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君がいない未来
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『ごめん、今日は行けない』
そう送って、スマホを伏せた。
──薫さんから電話があったのは、ホームルームが終わってすぐだった。
「悟史くん、今夜ね、音大の発表会があるの。一緒に行きましょう。あなたにも、いい刺激になると思うの」
窓の外の秋の空を見上げる。
うろこ雲が綺麗に描かれている。
薫さんは俺を特別扱いしてくれる。
『あなたは感性が違う』
『いずれきっと大きな舞台に立てる』
そんな言葉を何度もかけてくれた。
認めてもらえたのは嬉しい。
けれど、同時に、かけがえのないものを失う気がした。
いぶきとのレッスンを断ることになっても、薫さんに「行けません」とは言えなかった。
先に進むには、この人の力が必要だ。
──正しいはずの選択なのに、
矛盾した感情が毎日心の中を漂っていた。
***
夕方、音大のホール。
照明の下で、グランドピアノが静かに光っていた。
過去の記憶が蘇る。
ただひたすらピアノを練習し、コンクールに出ていた日々。
「ここの大学の生徒さんのピアノは素晴らしいのよ。きっと先生がいいのね。私もがんばらないと」
薫さんは微笑んだ。
席に座ると、緊張感が走った。
開演の合図。
一人目の学生が現れる。
音が放たれた瞬間、ホールの空気が変わる。
音がホールの中を埋め尽くす。
正確で、華やかで、冷たい。
薫さんが小さく頷いている。
そして曲が終わった。
隣で拍手をする人の手が、規則正しく動いている。
でも、俺の手は膝の上で止まっていた。
何も感じない自分がいる。
──いや、感じてしまったんだ。
いぶきの音がここにはない、ということを。
少し乱れていて、呼吸みたいに揺れるあの音。
何度も間違えて、それでも笑いながら嬉しそうに弾く姿。
あの小さな音楽室の方が、ずっと温かかった。
二人目、三人目。
曲が変わるたびに、拍手の波が起きる。
薫さんは目を細め、満足そうに言った。
「みんな、よく練習してるわね」
自分で目指した未来。
でも、そこに“あいつ”はいない。
俺は少し背を丸めて、目を閉じた。
音が遠のいていく。
代わりに、指の感覚だけが甦る。
いぶきの手を導いた時の温度。
あれが、俺の音楽の始まりだったのに。
***
発表会が終わる。
薫さんは知り合いと挨拶を交わしている。
その声を背に、ホールの外に出た。
夕暮れが沈みかけていた。
空の色が、オレンジから群青に変わる途中。
ポケットからスマホを取り出す。
いぶきの名前を見つめる。
けれど、指は動かない。
このままこの先に進んで、俺は何かを掴めるのか。
胸の奥で、小さく何かが痛んだ。
本当に欲しいものはこれじゃない。
俺を満たしてくれていたのはピアノじゃなかった。
いぶきだった。
そう送って、スマホを伏せた。
──薫さんから電話があったのは、ホームルームが終わってすぐだった。
「悟史くん、今夜ね、音大の発表会があるの。一緒に行きましょう。あなたにも、いい刺激になると思うの」
窓の外の秋の空を見上げる。
うろこ雲が綺麗に描かれている。
薫さんは俺を特別扱いしてくれる。
『あなたは感性が違う』
『いずれきっと大きな舞台に立てる』
そんな言葉を何度もかけてくれた。
認めてもらえたのは嬉しい。
けれど、同時に、かけがえのないものを失う気がした。
いぶきとのレッスンを断ることになっても、薫さんに「行けません」とは言えなかった。
先に進むには、この人の力が必要だ。
──正しいはずの選択なのに、
矛盾した感情が毎日心の中を漂っていた。
***
夕方、音大のホール。
照明の下で、グランドピアノが静かに光っていた。
過去の記憶が蘇る。
ただひたすらピアノを練習し、コンクールに出ていた日々。
「ここの大学の生徒さんのピアノは素晴らしいのよ。きっと先生がいいのね。私もがんばらないと」
薫さんは微笑んだ。
席に座ると、緊張感が走った。
開演の合図。
一人目の学生が現れる。
音が放たれた瞬間、ホールの空気が変わる。
音がホールの中を埋め尽くす。
正確で、華やかで、冷たい。
薫さんが小さく頷いている。
そして曲が終わった。
隣で拍手をする人の手が、規則正しく動いている。
でも、俺の手は膝の上で止まっていた。
何も感じない自分がいる。
──いや、感じてしまったんだ。
いぶきの音がここにはない、ということを。
少し乱れていて、呼吸みたいに揺れるあの音。
何度も間違えて、それでも笑いながら嬉しそうに弾く姿。
あの小さな音楽室の方が、ずっと温かかった。
二人目、三人目。
曲が変わるたびに、拍手の波が起きる。
薫さんは目を細め、満足そうに言った。
「みんな、よく練習してるわね」
自分で目指した未来。
でも、そこに“あいつ”はいない。
俺は少し背を丸めて、目を閉じた。
音が遠のいていく。
代わりに、指の感覚だけが甦る。
いぶきの手を導いた時の温度。
あれが、俺の音楽の始まりだったのに。
***
発表会が終わる。
薫さんは知り合いと挨拶を交わしている。
その声を背に、ホールの外に出た。
夕暮れが沈みかけていた。
空の色が、オレンジから群青に変わる途中。
ポケットからスマホを取り出す。
いぶきの名前を見つめる。
けれど、指は動かない。
このままこの先に進んで、俺は何かを掴めるのか。
胸の奥で、小さく何かが痛んだ。
本当に欲しいものはこれじゃない。
俺を満たしてくれていたのはピアノじゃなかった。
いぶきだった。
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