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1巻
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1
「それでは、あおい先輩の契約を祝って、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
女性三人の黄色い声に続き、カチンとグラスの触れ合う音が店内に響く。
ここは都心のオフィス街の裏通りにある、落ち着いた雰囲気の居酒屋だ。天井から吊るされた白熱球のほのかな明かりに、木目の腰壁、ダウンライトの降り注ぐバーカウンターと、どこをとってもおしゃれのひと言に尽きる。料理もアヒージョやタコス、肉料理と種類も豊富なため、こぢんまりした店内は若い人たちでいつも賑わっていた。
須崎あおいが勤めるフジチョウ建設は、ここから道一本隔てた国道沿いにビルを構えている。従業員数は千人ほどで、取締役は皆同じ姓。いわゆる同族経営の不動産建設会社だ。
短大卒業を機に入社したあおいも、来年の春には早くも勤続丸十年を迎える。三十路を目前に控えた現在は、資産運用部第二営業課の主任として邁進する日々だ。
「先輩、無事契約にこぎつけてよかったですね~!」
「まだ気が早いよ。契約するなんてひと言も言われてないのに」
隣の席でキャッキャと喜ぶ後輩の咲良優愛に、あおいは苦笑いを浮かべた。
「でも、それまでは見積りすら出させてもらえなかったんだから、あとひと押しってことじゃないですか?」
いやいや、と向かいに座る同じく後輩の村本美尋が手を振る。
「違うんだなあ、優愛ちゃん。ここから先が長いんだって。しかも山田さんといったら大地主だもん。いろんな業者が足繁く通ってるんだよ」
「もう、そんなこと知ってますよ~。せっかく喜んでるのに水を差すなんて、美尋さんひど~い」
プンスカと頬を膨らませる優愛の肩をあおいは優しく叩いた。
「大丈夫大丈夫、気にしないで。ほら、せっかくのお酒なんだから楽しくのもう! はい、かんぱーい!」
手にしたビールのグラスを掲げてから、クーッとあおる。
ごくごくとのみ干すと、喉を駆け抜ける苦い泡がなんとも心地いい。やはりアルコールは最高だ。酒を覚えた二十歳の頃から種類を問わずいけるクチで、平日でも夕食前に必ず晩酌をする。最後に休肝日を設けたのはいつだっけ? と首を捻るほどだ。
今日この店にやってきたのは優愛の提案によるものだった。美尋の言う通り、まだ契約にこぎつけるかどうかも定かではないが、あおいにとってみれば酒をのめるというだけでラッキーなのだ。何より優愛の気持ちが嬉しい。これで経費で落ちればなおいいのだが、部署の一部のメンバーだけの集まりではそういうわけにもいかないだろう。
料理が運ばれてきて、あおいは自ら後輩たちに取り分けた。
「はい、優愛ちゃんの分。これは美尋ちゃんのね」
「わーい、先輩ありがとうございます。おいしそう~」
箸を手に無邪気な笑みを浮かべる優愛に、あおいもつい相好を崩す。
二十五歳の彼女は見た目だけでなく、性格まであざとかわいい後輩だ。今もお通しの魚の切り身を箸の先で小さくちぎり、口に運ぶと同時に「おいしい」と頬に手を当てる。
グラスにはピンク色のいちごソーダ。ちょこまかとした動きで箸を置き、『私かわいいでしょ?』とばかりに、ちびりとグラスに口をつける。
(ま、実際にかわいいんだけど)
優愛は顔がかわいくてスタイルがいいだけでなく、いつもおしゃれに気を使っている。胸の高さまである髪を緩く巻き、今日はふわっとしたアイボリーのワンピースにもこもこのバッグといういで立ちだ。彼女はあおいと違って営業ではなく営業事務のため、服装はある程度自由が利く。この姿で彼氏がいないのは、きっと優良物件を狙っているのだろう。
(それに対して私の格好……!)
