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二章
第36話 小城の主
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ナプスブルク北東部のヘッセン地方にはカーデン湖という美しい湖があり、景勝地としても知られている。
この一帯の領主はこの国の国王であるアルノー二世であり、彼は摂政ロイに国権を譲渡してからというもの、この湖のほとりに構えた古城、カーデン城で一族と暮らしていた。
その暮らしぶりはかつて王城に住んでいた頃よりも一層贅沢を増しているといわれ、権力を失ってもなおその人格は変わらないままなのかと人々に嘆かれていた。
しかしそんな声も月日が経つにつれて弱まり、今ではその存在も忘れ去られかけている。
「陛下、お久しゅうございます。マルクス・フォン・カップ、まかり越しました」
ロイ政権の下で筆頭政務官を務めるマルクスは、かつての……いや、名目上とはいえ今のも主君であるアルノー二世の前で跪くと、仰々しく頭を垂れた。
アルノー二世は王家の歴史上最も偉人とされた父と、ナプスブルク一の美女と言われた母から生まれただけに、その容貌は威厳と、そして四十を半ば過ぎてなお魅力ある顔立ちを保っている。
そんなアルノー二世はその大きな目をゆっくりと開いてみせ、ロイから買い取った玉座に座りながらマルクスを見下ろして言った。今はこの玉座の存在だけが彼を王と知らしめる物になっている。
「……余はかつてこれほど胸を痛めたことがない」
「……はは」
「余からその国権を奪い取ったあの男は、あろうことかセラステレナに侵攻したという」
奪い取ったのではなく、あなたは嬉々としてそれを売り払ったのではありませんか。マルクスはその言葉を飲み込む。
「セラステレナには四人の愛娘を嫁がせている。かの国は我が兄弟も同然の間柄だ」
その四人の姫君はセラステレナの歓心を買うために半ば貢物同然に嫁がせたのではありませんか。彼女たちの子らは王位継承権も与えられず、実質姫君は妾のような立場に過ぎません。それに娘のうち二人は教皇からの褒美としてその配下に払い下げられたと聞きますぞ……。
マルクスは当時非常に苦労をさせられた思いからそう心の中で毒づいた。
「であるのにフィアットと共謀し我が兄弟の国を攻めるとは言語道断ではないか。かつてナプスブルクは義を重んじ仁を成す国として大陸中からその畏敬を集めた。それを我が代で失うわけにはいかぬ。余はそう心を痛めているのだ」
「はあ」
「そこでビゼンフルトの地をロッドミンスターに譲ろうと思うのだ」
「はあ!?」
「策に疎いお前にはわからぬか。ロッドミンスターの若造に餌を与え、その軍をもってあの元奴隷の背後を突き、国を取り戻そうというのだ」
「ビ、ビゼンフルト地方は先々代の時代からロッドミンスターと争った係争の地。それを先王陛下が戦に勝ちようやく治め……その上、先王陛下が今もそこに眠る地ですぞ……!」
ナプスブルク先王はその生命が尽きる時、いつの日かロッドミンスターが攻め寄せてきたとしても討ち払えるようにと、あえて王都がある土地ではなくビゼンフルトの地で眠ることを選んでいた。
「だからこそ価値があるのだろうが。取引は等価でなければならぬというが、初めに少し多めに譲ってやることで恩を売り、後に大きな益を得るのがうまいやり方というものだ」
「しかし……」
マルクスは冷や汗を垂らしながら考えた。
おかしい、この王がこんなことを言い出すとは。酒と女と美食、そして狩りにしか興味を示さない王がこう言い出すときには必ず理由がある。大義だ仁だなどという思考は本来この王にはない。
こんなことを言い出すのは大方摂政から受け取った金の大半を使い果たしたからに違いないが、それでも自ら危険を招くような真似をする人物ではない。
これはつまり、何者かに入れ知恵をされて乗せられたということ。これまで自分がそうしていたように。
