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二章
第29話 娼館の日々
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七年の月日が経った。
十七歳になったころ、グレイシアは鏡に映った自分の姿を見て、不安と焦りを募らせていた。
グレイシアは娼館に売られた。しかし幼子であったため、そこでの仕事は客の相手ではなく雑事が中心だった。
客の相手をさせるのは身体が女になってから、館主にそう言われていた。
だからグレイシアはこうして誕生日を迎える度に鏡で自分の姿を見ると、ひどくつらい気持ちになる。
年々胸は膨らみ、身体は丸みを帯びてくる。顔つきは幼さを残しているものの、黒く美しい髪、整った顔立ちと凛とした目元、すらりと伸びた脚、白く澄んだ肌は同じ娼館で働く娼婦たちからも褒められるだけでなく、妬みの声も聞こえてきている。
さすがは元貴族様ね、そう嫌味を言ってくる娼婦もいるほどだ。
部屋がノックされ、「グレイシア入るわよ」と声が聞こえた。
やがて入ってきたのは先輩であり一回り年上の娼婦であるハンナだった。
ハンナは七年前に連れてこられたグレイシアの面倒をよく見てくれていた人で、グレイシアは彼女をいつの日からか「姉さん」と呼んでいた。
「ほら、食事持ってきたわよ」
「……いいのに、姉さん」
「またそんなこと言って。そんなに痩せたままじゃだめでしょ。食べなきゃやってられないわよ」
「食欲、無いから」
それを聞いたハンナは、ふうとため息をついて、ベッドに腰掛けたグレイシアの隣に静かに座った。
「……あのね、あなた今日で十七歳でしょう。ホフマンが今日からあんたに客の相手をしてもらうって」
その言葉にグレイシアは一瞬顔を強張らせた。そして「……そう」と呟いた。
娼館にやってくる女は様々な出自を持つ者たちだ。生活に困って自らやってくる者もいれば、戦の巻き込まれ奴隷となって売られた者もいる。
グレイシアは七年前のある日、知らない男に連れられて娼館に売られた。
その男の名は知らない。ただ背丈や体型から、あのアヒルの男ではないということはわかっている。
館主のホフマンは喜んで大金を渡し、グレイシアを買った。
他の娼館たちも特にグレイシアに同情するような素振りを見せなかった。皆事情があるからだと、グレイシアは後で知った。
そんな中でも、ハンナは特別にグレイシアを可愛がってくれた。
グレイシアが十五歳になったころ、ホフマンがグレイシアの身体を舐め回すように見て「これはそろそろだな」といやらしく笑って言ったことがある。
これに強硬に反対したのはハンナである。ハンナは「身体は女になってきても、まだこの子は要領が悪すぎる。これじゃ客を怒らせるだけよ」などと言って、グレイシアをかばい続けた。
だがそれももはや限界ということだろう。
グレイシアはベッドに腰を掛けたまま、壁に目をやって言った。
「いいの、姉さんにいつまでも迷惑かけられないし」
グレイシアがそう言うと、ハンナは困ったような顔をした。
「……ごめんね」
「大丈夫よ。客を相手にするようになればお金が貰える。そうしてお金を貯めて、私は自分を買い戻す」
望んでやって来たわけではなく娼館に売られた女が自由になる方法は一つだけ、それは自分に当時付いていた値段の倍額を娼館へ支払うこと。
グレイシアは、ついにそれを目指す決心が出来た。というより、希望を見出すならばそこにしかない。
「……これ」
ハンナはそう言って持ってきた手提げ袋の中から、本を取り出してグレイシアに手渡した。
「……ありがとう」
グレイシアの目が、ほんのひと時だけ輝きを取り戻した瞬間だった。
収入がなく、日中から夜まで娼館の雑務に追われていたグレイシアにとって、楽しみと言えるものはこれだけだった。
時折、ハンナが買ってきてくれる本。グレイシアはこれが娼館での生活の唯一の楽しみであり、光明としているものだった。