自分の姿を見下ろして思わず苦笑いを浮かべる。
仕事柄、地味な色のスーツを着ているのは仕方ないとして、長い髪を後ろで束ねただけのヘアスタイルはまるで就活生だ。担当する個人の地主は年配者が多いため、派手な服装や髪型はご法度。身長も百六十五センチと高いほうで、かわいげも色気の『い』の字もないと自覚している。
「ところであおいさん、おうちのほうは大丈夫なんですか?」
「んっ?」
正面から尋ねられて、パッと顔を上げた。
もぐもぐと口を動かしているのは、営業の後輩である美尋だ。ショートカットの彼女は元バレー部の体育会系で、見た目に違わずはっきりした性格をしている。
美尋は優愛より三年先輩の二十八歳。全体的に仲がいい営業部でも、このふたりとは特に馬が合い、よく一緒にのみに行ったり、休日に買い物に出かけることもある。
あおいは箸を止め、口の中のものをビールでのみ下した。
「弟には連絡したよ。ご飯はやっておくからゆっくりしてきなって言ってくれて、大人になったなーって感動しちゃった」
「ええ~、素敵!」
優愛が目を輝かせて身を乗り出す。
「これはスパダリになること間違いなしですね。いくつでしたっけ?」
「二十二。大学四年生だよ」
「妹さんは受験生でした?」
と、美尋。
「うん。来年の春に大学受験だよ。早いなあ」
「先輩の弟さん、私より三つ年下か……うん、アリですね! 今度紹介してくださいよ~」
「優愛ちゃんてば、がっつきすぎ!」
美尋が口を開けて笑い、あおいも一緒になって笑った。
あおいに両親はなく、現在は歳の離れた弟妹とアパートで三人暮らしだ。弟は七歳下の大学四年生、妹は高校三年生で、現在大学受験に向けて遅くまで塾に通っている。
両親が離婚したのは、あおいが十二歳の時だった。その数年後、母を病気で早くに亡くしたため、あおいがふたりの親代わりとなったのだ。
その頃妹はまだ小学生で、あおい自身も就職したばかりだったため本当に大変だった。授業参観や運動会、合唱祭や保護者会にも参加した。仕事の都合でどうしても学校に行けなかった時には、こっそりと泣いている妹に自分も涙したことがあった。
(それが今ではすっかり大人になっちゃって……)
今では週の半分は弟が食事を作ってくれる。営業の仕事は残業が多く、すべての家事までは手が回らないなか、ふたりが協力してくれるのが本当に助かる。学費を稼ぐのは大変だけれど、かわいい弟と妹のためなら頑張れるというものだ。
「ちょっと先輩」
トイレに行くと言って席を外していた優愛が、ぱっちりした目をキラキラと輝かせて戻ってきた。
「何?」
「隣のテーブル見てくださいよ」
「隣?」
「ダメッ!」
顔を向けた途端に腕を引っぱられる。
「そんなにガッツリ見ないでください! ほら、向かって左奥にいる人、めちゃくちゃイケメンじゃないですか?」
あおいはおしぼりを取るふりをしてちらりと横目で見た。すると彼女の言う通り、びっくりするくらいのイケメンがいる。隣のテーブルはスーツ姿の男性が三人ばかり。だがその人からは、見る者すべてを惹きつけるほどのオーラがにじみ出ていた。
その男性は椅子に座っていても、ほかのふたりより頭ひとつ分抜きんでていた。艶のある黒髪と、健康的に日焼けした肌。目元は切れ長の二重で、三白眼ぎみの目力が強いタイプ。笑うと横に大きく広がる口元には、控えめなえくぼが浮かんだ。
「やば。めっちゃ腕太い。かっこいい~~!」
優愛はすっかり興奮した様子だ。なるほど、紺色のベスト姿の彼はブルーのシャツを肘まで腕まくりしており、筋肉質な腕に太い血管が浮き上がっている。肩幅が広く、胸板も厚い。
「ホントだ。あんなイケメン、この世にいるんだ」
と、美尋。
あおいの腕が優愛にがしりと掴まれた。
「ね? ね? 先輩もかっこいいと思うでしょ?」
「そ、そうだね。素敵な人だねぇ」
確かにすこぶる見目麗しい男性だとは思うけれど、あいにくそれ以上の感情はない。すでに恋を諦めた身だ。最後に恋人がいたのは四年前で、それ以来合コンにも行かず、マッチングアプリも試したことがない。この先もずっと『おひとりさま』を貫くつもりである以上、恋愛感情は抱くだけ無駄だと思ってしまう。
それなのに、以前から部長にお見合い話を持ちかけられていて、近いうちに食事でも、と言われているのだ。結婚は考えていないと何度言っても一向に取り合ってくれない。
(ああ、嫌なこと思い出しちゃった)
週明けにまた顔を合わせると思うとゾッとする。勢いに任せてビールをごくごくとあおった。
「いいのみっぷりだね」
頭上から降ってきた低い声に驚いて、あおいは目を開けた。その瞬間、視界に飛び込んできた端正な顔にむせてしまう。
「大丈夫?」
目を白黒させて胸を叩くあおいのもとに、新しいおしぼりが差し出された。声をかけてきたのは例のイケメンだった。隣と向かいの席から、「キャー」という黄色い声があがる。
「あ、ありがとうございます」
動揺するあまり、素っ気なく言っておしぼりを受け取った。普段話す男性は年配の地主や銀行マン、社内の人のどれかだから妙にドギマギする。しかもこんなみっともないところを見られるなんて……
ふ、と男の口がさらに横に広がった。男性的な口元にえくぼが浮かび、思いがけずドキッとする。
(あ、やっぱりかっこいいかも)
「泡、ついてるよ」
「えっ?」
慌てて手の甲で拭うと、男がくすくすと笑い声を立てた。彼がただ笑っただけで、その場がドラマのワンシーンみたいに見える。
(は? なにこれ、モデルか俳優?)
