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二章
第28話 誕生日
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十三年前、場所はナプスブルク王都、その城下にある貴族街。
ハンクシュタイン家は二代前より富裕層向けの衣服商を営んでおり、ナプスブルク王国有数の富豪の一つといえる一族だった。
その家の令嬢、グレイシア・ハンクシュタインは十歳の誕生日を迎えた。
グレイシアの父は商いが多忙であったが、元来家族を顧みることの少ない男だった。それはグレイシアの母が病で亡くなる前もそうであったし、母がいなくなってからも変わることが無かった。
また事業が順調そうであっても常に不機嫌で、幼いグレイシアにあたるように接してくることもままった。
グレイシアは父が人に謝る姿を見たことがない。
それは母に対してもそうであったし、外でもそうであったらしい。プライドの高い父であった。グレイシアはそんな父が少し苦手だった。
だからグレイシアにとっては歳の離れた兄、ライルが事実上の父親代わりの存在だったし、最も親しい肉親だった。
グレイシアにとって、一人でできる遊びといえば本を読むことくらいだった。父が読んでいた小難しい本の数々を読み漁った。もちろん幼いグレイシアにそれを理解することはできない。
ただ本を読んでいることで時間が過ぎていくから、本に没頭した。だから兄が遊んでくれる時間のあるときは本当に嬉しかった。
誕生日のその日も、グレイシアは兄のライルと郊外に流れる小川に出かけていた。
そこはグレイシアが物心ついたときからのお気に入りの場所。坂を下って川辺に降りると周囲の人目に晒されることもなく、二人の秘密の場所のようなところが好きだった。
二人はよくそこで水辺の生き物を探したり、植物を摘んだり、綺麗な石がないか探したりして遊んだ。そして疲れてくると腰をかけて、おしゃべりをして楽しんだ。
グレイシアはいつかライルにお嫁さんができたら自分が一人ぼっちになってしまうんじゃないか、そんな不安を持っていて、時折愛情を確かめるように意地悪なことを言ってみたりもしたが、兄はいつも優しく笑ってくれた。
その日も結局日が暮れ始めるまで二人はそこで過ごした。夜になるまでには家に帰ると父に約束していたから、二人は駆け足で城下の屋敷に戻った。
屋敷に戻ると二人にとって意外な光景が待っていた。いつもは城下の仕事場にこもりっきりの父がすでにいたのである。
父は帰ってきた二人を見ると「門限ギリギリだぞ」と冷たく言った。
そしてその後、「たまには一緒に食事をしよう」とどこかぎこちない様子で言ってくれた。
屋敷の広い食堂には、豪華な食事がテーブルいっぱいに並べられていた。
グレイシアが大好きだったりんごのパイも添えられている。料理などしたことのない父であったから、作ったのは使用人たちであったが、グレイシアは目をまんまるにして喜びの声を上げた。
そこは家族三人で食事をするにはあまりに広い部屋だったが、寂しさなど感じないほどグレイシアの胸は喜びに満ちていた。
父は本当に珍しく、二人の話をよく聞いてきた。
父は相変わらず不機嫌そうな顔で話を聞いて、兄が成人したら仕事を教えてやるとか、グレイシアが十五歳になったら貴族たちとの晩餐会にも連れて行くとか、二人の気持ちなどまったく無関係で勝手に話を進めていくのだが、それでも二人にとって父とのこの珍しい時間は幸せなものだった。
三人はこうして、夜も遅くなるまで共に過ごした。
お腹もいっぱいになったグレイシアはいつの間にか眠ってしまっていた。目が覚めた時は寝室のベッドの上だった。もしかしたら父が寝かせてくれたのだろうか? グレイシアはそんなことを考えた。
外では梟が鳴く声が聞こえる。夜になるとすっかり冷え込むから、グレイシアは中々再び眠ることができなかった。
それでもその日の夜は、シーンとした静けさがどこか心地よく感じられた。
小一時間ほど経ったころだろうか。寝室のドアが、突然静かに開いた。
ぎょっとしたグレイシアの目の前に現れたのは、兄のライルだった。
兄は口元の指をあてると、言葉を出すな、とグレイシアに示した。
そしてグレイシアの枕元にやってくろと、兄は狼狽した様子を見せながら小声で耳打ちした。
「ヘルマンが……死んでる……」
ヘルマンとは屋敷にいる使用人の長で、他の使用人と違い住み込みで奉公している老人である。