だが誰の入れ知恵だ? ロッドミンスターのウルフレッドか? いや、風聞を知る限りあの若造にそのような知恵はない。
だとするとグレーナーか? 奴は王に気に入られている。そして野心家だ。よからぬことを考えていたとしても不思議ではない。
「マルクス、グレーナーが王都に来ているのだろう? ならば奴に伝えてくれ。あの摂政の元へ運ぶという物資、できる限り遅らせよと。兵糧が尽きればセラステレナには万が一にも勝てぬ。そこにロッドミンスターの軍が背後を襲えば必ず討ち取れるだろう」
「は、はあ」
グレーナーではない? では一体誰が。
「マルクスよ」
「は、ははっ!」
「事が成り王都を取り戻した暁には、お前を新たな摂政にしてやろうと思う。そうなれば今度こそ余は安心してこの地で過ごせるというものだ」
「私を摂政に?」
「そうだ。それにお前も男を見せねばならないのではないか? あのブラッドフォードという男は、お前を好いてはおらぬようだ」
マルクスは思わず心臓を掴まれたような心地になった。この国王は決して明君とはいえない。なのに何故かこういった勘が鋭いところがある。
摂政の地位が欲しくないわけではない。だがこの橋は渡るには危うい。
しかしあの元奴隷が自分に対して良い感情を持っていないことは痛感している。評定にもいつの間にか呼ばれなくなり、今回もただ「留守を命じる。現状を維持せよ」と命じられただけだ。
そして自分は何の成果も上げられないでいる。
もしこのまま奴が戦に勝利し凱旋したならば? アミアン領を併合し二カ国の力をあの男が得たとしたら? 再び内政にその目が向いたとき、粛清が始まるのではないか。
それに、だ。もし摂政の軍がセラステレナに敗れたならば、セラステレナ軍がここになだれ込んでくる。そうなったとき身を守るためにも、セラステレナに恩を売っておくほうが良いかもしれない。
そして万が一、摂政の軍が勝利し、王の企みが露見したならば、臣下として王命に逆らうわけにはいかなかったのだと涙でも流して謝罪すれば命まではとられないだろう。
名目上とはいえ摂政も王の臣下であり、”主命”の所在は明らか。摂政とてそれを踏み超えればただでは済まない。
なに、頭を下げることなど苦でもない。
いくらこの頭を地に擦り付け、涙で顔を濡らしたとしても、我が懐に痛むものは何もない。謝罪で事が済むのなら、それが最良。
「……陛下、先程私めを”策に疎い”と申されましたが」
マルクスは顔を上げ、王に向かって邪な笑みを浮かべ、言った。
「策こそ我が本領。どうかご期待くださいますよう」
「うむ、そうか。やはり頼りになる男よ。頼んだぞ」
そうしてマルクスは深々と一礼すると、立ち去った。
アルノー二世はその背を見送り、やがて彼の姿が見えなくなってから傍らにいた侍従に声をかけた。
「……あれであの男は余を操っている気なのだ。哀れというか、あの滑稽な様子を見ていると、可愛げすら覚えてくる」
「はたしてロッドミンスターの説得、成るでしょうか?」
「まあ、十中八九無理だろうよ」
「では、なぜ?」
「ナプスブルクは滅ぶからだ」
「えっ……」
「奴がそれを望んでいる」
「……もしや、先日やって来たあの男でありますか? あの男の実に堂々とした振る舞い、とても悪意があるようには思えませんでしたが」
「自らを”太陽の子”などと称しているキザな男だが、余にはわかる。あれは我が父などよりも遥かに恐ろしく、そして狂っている。あやつは摂政を殺し、この地の全てを得るつもりだ。だから、あの者に味方するという姿勢を早々に見せておこうと考えたのだ。奴の願いは摂政の背後を脅かすことだからな」
「そのような危険な男に何故手を貸すような真似をなさるのです。陛下の御身も危ういのではありませんか。いったい、あの男と二人きりで何を話されたというのです?」
王は侍従の問いに答えず、自らに言い聞かせるように言った。
「……あがいたところで何になる。勝てぬとわかっているのなら、勝たずとも生きる術を見出すだけだ」
そしてアルノー二世はぼんやりと天井を眺め、生気の無い顔でこう言った。