こんなにスーツが似合う男性を見たのは初めてだ。スーツのベスト姿というのもポイントが高い。
男が目の前のテーブルに手を突き、腕に走る太い血管がより浮き上がった。
「俺たち三人、男ばかりなんだけど、よかったら一緒にのまない?」
「えっ……一緒に、ですか?」
愛想よく言われて隣のテーブルを見ると、同じくスーツ姿の男性ふたりがこちらに熱い視線を送っている。手前にいるあおいをスルーして、彼らが見ているのは優愛だ。これはいつものお決まりのパターン。
(ははあ、ナンパか)
優愛はかわいいから、一緒に街を歩いていると彼女目当てで誘いがかかることがよくあるのだ。
きっとこのイケメン男性も同じだろう。あおいに声をかけてきたのは、この中で一番年長者だからに過ぎない。
「ダメかな?」
再度請われて優愛と美尋を見ると、ふたりとも懇願するような顔つきでアイコンタクトを送っている。あおいは苦笑いを浮かべた。
「ダメ……じゃなさそうですね」
「ありがとう。じゃあテーブルくっつけようか」
男性グループが立ち上がり、テーブル同士をくっつけてひとつにした。彼らと店主が視線でやりとりしているところを見るに、どうやらあおいたちと同じく常連らしい。
「それじゃ、新しい出会いに」
「かんぱーい!」
声をかけてきた男性の音頭で、会は仕切り直しとなった。まだ向こうも店に入ったばかりだったらしく、頼んだ料理が次々に運ばれてくる。目の前には、サラダ、焼き鳥、アヒージョ、グラタン、スティック春巻きと、様々な国籍の料理がずらりと並ぶ。
「今日はなんの集まりなの?」
「先輩のお祝いなんです~」
イケメンの同僚らしき男性と優愛が話している。イケメンがこちらを見た。
「へえ、君、今日が誕生日?」
「いいえ、そういうわけじゃありません」
あおいはそう答えて、回ってきたメニューに目を這わせる。はじめに頼んだビールはもうのみ干してしまった。次は日本酒にしようか。
「皆さん、何かのみますか?」
ぐるりと見回すと、額を寄せ合ってメニューを見ていた面々がパッと顔を上げる。
「俺、梅酒ロックで」
「私も!」
「自分はハイボールお願いします」
割合におとなしかったテーブルが、一気に賑やかになった。あたかも最初からこういう集まりだったかのよう。社交的なのは優愛や美尋だけでなく、男性チームのほうもらしい。
合計六人の大所帯になり、男女が隣同士になるように三対三で座った。端の席に座ったあおいの隣は二十代半ばくらいの茶髪の男性。向かい側の真ん中には優愛がいて、彼女の左隣、あおいの正面には例のイケメンが座っている。ほかのふたりよりも歳が近そうで、一番話しやすく感じた。
「皆さん同じ会社の方たちなんですか?」
あおいが尋ねると、イケメンが頷く。
「会社の同僚だよ。俺は槙島蒼也。もうすぐ三十二歳です」
「ええ~、蒼也さん若く見えますね! 私は咲良優愛です。『優愛』って呼んでくださいね」
蒼也のほうに身体まで向けて目をキラキラと輝かせる優愛を見て、あおいは思わず頬を緩めた。
彼女の『私が一番かわいいアピール』を嫌う人もいるが、あおいはこの潔さを買っているのだ。
「優愛ちゃんか。かわいらしい名前だね」
「そうですかぁ? 蒼也さんも素敵な名前ですよ」
「そうか? 初めて言われたけど」
ふたりのあいだ――だけ――で進むやりとりを、あおいはあたたかい気持ちで見守った。
合コン相手のうち、もっとも見た目のいい男性と優愛がいい雰囲気になる――これもいつものお約束。それに甘えん坊の彼女には、ずっと年上の人が合う。
(いいね、いいね。このままくっついてもいいのよ)
にこにこと笑みを浮かべつつ、運ばれてきた日本酒をちびりと啜る。喉を滑り降りる熱と、鼻に抜ける華やかな香りが堪らない。
グラスを傾けつつ蒼也の様子を窺ってみたが、彼はなかなかの好人物のようだ。この時間になってもパリッとしていて疲れた様子はない。顔はテカッていないし、歯も白く、爪は短くカットされている。
『いつかお見合いおばさんになるのが夢』
普段から、あおいはそう公言して憚らなかった。恋をした時のときめきは嫌いじゃないけれど、嫉妬やヤキモキする気持ちには疲れてしまう。きっと恋愛に向いていないのだ。それなら他人の恋を応援するほうがずっと楽。
「もう日本酒いってるんだ。イケるクチだね」
蒼也がテーブルの上で腕組みをしてこちらに身を乗り出している。
「君の名前は?」
「須崎あおいです」
「あおいさんね。お酒好きなの?」
「好きですねぇ。槙島さんも好きそうですよね」
あおいは視線で蒼也の手元を示した。彼の手にはウイスキーのロックグラスがあり、そろそろ中身が尽きようとしている。テーブルをつけた時にはお通ししかなかったから、本当に入店してきたばかりだったのだろう。それでウイスキーをロックでいくのは、のめる証拠だ。
蒼也は怜悧な目を細めて、ニッと笑った。
「今日はウイスキーの気分だったけど、日本酒も好きだよ。この前出張先でのんだ酒がうまかったなあ。『豊賽』っていうんだけど、知ってる?」
「あ、なんか聞いたことあるかも。新潟の大吟醸じゃないですか?」
「そうそう! さすが詳しいな」
わーっと手を叩いて盛り上がっていると、優愛が蒼也にもたれかかって巻き髪をこすりつけた。
「先輩ばっかり喋ってずる~い。いいなあ、私もお酒いっぱいのめたらいいのに」
「優愛ちゃんはかわいいからのめなくていいの。いちごソーダ、おかわりする?」
あおいが首を傾げて尋ねると、優愛が「う~ん」と同じポーズをした。
「でも、そんなにのんだら酔っぱらっちゃうかも~」
「酔っぱらっていいよ。俺が送っていくから!」
調子よくオオカミ役を買って出たのは、あおいの隣の席の茶髪の男性だ。いちごソーダのグラスを手にした優愛の目は、ちらちらと蒼也を見ている。
「ええ~、ホントに? でも、送ってくれるなら蒼也さんがいいかも~」
「マジかよ~つれねえ」
ガクッとうなだれる男性を見て、蒼也がクックッと笑う。
「お前な、のめない子に無理やりのませるのはよくないぞ。ここはのめる者同士の一騎打ちといこう。な?」
蒼也の形のいい目があおいを捉えた。箸で摘まんでいた春巻きを落としそうになり、慌てて左手で受け止める。
「はい? え? 私?」
「そう。あおいさん、俺とのみ比べしない? でないと、かわいい後輩ちゃんが獰猛なオオカミたちの餌食になるかもな」
(なんて?)
