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戻るべき場所 ⑨
しおりを挟む第九話
世の中がお盆休みに入る直前の日の朝、出勤の準備をしているときに由美子からの電話が鳴った。
「リョウ、顔が元に戻った!」
由美子は叫ぶよう言い、そして電話口でしばらく泣いていた。
「よかったな、ユミ。本当によかった。きっと突然戻ると思ってたよ」
「ありがとう、リョウ。これから検査があるから、もっと詳しく分かったら連絡するね」
そう言って由美子は電話を切った。
「よかった!」
思わず声に出して歓喜した。
僕はまるでスキップでもしそうな足取りで職場に向かった。
通勤電車の中では自然と鼻歌が出て、周囲の乗客が怪訝そうな顔をしていた。
つまらない職場でも今日は楽しい気分で過ごせそうな気がした。
浮かれて空を見上げると、まるで由美子の復活を祝うかのように雲ひとつない素晴らしい青が世の中を包んでいた。
おそらく地球の歴史上、あらゆる快晴をぶち抜くようなこの日の鮮やかな青は、決して過去になかった空の色に違いないとさえ思えた。
駅を出た僕は、手提げ鞄を大きく振り、鞄が弧を描く大きさと同じほどに足を高く上げながら、駆けるように職場がある巨大なビルに飛び込んだ。
エレベータ内の知らない男性社員やOLにまでも大きな声で挨拶をした。
皆が僕につられて挨拶を返してきた。
「おはよう」「ああ、おはよう」「おっ、おはよう」「はい、おはようございます」、様々なおはようの言葉が狭いエレベータの天井付近で交叉した。
始業のあと、いきなりの上司の苦言も、まるで気の利いた冗談みたいに聞こえた。
仕事中も顧客や取引先との応対が、自然と笑顔になっていて、相手にも伝わるのだろうか、スムーズに話せたのが不思議だった。
由美子から昼過ぎに再び連絡があった。
「明後日の日曜日に退院することになったの。入院してちょうど二ヶ月ね。いろいろありがとう」
「じゃあ、日曜日は朝からそっちへ行って手伝おうか?」
退院に付き添うのは当然僕の役割だと思っていた。でも由美子は来なくてもいいと言うのだった。
「母と兄が朝から来てくれるから大丈夫。いろいろ手続きなんかもあるから。だから、リョウは夕方でいいから自宅のほうに来てくれる?姉や叔母さんたちも来て退院祝いをするって言うからリョウも来て欲しいの」
「分かった、そうするよ。何か買っていくものはあるかな?」
「何も要らないよ。来てくれるだけでいいから」
退院の日の夜に自宅に呼ばれ、彼女の家族と一緒に祝うということは、由美子の身内に認められているのだと僕は思った。
由美子の家族は彼女が入院後も変わりなく僕と接してくれていたし、疎外感を感じたことは一度もなく、いずれ僕もその仲間に入るものだと信じて疑わなかった。
ただ、由美子はこの二ヶ月の間で、以前のようにふたりでいるときに僕に甘えてくるようなことはなく、求めなければキスもしてこなくなっていた。
それを少しだけ気にはしていたが、ふたりの関係に何か亀裂が生じているとは決して思わなかった。
僕は自分のこころの安定を維持するのに精一杯で、由美子気持ちの変化などに気づく余裕もなかったし、とりわけ、顔面神経麻痺が元の顔に戻ったこの日は、ふたりの関係に懸念の欠片さえも抱かなかった。
日曜日の夜、由美子の家には兄と姉の両方の家族や、父方や母方の双方の親戚も集まった。
六畳間と隣の四畳半の部屋をまたいで和テーブルを二つ並べ、近所の寿司屋から出前を取り、由美子の母の手料理も並べられてにぎやかな退院祝いがはじまった。
由美子は病院の顔とは違う顔で、常に笑顔を絶やさず楽しそうに料理を食べ、お祝いのビールを次々と注がれるままに飲んでいた。
食事のあとは誰かが奮発した大きなケーキを切って祝った。
何もかもが完璧な退院祝いセレモニーが進んだ。
「ユミちゃん、本当によかったね。一時はどうなることかと心配したよ」
「本当ね。目が覚めたら昨日の顔と違っていたら誰だって驚くよね。原因がはっきりしないというのも怖いわね」
由美子の兄と姉が言った。
僕はあまり言葉を挟まず皆の会話に適当な相槌を打った。
「ともかく副作用はなかったようだし、後遺症も心配ないというのだから、まあよかったじゃないか」
兄がそう言って「塚本さんとのこともそろそろ考えていかないとね」と僕のほうを向いて付け加えた。
「そうですね」と、僕は意識的に軽く笑みを浮かべて返答し、それから由美子を見ると、彼女は兄の言葉のほうを向きながらも、何も言わずに黙ってケーキを口に運んでいた。
夜九時を過ぎてお開きになり、そろそろ帰ることにした。
母は泊まっていけばいいのにと嬉しい言葉をかけてくれたが、そういうわけにもいかないだろうと僕は腰を上げた。
由美子が駅まで送ると言い、大丈夫だからと僕は断ったのだが、なぜか彼女は送りたいからと言って聞き入れなかった。
きっと少しの時間だけでもふたりきりになりたいのだろうと、僕は何の疑問も感じずに善意に解釈した。
由美子の家を出て駅に向かう途中の家々では、窓に張られた網戸の向こうに、お盆を一緒に過ごす家族の幸せな様子と、それを証明するたくさんの笑い声が聞こえた。
どこかの家の風鈴がチリリンと鳴った。
まだまだ厳しい暑さが続いていたが、落ち着いた平和な夜だとしみじみと感じ、僕のこころも由美子が帰ってきた喜びで満ち溢れていた。
「リョウ、ちょっと話があるの」
駅が見えてきたあたりで不意に由美子が言った。
「どうしたの?」
「そこの喫茶店がまだ開いているから入ろう」
平野駅への直線道路の百メートルほど手前あたりにある古びた喫茶店に、由美子は僕を引き入れた。
流れるような旋律のクラッシック音楽が、この日の営業の終わりを数人の客に知らせているかのように静かに流れていた。
僕たちは入ってすぐの窓際の席に座った。
由美子は僕とのこれからのことについて話がしたいのだろう、そしてその内容はふたりが一緒になるための前向きの相談に違いないと信じて疑わなかった。
僕は由美子からの言葉をしばらく待ったが、彼女はなかなか話をはじめようとはしなかった。
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