「でもこんな難しい本よく読めるね。あたしは字が読めないし、何がいいんだか」
「わからないことがあれば、またそれをわかるための本を読むの。そしてもう一度読み直すと、わかってくる。それが楽しいの」
この七年の生活で読んだ本によって、グレイシアの部屋は足の踏み場も無い状況になりつつあった。
それでもハンナは気前よく本を買ってきてくれる。グレイシアはそれを心から感謝していたし、いつの日か恩返しをしたいと思っていた。
ハンナは少し顔を曇らせると、真剣な口調で言った。
「でも、私達は娼婦なの。勉強をしたところで……わかっているでしょう?」
「……うん」
グレイシアの返事を聞いたハンナは、「まあ、それでも好きなことをやるのは、あたしは良いと思うけどね」と微笑んだ。
「それじゃ、あたしは行くよ。夜は、頑張ってね」
ハンナはそう言って部屋から出ていった。
ハンナは、本当にいい人だ。
娼館での生活が、もう少しで物心ついてからのあの日々の生活よりも長くなる。
そういう今にとって、ハンナは本当に姉のような存在だ。
もう、あの頃の日々が、夢のようにおぼろげになってしまっている。
グレイシアはそう思うと、悲しい気持ちになった。
やがてその気持ちを振り払うようにベッドに寝転んで、ハンナが買ってきてくれた本を広げた。
今なら、父が読んでいた本も、私には理解できる。
その日の夜、グレイシアは初めて客の相手をした。
その部屋は住み慣れた娼館の一室。何度も掃除に訪れた部屋が、その日は獣と閉じ込められる檻のように感じられた。
苛立った客に腕を掴まれたとき、グレイシアはアヒルの男に捕らえられた日のことを思い出した。客が放つ酒の臭いは、まるで獣の口の臭いのようにグレイシアの恐怖を煽った。
そして頭が真っ白になっている間に、全ては終わっていた。
「やはり若い女は肌が良い。それに髪だ。髪はお前くらいの歳の女のが一番好きなんだ。可愛がってやる」
初めての客がそう言っていた。
それからグレイシアは、髪をとかすことを止めた。
十七歳になったころ、グレイシアは鏡に映った自分の姿を見て、不安と焦りを募らせていた。
グレイシアは娼館に売られた。しかし幼子であったため、そこでの仕事は客の相手ではなく雑事が中心だった。
客の相手をさせるのは身体が女になってから、館主にそう言われていた。
だからグレイシアはこうして誕生日を迎える度に鏡で自分の姿を見ると、ひどくつらい気持ちになる。
年々胸は膨らみ、身体は丸みを帯びてくる。顔つきは幼さを残しているものの、黒く美しい髪、整った顔立ちと凛とした目元、すらりと伸びた脚、白く澄んだ肌は同じ娼館で働く娼婦たちからも褒められるだけでなく、妬みの声も聞こえてきている。
さすがは元貴族様ね、そう嫌味を言ってくる娼婦もいるほどだ。
部屋がノックされ、「グレイシア入るわよ」と声が聞こえた。
やがて入ってきたのは先輩であり一回り年上の娼婦であるハンナだった。
ハンナは七年前に連れてこられたグレイシアの面倒をよく見てくれていた人で、グレイシアは彼女をいつの日からか「姉さん」と呼んでいた。
「ほら、食事持ってきたわよ」
「……いいのに、姉さん」
「またそんなこと言って。そんなに痩せたままじゃだめでしょ。食べなきゃやってられないわよ」
「食欲、無いから」
それを聞いたハンナは、ふうとため息をついて、ベッドに腰掛けたグレイシアの隣に静かに座った。
「……あのね、あなた今日で十七歳でしょう。ホフマンが今日からあんたに客の相手をしてもらうって」
その言葉にグレイシアは一瞬顔を強張らせた。そして「……そう」と呟いた。
娼館にやってくる女は様々な出自を持つ者たちだ。生活に困って自らやってくる者もいれば、戦の巻き込まれ奴隷となって売られた者もいる。
グレイシアは七年前のある日、知らない男に連れられて娼館に売られた。
その男の名は知らない。ただ背丈や体型から、あのアヒルの男ではないということはわかっている。