「えっ」
グレイシアが思わず声を上げそうになると、兄はグレイシアの口を手でおさえ、「静かに、大声を出しちゃだめだ」と言った。
「何があったの? お父様は?」
「わからない。でも家の中に変な足跡があった。泥だらけの……絶対父上のものじゃない」
「……泥棒?」
「それもわからない。グレイシア、いいか? 僕が父上を見つけてくる。お前はここで隠れているんだ」
「えっ……え……」
突然の出来事にグレイシアが戸惑っていると、兄は少し無理矢理に、だけどいつもグレイシアが見ていたあの笑顔を作って、言ってくれた。
「大丈夫、じっとしてて」
兄はそう言うと、静かに寝室を出ていった。
それからの時間は、地獄のようだった。
グレイシアはベッドの下に身を隠し、一人息を殺し続けた。
耳に神経を集中させ、部屋の外の音を探った。時折、ギシギシと誰かが屋敷の一階を歩く音が聞こえ、その度に恐怖に身を震わせた。
どれほどの時間が経っただろうか。
最初の悲鳴は兄、ライルのものだった。その悲痛な叫びは始めは大きく、しかしすぐに断続的なものに変わって、やがて何も聞こえなくなった。
それが意味することを理解することは、グレイシアにはできなかった。ただ鼓動が破裂しそうなほどに高鳴って、頭が真っ白になった。
それからすぐに、父の怒声が聞こえた。それはグレイシアが聞いたことの無いほどの怒りの声で、誰かを罵倒する声。
そして何かが激しくぶつかり合い、やがてそれも静かになったとき、寝室にはグレイシアの嗚咽だけが小さく響いていた。
嗚咽に混じるように、何者かの足音が聞こえてきた。
さらに聞こえてきたのは、口笛。
グレイシアはびくっと身体を震わせ、音を聞くことに注力した。
ドアを開ける音が聞こえた。おそらくは隣の部屋。
やがてギシギシと廊下を歩く音。そして音はグレイシアの寝室の前で止まった。
ギイ、という音を立てて、寝室のドアが開かれた。
少し間があって、足音の主が部屋に入ってきた。
その人物は口笛を吹き続けている。グレイシアも知っている民謡のメロディ。
そして寝室の中央で立ち止まった。ベッドの下に隠れるグレイシアには、その足だけが見えた。
貴族や裕福な人が履くズボンと男性の足。革でできた靴には赤黒いものがこびりついている。
男は口笛を吹くのを止めた。
やがてのその足が、こちらを向いた。
グレイシアは口を手で塞いで、声が出そうになるのを必死にこらえた。
するとその男は、突然ベッドに足をかけて、ベッドの上にあがった。
そしてギシギシ、ギシギシとベッドの上で小さく飛び跳ね続ける。
グレイシアの顔はすでに涙で溢れ、目を開けていることもできず、ただじっと息を殺し続けた。
飛び跳ねる音が、止んだ。
寝室は再び、シーンとした静けさに包まれた。
何分か経っても、ずっとそのままだった。
グレイシアはつい、これ以上の我慢がしきれなくなって、そっと目を開けた。
目の前で、逆さまのアヒルが笑っていた。
正確には、笑うアヒルの仮面を被った男がベッドの上から首を下げて、こちらを覗き込んでいた。
グレイシアが悲鳴を上げるまで、そのアヒルはずっと笑っていた。
この年、これまでナプスブルク王国の隆盛を牽引していた王が死去し、新王アルノー二世の即位が行われた。
だが、貴族と庶民を含めた多くの人々の関心は自らの新たな国王には無かった。
”笑い男”。ナプスブルクの王都の城下現れた神出鬼没の殺人鬼による被害がこれよりおよそ三年間にわたって多発したためだ。
微笑んだアヒル(鳥が微笑むかはさだかではないが)の仮面を付けたその男の殺人の手口は、残虐を極めた。
狙われたのは決まって幼い子供のいる家庭。時間帯は深夜。犯行の被害にあった家庭は、大人や男子であればナイフによってめった刺しに殺害され、幼い女子であれば何処かへ連れ去られた。
この”笑い男”の仕業と思われる殺人事件の被害者は全て殺害されるか誘拐されているため、目撃証言はわずかに残るのみでナプスブルク衛兵による捜査は難航し続けた。
そして、犯人が逮捕されることはその後ついに無かった。
***
グレイシアが再び目を覚ましたとき、彼女にとってそこは見知らぬ場所だった。
小さく埃だらけの部屋のベッドでグレイシアは目を覚ました。
鼻を妙な臭いが刺激する。これはお母様がよく使っていたような、お化粧の匂いなのだとグレイシアは気づいた。
そしてすぐにグレイシアは、ここが何処なのかを知ることになった。
娼館。女がその身体を男に売るその場所が、それからのグレイシアの青春の場所となった。