にやりと意地の悪い目で見下ろされた途端、あおいの闘争心に火がついた。後輩の貞操を盾に勝負をしかけるなんて卑怯ではないのか。
しかし、これがまさしく飛んで火にいる夏の虫。これまでにも、あおいがイケるクチだと見た同僚や上司の誘いを何度か受けたことがあるが、のみ比べで負けたことは一度もない。
あおいは、すっくと立ちあがった。
「その戦い、受けて立とうじゃありませんか」
ふんふんと鼻息荒くスーツの上着を脱ぎ捨てる。周りのメンバーからは、やんややんやと囃し立てる声が。
蒼也が楽しそうに笑った。
「いいね、その気っ風のよさ。君が得意な酒でいいから」
「それじゃあ日本酒で」
「了解」
あおいが選んだ酒を、彼の後輩がふたつ注文した。ふたりともいい大人だから、バカみたいなのみ方はしない。一杯ずつ、特に時間制限を設けずに、最終的に空けたグラスの数で競おうと決めた。
優愛の采配で握手を交わす。
「それじゃあいいですかぁ? よーい、スタート!」
蒼也と目で合図を交わし、あおいはグラスを啜った。中身はぬる燗だ。蒼也は冷やで。この店の日本酒は少し辛口ですっきりとのみやすく、塩辛などの塩分の高いつまみをアテにグイグイいけてしまうから危ないのだ。
「あおいさん、ググっといっちゃってください!」
「ダメダメ、美尋ちゃん。ペース守らないと意外とのめないんだよ」
「そうだよ。ほら、みんなも見てないで。食べて飲んで、バーッと騒ごう」
蒼也に促されたメンバーは、それぞれ楽しそうに酒をのみだした。それでいてあおいと蒼也もサシのみになることはなく、ちょこちょこと会話に加わる。
男性たちから『部長』と呼ばれているところを見ると、蒼也はふたりの上司のようだ。この若さで部長だなんて、あまり規模の大きくない会社なのだろうか。
「ここの砂肝うまいよ。ここに来るといつもこれ頼むんだ」
蒼也が差し出した皿の砂肝を、あおいはパクッと頬張る。
「ほんとだ、おいしい。槙島さんの会社はこの近くなんですか?」
「そうだよ。君のところも?」
「ですね。だからこの店へはよく来ます」
「名刺交換は……しなくていいな」
スーツのポケットに手をやりかけて止めた蒼也に、あおいはウンウンと頷く。
「そういうの持ち込みたくないですよね」
「同感。君とは気が合いそうだ」
彼は意味深に目を細めたが、おそらく社交辞令だろう。会う女性みんなに使う営業トークで、ボクシングのジャブみたいなもの。
相手に合わせて社交辞令で返すのは、ビジネスにおける基本中の基本だ。そこに本心は必要なく、相手もそれとわかっていて合わせてくれる。営業の仕事は日々化かしあいで、あおいは互いをタヌキと思っているくらいだ。
ちょっと小首を傾げつつ、あおいは上目遣いに彼の目を見た。
「私も槙島さんとは気が合いそうだと思いました。年齢も近いですし」
「それは光栄の至りだな。――すいませーん、冷やでお代わり」
かしこまりました、と厨房で声がする。
「ぬる燗もお願いしまーす!」
あおいも手を挙げて声を張った。
「さすが速いね。大丈夫?」
蒼也はからかうような口ぶりだ。腹の中では感心しているのか、驚いているのか。それとも引いているのか……微妙な表情だ。
「全然ですよ。槙島さんもでしょう?」
「俺も全然。蒼也でいいよ」
「わかりました。蒼也さんと呼ばせていただきます」
にやりと唇の端を上げた彼の口元にえくぼが浮かぶ。それがなんとも魅力的で、これは本当にモテるだろうな、と感心する。
「明日になっても、俺の名前忘れないでよ」
「大丈夫です。酔っぱらってもイケメンは忘れませんから」
その後も化かしあいの応酬をしつつ、あおいは順調に杯を重ねていった。途中からグラスではなく一升瓶に切り替え、ふたりとも手酌でのみ進める。カウントしているのは下戸の優愛だ。
一般人からすると相当速いペースだろうけれど、あおいにしてみればこれが普通だった。これまでの対戦相手は四杯目あたりから徐々にペースが落ちていったが、蒼也は見事に食らいついている。
優愛の手元をちらりと見たところ、ナプキンに書かれた正の字の数は、あおいが六、蒼也が五。
(なかなかやるじゃない)
でも、悪いけれど負ける気がしない。あおいはひと晩で一升半空けたこともある猛者だ。
男性では時々いるけれど、女性でそこまでのめる人は滅多にいないと聞く。
酒の強さもさることながら、これまで蒼也と話していて感じるのは、徹底的に『手慣れている』ということだった。
