戻るべき場所

Pero

文字の大きさ
13 / 16

戻るべき場所 13

しおりを挟む

       第十三話

 
 由美子は僕の部屋を一時間ほどかけて応急の掃除をしてくれた。

 掃除機をかけ、カップ麺やお菓子やティッシュの屑などが散乱していたものをゴミ袋にまとめ、キッチンのガスレンジや流しを何ヶ月ぶりかで洗ってくれた。

「何、これ?カビだらけじゃない。汚いなぁ、こんなじゃ病気になるよ」

 ときどきブツブツと文句を言いながら、バスルームまでもピカピカに磨いてくれた。
 
 付き合いはじめたころ、初めて僕の部屋に来たときも部屋中を掃除しながら、同じような言葉で僕を罵ったことが思い出され、懐かしさと嬉しさを感じた。

 由美子が忙しく動いている間、僕は彼女の動きを背後からじっと眺めているだけだった。

「これで一応はきれいになったね。ちゃんとしないとだめだよ。不潔な部屋でずっといると本当に病気になるんだから」

 そう言って由美子はポットでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れてくれた。
 
 彼女がさっきの号泣から打って変わって落ち着くと、不思議なことに、僕の冷静なこころはこのまま変わらずに回復するのではないかとさえ思った。

 和テーブルを挟んで僕たちは向かい合い、しばらくそうしてコーヒーを飲んでいると、二ヶ月前に平野駅の近くの喫茶店で向かい合っていた場面が脳裏に出現した。

 やっぱりだめだ、あの夜の出来事がよみがえってくるのだ。

 突然の別れを振りおろされたあの恐ろしい夜の出来事、次第に鮮明によみがえってきた光景を、僕は頭を振って無理やり消そうとした。

 でもそれはうまくはいかなかった。
 
「こんなに世話をしてもらうとユミを忘れられなくなるじゃないか」

「無理に忘れなくてもいいのよ。私だってリョウのことは忘れないから。別れる必要はあっても忘れる必要はないと思うの」

 別れる必要があっても、忘れる必要はないって、それってどういう位置に僕を見ていることになるのだろう。

 僕はしばらく考えた。

 久しぶりのコーヒーが美味しくてあっという間に飲み干してしまった。

「コーヒー、もう一杯淹れようか?」

「うん」

 由美子がキッチンへ立った。

 こんなふうにしてくれると由美子への愛情が急激に戻ってきそうだった。
 でも由美子の気持ちは僕から離れてしまっている。

 互いの気持ちが一致していないのに、僕の愛情だけが戻ってしまうことを怖れた。

 どうにかいったん引いた波が、今度は大きな津波となって僕の不安なこころを襲ってくる怖さを感じはじめた。

 いったんそう思いはじめると、再び僕のこころが身体の中で落ち着く位置を求めてさ迷った。

 胸の中をぐるぐると落ち着き先を探して動き回っているような感覚になってきた。
 コーヒーカップを持つ手が震え、脂汗が滲み出てきた。
 
「どうしたの、リョウ」

「ユミ、今日は来てくれてありがとう。でも、もういいから帰って欲しいんだ。そしてこれからは無理に来てくれなくてもいいよ」

「どうしてそんなことを言うの?」

「僕のことを心配してくれるのなら、ずっと心配して欲しいんだ。ずっと、ずっと、僕のそばから離れないで欲しいんだ。でもそれはもう無理なんだろ?二度と僕のところには戻ってきてくれないんだろ?ユミには好きな人がいるんだろ?だったらもう僕のことは放っておいて欲しい」

「リョウ・・・」

 由美子は両手で顔を押さえて泣いた。でもどう仕様もないことだと思った。
 
 別れる必要はあっても忘れる必要はないって、そんなことは別れを告げた側の論理ではないのか。

 告げられた側のこころの位置と告げた側のこころの位置は地球の裏表ほどの違いがある。

 由美子の気持ちは分からないでもない。

 僕への思いやりが残っているからこそ今日訪ねてきてくれたのだし、別れる必要があっても忘れる必要はないと、彼女側の論理を悪意なく言ってくれたのだ。

 それは分かる。

 でも相手のこころを突き放した側と突き放された側の違いは、その位置関係が発生した時点からずっと変わらない。

 由美子はそれを分かっていないし、分からないことは仕様のないことなのだ。
 
「ごめんな、ユミ。僕はやっぱりこころの病気なんだ。許してくれるかな」

「ううん、私が悪いの。リョウは全然悪くないのよ。可哀想なリョウ。どうしてこんなになってしまったの」

 由美子は横に来て両手で僕の身体を抱いた。

 彼女の匂いとぬくもりが伝わってくると震えは次第に治まった。

 それから間もなく由美子は帰っていった。

 由美子が帰ってしまうと、僕のこころは猛烈な切なさと寂しさに襲われ、叫ぶのを堪えながら泣いた。

 
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

お義父さん、好き。

うみ
恋愛
お義父さんの子を孕みたい……。義理の父を好きになって、愛してしまった。

処理中です...