兄と二人で通った小川のせせらぎは、やがて遠い記憶となった。
ハンクシュタイン家は二代前より富裕層向けの衣服商を営んでおり、ナプスブルク王国有数の富豪の一つといえる一族だった。
その家の令嬢、グレイシア・ハンクシュタインは十歳の誕生日を迎えた。
グレイシアの父は商いが多忙であったが、元来家族を顧みることの少ない男だった。それはグレイシアの母が病で亡くなる前もそうであったし、母がいなくなってからも変わることが無かった。
また事業が順調そうであっても常に不機嫌で、幼いグレイシアにあたるように接してくることもままった。
グレイシアは父が人に謝る姿を見たことがない。
それは母に対してもそうであったし、外でもそうであったらしい。プライドの高い父であった。グレイシアはそんな父が少し苦手だった。
だからグレイシアにとっては歳の離れた兄、ライルが事実上の父親代わりの存在だったし、最も親しい肉親だった。
グレイシアにとって、一人でできる遊びといえば本を読むことくらいだった。父が読んでいた小難しい本の数々を読み漁った。もちろん幼いグレイシアにそれを理解することはできない。
ただ本を読んでいることで時間が過ぎていくから、本に没頭した。だから兄が遊んでくれる時間のあるときは本当に嬉しかった。
誕生日のその日も、グレイシアは兄のライルと郊外に流れる小川に出かけていた。
そこはグレイシアが物心ついたときからのお気に入りの場所。坂を下って川辺に降りると周囲の人目に晒されることもなく、二人の秘密の場所のようなところが好きだった。
二人はよくそこで水辺の生き物を探したり、植物を摘んだり、綺麗な石がないか探したりして遊んだ。そして疲れてくると腰をかけて、おしゃべりをして楽しんだ。
グレイシアはいつかライルにお嫁さんができたら自分が一人ぼっちになってしまうんじゃないか、そんな不安を持っていて、時折愛情を確かめるように意地悪なことを言ってみたりもしたが、兄はいつも優しく笑ってくれた。
その日も結局日が暮れ始めるまで二人はそこで過ごした。夜になるまでには家に帰ると父に約束していたから、二人は駆け足で城下の屋敷に戻った。
屋敷に戻ると二人にとって意外な光景が待っていた。いつもは城下の仕事場にこもりっきりの父がすでにいたのである。
父は帰ってきた二人を見ると「門限ギリギリだぞ」と冷たく言った。
そしてその後、「たまには一緒に食事をしよう」とどこかぎこちない様子で言ってくれた。
屋敷の広い食堂には、豪華な食事がテーブルいっぱいに並べられていた。
グレイシアが大好きだったりんごのパイも添えられている。料理などしたことのない父であったから、作ったのは使用人たちであったが、グレイシアは目をまんまるにして喜びの声を上げた。
そこは家族三人で食事をするにはあまりに広い部屋だったが、寂しさなど感じないほどグレイシアの胸は喜びに満ちていた。
父は本当に珍しく、二人の話をよく聞いてきた。
父は相変わらず不機嫌そうな顔で話を聞いて、兄が成人したら仕事を教えてやるとか、グレイシアが十五歳になったら貴族たちとの晩餐会にも連れて行くとか、二人の気持ちなどまったく無関係で勝手に話を進めていくのだが、それでも二人にとって父とのこの珍しい時間は幸せなものだった。
三人はこうして、夜も遅くなるまで共に過ごした。
お腹もいっぱいになったグレイシアはいつの間にか眠ってしまっていた。目が覚めた時は寝室のベッドの上だった。もしかしたら父が寝かせてくれたのだろうか? グレイシアはそんなことを考えた。
外では梟が鳴く声が聞こえる。夜になるとすっかり冷え込むから、グレイシアは中々再び眠ることができなかった。
それでもその日の夜は、シーンとした静けさがどこか心地よく感じられた。
小一時間ほど経ったころだろうか。寝室のドアが、突然静かに開いた。
ぎょっとしたグレイシアの目の前に現れたのは、兄のライルだった。
兄は口元の指をあてると、言葉を出すな、とグレイシアに示した。
そしてグレイシアの枕元にやってくろと、兄は狼狽した様子を見せながら小声で耳打ちした。
「ヘルマンが……死んでる……」
ヘルマンとは屋敷にいる使用人の長で、他の使用人と違い住み込みで奉公している老人である。
「えっ」
グレイシアが思わず声を上げそうになると、兄はグレイシアの口を手でおさえ、「静かに、大声を出しちゃだめだ」と言った。
「何があったの? お父様は?」