相手の素性を聞かないし、自分も聞かれたこと以外は答えない。『年齢が近い』とあおいが言ってもつられなかった。
女性に年齢を尋ねるのは失礼と言いつつも、相手側から振られたら普通はそれとなく尋ねるものだ。そこから共通の話題で盛り上げて距離を縮め、あわよくば、という流れが定石である。
あおいのことがまったく眼中にないか、純粋に今を楽しもうとしているだけなのか。恋愛はしたくないと言いつつ、後者であってほしいと願うのはわがままだろうか。
ほぼ互角かと思われた戦いは、勝負が始まってから二時間が経つ頃、唐突に終わりを迎えた。蒼也が『参った』と言ったのだ。
「あ~、勝てると思ったんだけどなあ。強すぎるだろ」
彼は両手で頭を抱えて天を仰いでいる。本当に悔しそうだ。顔色はまったく変わっていないけれど、少しだけ呂律がおかしいような気もする。
「それでは、あおい先輩の契約を祝って、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
女性三人の黄色い声に続き、カチンとグラスの触れ合う音が店内に響く。
ここは都心のオフィス街の裏通りにある、落ち着いた雰囲気の居酒屋だ。天井から吊るされた白熱球のほのかな明かりに、木目の腰壁、ダウンライトの降り注ぐバーカウンターと、どこをとってもおしゃれのひと言に尽きる。料理もアヒージョやタコス、肉料理と種類も豊富なため、こぢんまりした店内は若い人たちでいつも賑わっていた。
須崎あおいが勤めるフジチョウ建設は、ここから道一本隔てた国道沿いにビルを構えている。従業員数は千人ほどで、取締役は皆同じ姓。いわゆる同族経営の不動産建設会社だ。
短大卒業を機に入社したあおいも、来年の春には早くも勤続丸十年を迎える。三十路を目前に控えた現在は、資産運用部第二営業課の主任として邁進する日々だ。
「先輩、無事契約にこぎつけてよかったですね~!」
「まだ気が早いよ。契約するなんてひと言も言われてないのに」
隣の席でキャッキャと喜ぶ後輩の咲良優愛に、あおいは苦笑いを浮かべた。
「でも、それまでは見積りすら出させてもらえなかったんだから、あとひと押しってことじゃないですか?」
いやいや、と向かいに座る同じく後輩の村本美尋が手を振る。
「違うんだなあ、優愛ちゃん。ここから先が長いんだって。しかも山田さんといったら大地主だもん。いろんな業者が足繁く通ってるんだよ」
「もう、そんなこと知ってますよ~。せっかく喜んでるのに水を差すなんて、美尋さんひど~い」
プンスカと頬を膨らませる優愛の肩をあおいは優しく叩いた。
「大丈夫大丈夫、気にしないで。ほら、せっかくのお酒なんだから楽しくのもう! はい、かんぱーい!」
手にしたビールのグラスを掲げてから、クーッとあおる。
ごくごくとのみ干すと、喉を駆け抜ける苦い泡がなんとも心地いい。やはりアルコールは最高だ。酒を覚えた二十歳の頃から種類を問わずいけるクチで、平日でも夕食前に必ず晩酌をする。最後に休肝日を設けたのはいつだっけ? と首を捻るほどだ。
今日この店にやってきたのは優愛の提案によるものだった。美尋の言う通り、まだ契約にこぎつけるかどうかも定かではないが、あおいにとってみれば酒をのめるというだけでラッキーなのだ。何より優愛の気持ちが嬉しい。これで経費で落ちればなおいいのだが、部署の一部のメンバーだけの集まりではそういうわけにもいかないだろう。
料理が運ばれてきて、あおいは自ら後輩たちに取り分けた。
「はい、優愛ちゃんの分。これは美尋ちゃんのね」
「わーい、先輩ありがとうございます。おいしそう~」
箸を手に無邪気な笑みを浮かべる優愛に、あおいもつい相好を崩す。
二十五歳の彼女は見た目だけでなく、性格まであざとかわいい後輩だ。今もお通しの魚の切り身を箸の先で小さくちぎり、口に運ぶと同時に「おいしい」と頬に手を当てる。
グラスにはピンク色のいちごソーダ。ちょこまかとした動きで箸を置き、『私かわいいでしょ?』とばかりに、ちびりとグラスに口をつける。
(ま、実際にかわいいんだけど)
優愛は顔がかわいくてスタイルがいいだけでなく、いつもおしゃれに気を使っている。胸の高さまである髪を緩く巻き、今日はふわっとしたアイボリーのワンピースにもこもこのバッグといういで立ちだ。彼女はあおいと違って営業ではなく営業事務のため、服装はある程度自由が利く。この姿で彼氏がいないのは、きっと優良物件を狙っているのだろう。
(それに対して私の格好……!)