「なにせ太陽の子なのだ。我が国を滅ぼし民を血に染めたとしても、この小城と湖一つを余に残すくらいの情けはあるだろうよ」
この一帯の領主はこの国の国王であるアルノー二世であり、彼は摂政ロイに国権を譲渡してからというもの、この湖のほとりに構えた古城、カーデン城で一族と暮らしていた。
その暮らしぶりはかつて王城に住んでいた頃よりも一層贅沢を増しているといわれ、権力を失ってもなおその人格は変わらないままなのかと人々に嘆かれていた。
しかしそんな声も月日が経つにつれて弱まり、今ではその存在も忘れ去られかけている。
「陛下、お久しゅうございます。マルクス・フォン・カップ、まかり越しました」
ロイ政権の下で筆頭政務官を務めるマルクスは、かつての……いや、名目上とはいえ今のも主君であるアルノー二世の前で跪くと、仰々しく頭を垂れた。
アルノー二世は王家の歴史上最も偉人とされた父と、ナプスブルク一の美女と言われた母から生まれただけに、その容貌は威厳と、そして四十を半ば過ぎてなお魅力ある顔立ちを保っている。
そんなアルノー二世はその大きな目をゆっくりと開いてみせ、ロイから買い取った玉座に座りながらマルクスを見下ろして言った。今はこの玉座の存在だけが彼を王と知らしめる物になっている。
「……余はかつてこれほど胸を痛めたことがない」
「……はは」
「余からその国権を奪い取ったあの男は、あろうことかセラステレナに侵攻したという」
奪い取ったのではなく、あなたは嬉々としてそれを売り払ったのではありませんか。マルクスはその言葉を飲み込む。
「セラステレナには四人の愛娘を嫁がせている。かの国は我が兄弟も同然の間柄だ」
その四人の姫君はセラステレナの歓心を買うために半ば貢物同然に嫁がせたのではありませんか。彼女たちの子らは王位継承権も与えられず、実質姫君は妾のような立場に過ぎません。それに娘のうち二人は教皇からの褒美としてその配下に払い下げられたと聞きますぞ……。
マルクスは当時非常に苦労をさせられた思いからそう心の中で毒づいた。
「であるのにフィアットと共謀し我が兄弟の国を攻めるとは言語道断ではないか。かつてナプスブルクは義を重んじ仁を成す国として大陸中からその畏敬を集めた。それを我が代で失うわけにはいかぬ。余はそう心を痛めているのだ」
「はあ」
「そこでビゼンフルトの地をロッドミンスターに譲ろうと思うのだ」
「はあ!?」
「策に疎いお前にはわからぬか。ロッドミンスターの若造に餌を与え、その軍をもってあの元奴隷の背後を突き、国を取り戻そうというのだ」
「ビ、ビゼンフルト地方は先々代の時代からロッドミンスターと争った係争の地。それを先王陛下が戦に勝ちようやく治め……その上、先王陛下が今もそこに眠る地ですぞ……!」
ナプスブルク先王はその生命が尽きる時、いつの日かロッドミンスターが攻め寄せてきたとしても討ち払えるようにと、あえて王都がある土地ではなくビゼンフルトの地で眠ることを選んでいた。
「だからこそ価値があるのだろうが。取引は等価でなければならぬというが、初めに少し多めに譲ってやることで恩を売り、後に大きな益を得るのがうまいやり方というものだ」
「しかし……」
マルクスは冷や汗を垂らしながら考えた。
おかしい、この王がこんなことを言い出すとは。酒と女と美食、そして狩りにしか興味を示さない王がこう言い出すときには必ず理由がある。大義だ仁だなどという思考は本来この王にはない。
こんなことを言い出すのは大方摂政から受け取った金の大半を使い果たしたからに違いないが、それでも自ら危険を招くような真似をする人物ではない。
これはつまり、何者かに入れ知恵をされて乗せられたということ。これまで自分がそうしていたように。
だが誰の入れ知恵だ? ロッドミンスターのウルフレッドか? いや、風聞を知る限りあの若造にそのような知恵はない。
だとするとグレーナーか? 奴は王に気に入られている。そして野心家だ。よからぬことを考えていたとしても不思議ではない。