「わからない。でも家の中に変な足跡があった。泥だらけの……絶対父上のものじゃない」
「……泥棒?」
「それもわからない。グレイシア、いいか? 僕が父上を見つけてくる。お前はここで隠れているんだ」
「えっ……え……」
突然の出来事にグレイシアが戸惑っていると、兄は少し無理矢理に、だけどいつもグレイシアが見ていたあの笑顔を作って、言ってくれた。
「大丈夫、じっとしてて」
兄はそう言うと、静かに寝室を出ていった。
それからの時間は、地獄のようだった。
グレイシアはベッドの下に身を隠し、一人息を殺し続けた。
耳に神経を集中させ、部屋の外の音を探った。時折、ギシギシと誰かが屋敷の一階を歩く音が聞こえ、その度に恐怖に身を震わせた。
どれほどの時間が経っただろうか。
最初の悲鳴は兄、ライルのものだった。その悲痛な叫びは始めは大きく、しかしすぐに断続的なものに変わって、やがて何も聞こえなくなった。
それが意味することを理解することは、グレイシアにはできなかった。ただ鼓動が破裂しそうなほどに高鳴って、頭が真っ白になった。
それからすぐに、父の怒声が聞こえた。それはグレイシアが聞いたことの無いほどの怒りの声で、誰かを罵倒する声。
そして何かが激しくぶつかり合い、やがてそれも静かになったとき、寝室にはグレイシアの嗚咽だけが小さく響いていた。
嗚咽に混じるように、何者かの足音が聞こえてきた。
さらに聞こえてきたのは、口笛。
グレイシアはびくっと身体を震わせ、音を聞くことに注力した。
ドアを開ける音が聞こえた。おそらくは隣の部屋。
やがてギシギシと廊下を歩く音。そして音はグレイシアの寝室の前で止まった。
ギイ、という音を立てて、寝室のドアが開かれた。
少し間があって、足音の主が部屋に入ってきた。
その人物は口笛を吹き続けている。グレイシアも知っている民謡のメロディ。
そして寝室の中央で立ち止まった。ベッドの下に隠れるグレイシアには、その足だけが見えた。
貴族や裕福な人が履くズボンと男性の足。革でできた靴には赤黒いものがこびりついている。
男は口笛を吹くのを止めた。
やがてのその足が、こちらを向いた。
グレイシアは口を手で塞いで、声が出そうになるのを必死にこらえた。
するとその男は、突然ベッドに足をかけて、ベッドの上にあがった。
そしてギシギシ、ギシギシとベッドの上で小さく飛び跳ね続ける。
グレイシアの顔はすでに涙で溢れ、目を開けていることもできず、ただじっと息を殺し続けた。
飛び跳ねる音が、止んだ。
寝室は再び、シーンとした静けさに包まれた。
何分か経っても、ずっとそのままだった。
グレイシアはつい、これ以上の我慢がしきれなくなって、そっと目を開けた。
目の前で、逆さまのアヒルが笑っていた。
正確には、笑うアヒルの仮面を被った男がベッドの上から首を下げて、こちらを覗き込んでいた。
グレイシアが悲鳴を上げるまで、そのアヒルはずっと笑っていた。
この年、これまでナプスブルク王国の隆盛を牽引していた王が死去し、新王アルノー二世の即位が行われた。
だが、貴族と庶民を含めた多くの人々の関心は自らの新たな国王には無かった。
”笑い男”。ナプスブルクの王都の城下現れた神出鬼没の殺人鬼による被害がこれよりおよそ三年間にわたって多発したためだ。
微笑んだアヒル(鳥が微笑むかはさだかではないが)の仮面を付けたその男の殺人の手口は、残虐を極めた。
狙われたのは決まって幼い子供のいる家庭。時間帯は深夜。犯行の被害にあった家庭は、大人や男子であればナイフによってめった刺しに殺害され、幼い女子であれば何処かへ連れ去られた。
この”笑い男”の仕業と思われる殺人事件の被害者は全て殺害されるか誘拐されているため、目撃証言はわずかに残るのみでナプスブルク衛兵による捜査は難航し続けた。
そして、犯人が逮捕されることはその後ついに無かった。
***
グレイシアが再び目を覚ましたとき、彼女にとってそこは見知らぬ場所だった。
小さく埃だらけの部屋のベッドでグレイシアは目を覚ました。
鼻を妙な臭いが刺激する。これはお母様がよく使っていたような、お化粧の匂いなのだとグレイシアは気づいた。
そしてすぐにグレイシアは、ここが何処なのかを知ることになった。
娼館。女がその身体を男に売るその場所が、それからのグレイシアの青春の場所となった。
兄と二人で通った小川のせせらぎは、やがて遠い記憶となった。
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