自分の姿を見下ろして思わず苦笑いを浮かべる。
仕事柄、地味な色のスーツを着ているのは仕方ないとして、長い髪を後ろで束ねただけのヘアスタイルはまるで就活生だ。担当する個人の地主は年配者が多いため、派手な服装や髪型はご法度。身長も百六十五センチと高いほうで、かわいげも色気の『い』の字もないと自覚している。
「ところであおいさん、おうちのほうは大丈夫なんですか?」
「んっ?」
正面から尋ねられて、パッと顔を上げた。
もぐもぐと口を動かしているのは、営業の後輩である美尋だ。ショートカットの彼女は元バレー部の体育会系で、見た目に違わずはっきりした性格をしている。
美尋は優愛より三年先輩の二十八歳。全体的に仲がいい営業部でも、このふたりとは特に馬が合い、よく一緒にのみに行ったり、休日に買い物に出かけることもある。
あおいは箸を止め、口の中のものをビールでのみ下した。
「弟には連絡したよ。ご飯はやっておくからゆっくりしてきなって言ってくれて、大人になったなーって感動しちゃった」
「ええ~、素敵!」
優愛が目を輝かせて身を乗り出す。
「これはスパダリになること間違いなしですね。いくつでしたっけ?」
「二十二。大学四年生だよ」
「妹さんは受験生でした?」
と、美尋。
「うん。来年の春に大学受験だよ。早いなあ」
「先輩の弟さん、私より三つ年下か……うん、アリですね! 今度紹介してくださいよ~」
「優愛ちゃんてば、がっつきすぎ!」
美尋が口を開けて笑い、あおいも一緒になって笑った。
あおいに両親はなく、現在は歳の離れた弟妹とアパートで三人暮らしだ。弟は七歳下の大学四年生、妹は高校三年生で、現在大学受験に向けて遅くまで塾に通っている。
両親が離婚したのは、あおいが十二歳の時だった。その数年後、母を病気で早くに亡くしたため、あおいがふたりの親代わりとなったのだ。
その頃妹はまだ小学生で、あおい自身も就職したばかりだったため本当に大変だった。授業参観や運動会、合唱祭や保護者会にも参加した。仕事の都合でどうしても学校に行けなかった時には、こっそりと泣いている妹に自分も涙したことがあった。
(それが今ではすっかり大人になっちゃって……)
今では週の半分は弟が食事を作ってくれる。営業の仕事は残業が多く、すべての家事までは手が回らないなか、ふたりが協力してくれるのが本当に助かる。学費を稼ぐのは大変だけれど、かわいい弟と妹のためなら頑張れるというものだ。
「ちょっと先輩」
トイレに行くと言って席を外していた優愛が、ぱっちりした目をキラキラと輝かせて戻ってきた。
「何?」
「隣のテーブル見てくださいよ」
「隣?」
「ダメッ!」
顔を向けた途端に腕を引っぱられる。
「そんなにガッツリ見ないでください! ほら、向かって左奥にいる人、めちゃくちゃイケメンじゃないですか?」
あおいはおしぼりを取るふりをしてちらりと横目で見た。すると彼女の言う通り、びっくりするくらいのイケメンがいる。隣のテーブルはスーツ姿の男性が三人ばかり。だがその人からは、見る者すべてを惹きつけるほどのオーラがにじみ出ていた。
その男性は椅子に座っていても、ほかのふたりより頭ひとつ分抜きんでていた。艶のある黒髪と、健康的に日焼けした肌。目元は切れ長の二重で、三白眼ぎみの目力が強いタイプ。笑うと横に大きく広がる口元には、控えめなえくぼが浮かんだ。
「やば。めっちゃ腕太い。かっこいい~~!」
優愛はすっかり興奮した様子だ。なるほど、紺色のベスト姿の彼はブルーのシャツを肘まで腕まくりしており、筋肉質な腕に太い血管が浮き上がっている。肩幅が広く、胸板も厚い。
「ホントだ。あんなイケメン、この世にいるんだ」
と、美尋。
あおいの腕が優愛にがしりと掴まれた。
「ね? ね? 先輩もかっこいいと思うでしょ?」
「そ、そうだね。素敵な人だねぇ」
確かにすこぶる見目麗しい男性だとは思うけれど、あいにくそれ以上の感情はない。すでに恋を諦めた身だ。最後に恋人がいたのは四年前で、それ以来合コンにも行かず、マッチングアプリも試したことがない。この先もずっと『おひとりさま』を貫くつもりである以上、恋愛感情は抱くだけ無駄だと思ってしまう。
それなのに、以前から部長にお見合い話を持ちかけられていて、近いうちに食事でも、と言われているのだ。結婚は考えていないと何度言っても一向に取り合ってくれない。
(ああ、嫌なこと思い出しちゃった)
週明けにまた顔を合わせると思うとゾッとする。勢いに任せてビールをごくごくとあおった。
「いいのみっぷりだね」
頭上から降ってきた低い声に驚いて、あおいは目を開けた。その瞬間、視界に飛び込んできた端正な顔にむせてしまう。
「大丈夫?」
目を白黒させて胸を叩くあおいのもとに、新しいおしぼりが差し出された。声をかけてきたのは例のイケメンだった。隣と向かいの席から、「キャー」という黄色い声があがる。
「あ、ありがとうございます」
動揺するあまり、素っ気なく言っておしぼりを受け取った。普段話す男性は年配の地主や銀行マン、社内の人のどれかだから妙にドギマギする。しかもこんなみっともないところを見られるなんて……
ふ、と男の口がさらに横に広がった。男性的な口元にえくぼが浮かび、思いがけずドキッとする。
(あ、やっぱりかっこいいかも)
「泡、ついてるよ」
「えっ?」
慌てて手の甲で拭うと、男がくすくすと笑い声を立てた。彼がただ笑っただけで、その場がドラマのワンシーンみたいに見える。
(は? なにこれ、モデルか俳優?)
