夜明けの旋律─二人の繋いだ手の先に待ち受けるもの─

七転び八起き

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恋と音楽

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 夜のレッスン室。
 窓の外はもう真っ暗だった。

 薫さんがグランドピアノの蓋を開ける。
「じゃあ、前回の続きから」

 椅子に座った。
 楽譜を開く。
 ショパンのバラード。

 鍵盤に手を置く。
 弾き始める。

 音が出る。
 正確に、譜面通りに。

 でも、何も感じない。
 指が動いているだけだった。

 途中で、手が止まる。

「……ごめんなさい」

 薫さんは何も言わなかった。
 ただ、俺を見ている。

「もう一度、最初から」

 頷いて、また弾く。

 でも、同じだった。
 音が、ただの音だった。

 三度目で、俺は鍵盤から手を離した。

「……弾けません」

 薫さんがゆっくり立ち上がる。
 窓際に歩いて、外を見た。

「最近、何かあった?」
「いえ」
「嘘ね」

 振り返った薫さんの目が、静かに俺を見つめる。

「あなたの音、死んでるわよ」
「正確に弾いてる。でも、心がない」

 薫さんが、俺の横に座る。

「……恋?」

 本当のことを言い当てられて言葉に詰まった。

「違い──」
「嘘つかなくていいわ」

 薫さんは少し微笑んだ。
 そしてどこか懐かしむような顔をしている。

「私もね、昔そうだったから」

 薫さんが鍵盤に触れる。
 一音だけ、静かに鳴らした。

「恋をして、苦しくて、ピアノが弾けなくなった」

 いつもと違う、薫さんの表情。

「……好きな人を傷つけてしまいました」

 声が震える。

 言うつもりはなかった。
 でも耐えられなかった。

「失うのが怖くて……」

 薫さんはゆっくり頷いた。

「なら、ならちゃんとその子と話し合いなさい」

 薫さんはピアノの蓋を閉めた。

「レッスンは今日は終わり。ゆっくり家で体も心も休めて」
「はい……」
「その人と向き合わずに、ピアノだけで誤魔化そうとしても、音は嘘をつく」

 薫さんが立ち上がる。

「弾けなくても、構わないわ。でも、誤魔化したまま続けるのは、音楽に失礼よ」

 ***

 帰り道、薫さんの車の中。

 信号が赤に変わる。
 車が止まった。

「悟史くん」
「はい」
「悟史くんのことが少しわかってよかった。こんな時に言うべきじゃないけど」

 家に着いて、車から降りる。

「悟史くん、応援してる」

 薫さんは微笑んでいた。

「ありがとうございます」

 車が去っていく。

 暗闇で光るテールランプを見つめていた。

 ***

 部屋に戻って、椅子に腰掛ける。
 スマホを手に取る。
 いぶきのトーク画面を開く。

 指が、震える。

 何を言えばいい。
 どう伝えればいい。

 画面に指を置く。
 文字を打ち始めた。

『話したい』

 打ち込んだ文字を見つめる。

 送信ボタンを押そうとした。
 でも、押せない。

 怖い。

 拒絶されたら、どうする。
 もう会いたくないって言われたら。

 スマホを置いて、ベッドに倒れ込んだ。
 天井を見つめた。

 あんなことをした。
 まともに向き合ってもらえるのか。
 わからない。

 でも──

 このままじゃ、何も変わらない。

 木枯らしで窓がカタカタ鳴る。
 部屋の中は冷えたまま。

 目を閉じる。
 夏の記憶が蘇る。

 いぶきのピアノ
 いぶきの笑顔
 いぶきとの思い出

 それさえあればもういらない。
 何と言われても、謝ろう。

 そう胸に誓った。
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