「マルクス、グレーナーが王都に来ているのだろう? ならば奴に伝えてくれ。あの摂政の元へ運ぶという物資、できる限り遅らせよと。兵糧が尽きればセラステレナには万が一にも勝てぬ。そこにロッドミンスターの軍が背後を襲えば必ず討ち取れるだろう」
「は、はあ」
グレーナーではない? では一体誰が。
「マルクスよ」
「は、ははっ!」
「事が成り王都を取り戻した暁には、お前を新たな摂政にしてやろうと思う。そうなれば今度こそ余は安心してこの地で過ごせるというものだ」
「私を摂政に?」
「そうだ。それにお前も男を見せねばならないのではないか? あのブラッドフォードという男は、お前を好いてはおらぬようだ」
マルクスは思わず心臓を掴まれたような心地になった。この国王は決して明君とはいえない。なのに何故かこういった勘が鋭いところがある。
摂政の地位が欲しくないわけではない。だがこの橋は渡るには危うい。
しかしあの元奴隷が自分に対して良い感情を持っていないことは痛感している。評定にもいつの間にか呼ばれなくなり、今回もただ「留守を命じる。現状を維持せよ」と命じられただけだ。
そして自分は何の成果も上げられないでいる。
もしこのまま奴が戦に勝利し凱旋したならば? アミアン領を併合し二カ国の力をあの男が得たとしたら? 再び内政にその目が向いたとき、粛清が始まるのではないか。
それに、だ。もし摂政の軍がセラステレナに敗れたならば、セラステレナ軍がここになだれ込んでくる。そうなったとき身を守るためにも、セラステレナに恩を売っておくほうが良いかもしれない。
そして万が一、摂政の軍が勝利し、王の企みが露見したならば、臣下として王命に逆らうわけにはいかなかったのだと涙でも流して謝罪すれば命まではとられないだろう。
名目上とはいえ摂政も王の臣下であり、”主命”の所在は明らか。摂政とてそれを踏み超えればただでは済まない。
なに、頭を下げることなど苦でもない。
いくらこの頭を地に擦り付け、涙で顔を濡らしたとしても、我が懐に痛むものは何もない。謝罪で事が済むのなら、それが最良。
「……陛下、先程私めを”策に疎い”と申されましたが」
マルクスは顔を上げ、王に向かって邪な笑みを浮かべ、言った。
「策こそ我が本領。どうかご期待くださいますよう」
「うむ、そうか。やはり頼りになる男よ。頼んだぞ」
そうしてマルクスは深々と一礼すると、立ち去った。
アルノー二世はその背を見送り、やがて彼の姿が見えなくなってから傍らにいた侍従に声をかけた。
「……あれであの男は余を操っている気なのだ。哀れというか、あの滑稽な様子を見ていると、可愛げすら覚えてくる」
「はたしてロッドミンスターの説得、成るでしょうか?」
「まあ、十中八九無理だろうよ」
「では、なぜ?」
「ナプスブルクは滅ぶからだ」
「えっ……」
「奴がそれを望んでいる」
「……もしや、先日やって来たあの男でありますか? あの男の実に堂々とした振る舞い、とても悪意があるようには思えませんでしたが」
「自らを”太陽の子”などと称しているキザな男だが、余にはわかる。あれは我が父などよりも遥かに恐ろしく、そして狂っている。あやつは摂政を殺し、この地の全てを得るつもりだ。だから、あの者に味方するという姿勢を早々に見せておこうと考えたのだ。奴の願いは摂政の背後を脅かすことだからな」
「そのような危険な男に何故手を貸すような真似をなさるのです。陛下の御身も危ういのではありませんか。いったい、あの男と二人きりで何を話されたというのです?」
王は侍従の問いに答えず、自らに言い聞かせるように言った。
「……あがいたところで何になる。勝てぬとわかっているのなら、勝たずとも生きる術を見出すだけだ」
そしてアルノー二世はぼんやりと天井を眺め、生気の無い顔でこう言った。
「なにせ太陽の子なのだ。我が国を滅ぼし民を血に染めたとしても、この小城と湖一つを余に残すくらいの情けはあるだろうよ」
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