こんなにスーツが似合う男性を見たのは初めてだ。スーツのベスト姿というのもポイントが高い。
男が目の前のテーブルに手を突き、腕に走る太い血管がより浮き上がった。
「俺たち三人、男ばかりなんだけど、よかったら一緒にのまない?」
「えっ……一緒に、ですか?」
愛想よく言われて隣のテーブルを見ると、同じくスーツ姿の男性ふたりがこちらに熱い視線を送っている。手前にいるあおいをスルーして、彼らが見ているのは優愛だ。これはいつものお決まりのパターン。
(ははあ、ナンパか)
優愛はかわいいから、一緒に街を歩いていると彼女目当てで誘いがかかることがよくあるのだ。
きっとこのイケメン男性も同じだろう。あおいに声をかけてきたのは、この中で一番年長者だからに過ぎない。
「ダメかな?」
再度請われて優愛と美尋を見ると、ふたりとも懇願するような顔つきでアイコンタクトを送っている。あおいは苦笑いを浮かべた。
「ダメ……じゃなさそうですね」
「ありがとう。じゃあテーブルくっつけようか」
男性グループが立ち上がり、テーブル同士をくっつけてひとつにした。彼らと店主が視線でやりとりしているところを見るに、どうやらあおいたちと同じく常連らしい。
「それじゃ、新しい出会いに」
「かんぱーい!」
声をかけてきた男性の音頭で、会は仕切り直しとなった。まだ向こうも店に入ったばかりだったらしく、頼んだ料理が次々に運ばれてくる。目の前には、サラダ、焼き鳥、アヒージョ、グラタン、スティック春巻きと、様々な国籍の料理がずらりと並ぶ。
「今日はなんの集まりなの?」
「先輩のお祝いなんです~」
イケメンの同僚らしき男性と優愛が話している。イケメンがこちらを見た。
「へえ、君、今日が誕生日?」
「いいえ、そういうわけじゃありません」
あおいはそう答えて、回ってきたメニューに目を這わせる。はじめに頼んだビールはもうのみ干してしまった。次は日本酒にしようか。
「皆さん、何かのみますか?」
ぐるりと見回すと、額を寄せ合ってメニューを見ていた面々がパッと顔を上げる。
「俺、梅酒ロックで」
「私も!」
「自分はハイボールお願いします」
割合におとなしかったテーブルが、一気に賑やかになった。あたかも最初からこういう集まりだったかのよう。社交的なのは優愛や美尋だけでなく、男性チームのほうもらしい。
合計六人の大所帯になり、男女が隣同士になるように三対三で座った。端の席に座ったあおいの隣は二十代半ばくらいの茶髪の男性。向かい側の真ん中には優愛がいて、彼女の左隣、あおいの正面には例のイケメンが座っている。ほかのふたりよりも歳が近そうで、一番話しやすく感じた。
「皆さん同じ会社の方たちなんですか?」
あおいが尋ねると、イケメンが頷く。
「会社の同僚だよ。俺は槙島蒼也。もうすぐ三十二歳です」
「ええ~、蒼也さん若く見えますね! 私は咲良優愛です。『優愛』って呼んでくださいね」
蒼也のほうに身体まで向けて目をキラキラと輝かせる優愛を見て、あおいは思わず頬を緩めた。
彼女の『私が一番かわいいアピール』を嫌う人もいるが、あおいはこの潔さを買っているのだ。
「優愛ちゃんか。かわいらしい名前だね」
「そうですかぁ? 蒼也さんも素敵な名前ですよ」
「そうか? 初めて言われたけど」
ふたりのあいだ――だけ――で進むやりとりを、あおいはあたたかい気持ちで見守った。
合コン相手のうち、もっとも見た目のいい男性と優愛がいい雰囲気になる――これもいつものお約束。それに甘えん坊の彼女には、ずっと年上の人が合う。
(いいね、いいね。このままくっついてもいいのよ)
にこにこと笑みを浮かべつつ、運ばれてきた日本酒をちびりと啜る。喉を滑り降りる熱と、鼻に抜ける華やかな香りが堪らない。
グラスを傾けつつ蒼也の様子を窺ってみたが、彼はなかなかの好人物のようだ。この時間になってもパリッとしていて疲れた様子はない。顔はテカッていないし、歯も白く、爪は短くカットされている。
『いつかお見合いおばさんになるのが夢』
普段から、あおいはそう公言して憚らなかった。恋をした時のときめきは嫌いじゃないけれど、嫉妬やヤキモキする気持ちには疲れてしまう。きっと恋愛に向いていないのだ。それなら他人の恋を応援するほうがずっと楽。
「もう日本酒いってるんだ。イケるクチだね」
蒼也がテーブルの上で腕組みをしてこちらに身を乗り出している。
「君の名前は?」
「須崎あおいです」
「あおいさんね。お酒好きなの?」
「好きですねぇ。槙島さんも好きそうですよね」
あおいは視線で蒼也の手元を示した。彼の手にはウイスキーのロックグラスがあり、そろそろ中身が尽きようとしている。テーブルをつけた時にはお通ししかなかったから、本当に入店してきたばかりだったのだろう。それでウイスキーをロックでいくのは、のめる証拠だ。
蒼也は怜悧な目を細めて、ニッと笑った。
「今日はウイスキーの気分だったけど、日本酒も好きだよ。この前出張先でのんだ酒がうまかったなあ。『豊賽』っていうんだけど、知ってる?」
「あ、なんか聞いたことあるかも。新潟の大吟醸じゃないですか?」
「そうそう! さすが詳しいな」
わーっと手を叩いて盛り上がっていると、優愛が蒼也にもたれかかって巻き髪をこすりつけた。
「先輩ばっかり喋ってずる~い。いいなあ、私もお酒いっぱいのめたらいいのに」
「優愛ちゃんはかわいいからのめなくていいの。いちごソーダ、おかわりする?」
あおいが首を傾げて尋ねると、優愛が「う~ん」と同じポーズをした。
「でも、そんなにのんだら酔っぱらっちゃうかも~」
「酔っぱらっていいよ。俺が送っていくから!」
調子よくオオカミ役を買って出たのは、あおいの隣の席の茶髪の男性だ。いちごソーダのグラスを手にした優愛の目は、ちらちらと蒼也を見ている。
「ええ~、ホントに? でも、送ってくれるなら蒼也さんがいいかも~」
「マジかよ~つれねえ」
ガクッとうなだれる男性を見て、蒼也がクックッと笑う。
「お前な、のめない子に無理やりのませるのはよくないぞ。ここはのめる者同士の一騎打ちといこう。な?」
蒼也の形のいい目があおいを捉えた。箸で摘まんでいた春巻きを落としそうになり、慌てて左手で受け止める。
「はい? え? 私?」
「そう。あおいさん、俺とのみ比べしない? でないと、かわいい後輩ちゃんが獰猛なオオカミたちの餌食になるかもな」
(なんて?)
