物理的データとして認識されていた。
視界の端で揺らぐファイヤードラゴンの熱波が、十数年前の冷たい朝の記憶を静かに引きずり出した。
――大西道場の裏庭。
霜の降りた土の上で、太さ四寸の青竹が音もなく斜めに滑り落ちた。
切断面は鏡面のように滑らかだった。大人用の樫の木刀を下げて立つのは、当時五歳のシンジである。
縁側からその異常な切断を見下ろしていた大西正義が、静かに問う。
「なぜ、斬れた」
「隙間があるから」
それは思考を通した言葉ではない。
視覚と皮膚が空間の目減りを捉え、最適化された運動を叩き込んだというだけの、無機質な事象の報告だった。
正義は無言で裏庭へ降りた。
その手には、たっぷりと水気を含んだ板こんにゃくが握られている。正義はそれをシンジの頭上へ放り投げた。
「斬ってみろ」
五歳の身体が反射し、完璧な軌道で木刀を振り抜く。
だが、刃は通らない。衝撃は分散され、灰色の塊はひしゃげたまま土に落ちて転がった。
シンジは動かない。
手元の木刀と地面の塊を、ただ無言で見つめている。
正義は木刀を取り上げ、再びこんにゃくを宙に投げた。
極めて遅い軌道。
対象の構造を読み取り、抵抗のない座標へ刃を滑り込ませる。
こんにゃくは木刀を境に二つに分かれ流れていく。
「身体能力に任せたいまのおまえは確かに強いが、この先確実に壁に当たり、今のままではそれを乗り越えることはできん」
正義の声は冷徹な事実だけを告げていた。
「最低でも数十年は修行をすることだ」
正義は懐から一冊の分厚い和装本を取り出した。事象の成り立ち、世界の構造、理を言語化するための書。それをシンジの胸に差し出す。
「まずは読み書きからだな」
シンジは渡された本の重みを、ただ無言で受け取った。
「……これは秘伝だ。会得しろ。お前ならできるかもしれん」
正義は背を向け、縁側へと歩き出した。
――記憶の照合が終わる。
現実の時間は、ファイヤードラゴンが喉の奥で熱を圧縮し終える、その一瞬の間に収束している。
渋谷のスクランブル交差点。
ファイヤードラゴンが放つ圧倒的な熱量と、刃が触れる瞬間に生じる位相のズレ。
対象をただの物理的な「肉体」として斬るのではない。このファイヤードラゴンが空間に存在し、熱を放射し続けるための『本質』を見極める。
銀の砂が舞う一瞬。ファイヤードラゴンの喉元に生じた、数ミリの結節点。
シンジは極限まで脱力した。
ファイヤードラゴンが咆哮し、極大の熱が放たれる、その間隙へ向けて。
シンジは音もなく地を蹴った。
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