龍血の系譜

盤上の観察者

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2つの戦場

心眼

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 夜の冷たい風を切って走る足音が、唐突に止まった。
「町田さん! まってください」
 息を切らせた門下生の一人が、耐えきれずに叫ぶ。
「本当にこれでいいんでしょうか?」
「そうです。これも師匠様の試験なのではないでしょうか」
 すがるような声。三十人が束になっても傷一つ負わせられなかった圧倒的な死の質量。そこから逃げ出したという事実を、彼らの心は受け止めきれずにいた。
 だが、町田は押し黙った。
 そんなはずはない。
 先ほど、死地に独り残った師匠の眼。あれは確実に、己の命を捨てる覚悟を決めた男の眼だった。
「……試験なんかじゃないさ」
 町田は血の滲む拳を強く握り込み、崩れゆく道場の方角へと振り返った。
「だが……急いで戻るぞ」

 ***
彼らが踵を返したその頃。
 半壊した大西道場の跡地では、絶対的な裁きの時が訪れていた。

「ショウメツ…ソレシカナイトイウノカ」

 地を這うような震える声。もはやそれは誇り高きドラゴン族の威厳ではなく、理外の修羅を前にした罪人のうわ言だった。
 シンジは一切の感情を交えず、ただ目の前の事象を「処理」するために大きく踏み込もうとする。
 対象はアースドラゴンと、その核となっている少年。まとめて因果の彼方へ消し去るつもりでいた。

「まって!」

 綾の悲鳴が、凍りついた空間に弾けた。
 思わず、シンジの足がピタリと止まる。

「お願い、あの子を救ってあげて」
 瓦礫に這いつくばったまま、綾は必死に声を絞り出す。
「シ...シンジは、そんなことしない」

 心眼を掌握し、因果を断ち切るだけの修羅と化していたシンジの「完全処理モード」に、微かなノイズが走った。
 論理ではない。戦術でもない。ただ、大西綾という存在が彼にとっての『守るべき対象』であるという記憶反射だけが、修羅の一歩を土壇場で引き留めた。
 漆黒の瞳の奥で、見極めるべき対象が「敵の消滅」から「意志の救済」へと再定義される。

 シンジは、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。

 次の瞬間、綾は見た。
 いや――見たような気がした、というのが正しい。
 極限まで圧縮された空間の中で、光速すら超えるシンジの挙動は、綾の網膜にただの『緑色の移動残像』としてしか映らなかった。
 おそらく、月光は振られたのだろう。
 空間がズレるような感覚と、視界の端を焼いた剣戟のエフェクト。それらは確かに発揮されたはずだった。
 
 その絶対の証拠として。
 先ほどまでシンジを直視することすらできず、死の恐怖に震えていた三十メートルの偉容が、この空間から完全に「消失」していた。
 肉片も、血飛沫も、断末魔すら存在しない。ただ、初めからそこにいなかったかのように。

 完璧な静寂。
 綾は、十秒ほどその場から一歩も動くことができなかった。
 脳が現実のバグを処理しきれない。やがて十五秒後、ふと視線を落とした瓦礫の隙間に、一人の少年が倒れているのを発見する。

 ハッとして顔を上げ、緑色の残像の行方を探す。
 シンジは――いつの間にか、半壊した道場の縁側に、昔と変わらぬ姿で寝転がっていた。
 息の乱れもない。まるで、戦闘など初めから存在せず、ずっとそこで微睡んでいたかのように。

「ぐ…うぐ」

 静寂を破ったのは、地面に横たわる少年の呻き声だった。
 ゆっくりと身を起こしたその顔は端正で、綾にとっても見覚えのある少年だった。
 少年はぼんやりと周囲を見渡した後、焦点を取り戻すと、立ち上がって綾たちへ向かってしっかりと挨拶を行い、そのまま静かに夜の闇へと歩み去っていった。
 彼の中に、怪物の記憶も、死闘の傷跡も残ってはいない。

 縁側に寝転がるシンジは、去っていく少年の背中を微かに見送っているようにも見えた。
 感情が戻ったわけではない。ただ、己が『守る対象』を再定義し、その推移を静かに確認しただけの視線だった。

 ***

 少年の背中が夜の闇に溶けた直後。
 土煙の向こうから、決死の覚悟で引き返してきた町田たち門下生が駆け込んできた。
 彼らが握りしめた抜身の刀は、しかし、行き場を失って虚空を彷徨うことになる。

 そこには、彼らを蹂躙した三十メートルの怪物も、凄惨な死闘の熱も存在しなかった。
 ただ、完全に抉り取られた道場の跡地と、半ばで折れた師匠の真剣。
 瓦礫の中で呆然と座り込む綾と――
 昔と変わらぬ姿で、縁側に寝転がり夜空を見上げるシンジの姿だけがあった。

「な……何が、起きたんだ……」

 刀を取り落とした町田の震える声だけが、無慈悲なほど静寂な空間に吸い込まれていった。
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