館主のホフマンは喜んで大金を渡し、グレイシアを買った。
他の娼館たちも特にグレイシアに同情するような素振りを見せなかった。皆事情があるからだと、グレイシアは後で知った。
そんな中でも、ハンナは特別にグレイシアを可愛がってくれた。
グレイシアが十五歳になったころ、ホフマンがグレイシアの身体を舐め回すように見て「これはそろそろだな」といやらしく笑って言ったことがある。
これに強硬に反対したのはハンナである。ハンナは「身体は女になってきても、まだこの子は要領が悪すぎる。これじゃ客を怒らせるだけよ」などと言って、グレイシアをかばい続けた。
だがそれももはや限界ということだろう。
グレイシアはベッドに腰を掛けたまま、壁に目をやって言った。
「いいの、姉さんにいつまでも迷惑かけられないし」
グレイシアがそう言うと、ハンナは困ったような顔をした。
「……ごめんね」
「大丈夫よ。客を相手にするようになればお金が貰える。そうしてお金を貯めて、私は自分を買い戻す」
望んでやって来たわけではなく娼館に売られた女が自由になる方法は一つだけ、それは自分に当時付いていた値段の倍額を娼館へ支払うこと。
グレイシアは、ついにそれを目指す決心が出来た。というより、希望を見出すならばそこにしかない。
「……これ」
ハンナはそう言って持ってきた手提げ袋の中から、本を取り出してグレイシアに手渡した。
「……ありがとう」
グレイシアの目が、ほんのひと時だけ輝きを取り戻した瞬間だった。
収入がなく、日中から夜まで娼館の雑務に追われていたグレイシアにとって、楽しみと言えるものはこれだけだった。
時折、ハンナが買ってきてくれる本。グレイシアはこれが娼館での生活の唯一の楽しみであり、光明としているものだった。
「でもこんな難しい本よく読めるね。あたしは字が読めないし、何がいいんだか」
「わからないことがあれば、またそれをわかるための本を読むの。そしてもう一度読み直すと、わかってくる。それが楽しいの」
この七年の生活で読んだ本によって、グレイシアの部屋は足の踏み場も無い状況になりつつあった。
それでもハンナは気前よく本を買ってきてくれる。グレイシアはそれを心から感謝していたし、いつの日か恩返しをしたいと思っていた。
ハンナは少し顔を曇らせると、真剣な口調で言った。
「でも、私達は娼婦なの。勉強をしたところで……わかっているでしょう?」
「……うん」
グレイシアの返事を聞いたハンナは、「まあ、それでも好きなことをやるのは、あたしは良いと思うけどね」と微笑んだ。
「それじゃ、あたしは行くよ。夜は、頑張ってね」
ハンナはそう言って部屋から出ていった。
ハンナは、本当にいい人だ。
娼館での生活が、もう少しで物心ついてからのあの日々の生活よりも長くなる。
そういう今にとって、ハンナは本当に姉のような存在だ。
もう、あの頃の日々が、夢のようにおぼろげになってしまっている。
グレイシアはそう思うと、悲しい気持ちになった。
やがてその気持ちを振り払うようにベッドに寝転んで、ハンナが買ってきてくれた本を広げた。
今なら、父が読んでいた本も、私には理解できる。
その日の夜、グレイシアは初めて客の相手をした。
その部屋は住み慣れた娼館の一室。何度も掃除に訪れた部屋が、その日は獣と閉じ込められる檻のように感じられた。
苛立った客に腕を掴まれたとき、グレイシアはアヒルの男に捕らえられた日のことを思い出した。客が放つ酒の臭いは、まるで獣の口の臭いのようにグレイシアの恐怖を煽った。
そして頭が真っ白になっている間に、全ては終わっていた。
「やはり若い女は肌が良い。それに髪だ。髪はお前くらいの歳の女のが一番好きなんだ。可愛がってやる」
初めての客がそう言っていた。
それからグレイシアは、髪をとかすことを止めた。
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