にやりと意地の悪い目で見下ろされた途端、あおいの闘争心に火がついた。後輩の貞操を盾に勝負をしかけるなんて卑怯ではないのか。
しかし、これがまさしく飛んで火にいる夏の虫。これまでにも、あおいがイケるクチだと見た同僚や上司の誘いを何度か受けたことがあるが、のみ比べで負けたことは一度もない。
あおいは、すっくと立ちあがった。
「その戦い、受けて立とうじゃありませんか」
ふんふんと鼻息荒くスーツの上着を脱ぎ捨てる。周りのメンバーからは、やんややんやと囃し立てる声が。
蒼也が楽しそうに笑った。
「いいね、その気っ風のよさ。君が得意な酒でいいから」
「それじゃあ日本酒で」
「了解」
あおいが選んだ酒を、彼の後輩がふたつ注文した。ふたりともいい大人だから、バカみたいなのみ方はしない。一杯ずつ、特に時間制限を設けずに、最終的に空けたグラスの数で競おうと決めた。
優愛の采配で握手を交わす。
「それじゃあいいですかぁ? よーい、スタート!」
蒼也と目で合図を交わし、あおいはグラスを啜った。中身はぬる燗だ。蒼也は冷やで。この店の日本酒は少し辛口ですっきりとのみやすく、塩辛などの塩分の高いつまみをアテにグイグイいけてしまうから危ないのだ。
「あおいさん、ググっといっちゃってください!」
「ダメダメ、美尋ちゃん。ペース守らないと意外とのめないんだよ」
「そうだよ。ほら、みんなも見てないで。食べて飲んで、バーッと騒ごう」
蒼也に促されたメンバーは、それぞれ楽しそうに酒をのみだした。それでいてあおいと蒼也もサシのみになることはなく、ちょこちょこと会話に加わる。
男性たちから『部長』と呼ばれているところを見ると、蒼也はふたりの上司のようだ。この若さで部長だなんて、あまり規模の大きくない会社なのだろうか。
「ここの砂肝うまいよ。ここに来るといつもこれ頼むんだ」
蒼也が差し出した皿の砂肝を、あおいはパクッと頬張る。
「ほんとだ、おいしい。槙島さんの会社はこの近くなんですか?」
「そうだよ。君のところも?」
「ですね。だからこの店へはよく来ます」
「名刺交換は……しなくていいな」
スーツのポケットに手をやりかけて止めた蒼也に、あおいはウンウンと頷く。
「そういうの持ち込みたくないですよね」
「同感。君とは気が合いそうだ」
彼は意味深に目を細めたが、おそらく社交辞令だろう。会う女性みんなに使う営業トークで、ボクシングのジャブみたいなもの。
相手に合わせて社交辞令で返すのは、ビジネスにおける基本中の基本だ。そこに本心は必要なく、相手もそれとわかっていて合わせてくれる。営業の仕事は日々化かしあいで、あおいは互いをタヌキと思っているくらいだ。
ちょっと小首を傾げつつ、あおいは上目遣いに彼の目を見た。
「私も槙島さんとは気が合いそうだと思いました。年齢も近いですし」
「それは光栄の至りだな。――すいませーん、冷やでお代わり」
かしこまりました、と厨房で声がする。
「ぬる燗もお願いしまーす!」
あおいも手を挙げて声を張った。
「さすが速いね。大丈夫?」
蒼也はからかうような口ぶりだ。腹の中では感心しているのか、驚いているのか。それとも引いているのか……微妙な表情だ。
「全然ですよ。槙島さんもでしょう?」
「俺も全然。蒼也でいいよ」
「わかりました。蒼也さんと呼ばせていただきます」
にやりと唇の端を上げた彼の口元にえくぼが浮かぶ。それがなんとも魅力的で、これは本当にモテるだろうな、と感心する。
「明日になっても、俺の名前忘れないでよ」
「大丈夫です。酔っぱらってもイケメンは忘れませんから」
その後も化かしあいの応酬をしつつ、あおいは順調に杯を重ねていった。途中からグラスではなく一升瓶に切り替え、ふたりとも手酌でのみ進める。カウントしているのは下戸の優愛だ。
一般人からすると相当速いペースだろうけれど、あおいにしてみればこれが普通だった。これまでの対戦相手は四杯目あたりから徐々にペースが落ちていったが、蒼也は見事に食らいついている。
優愛の手元をちらりと見たところ、ナプキンに書かれた正の字の数は、あおいが六、蒼也が五。
(なかなかやるじゃない)
でも、悪いけれど負ける気がしない。あおいはひと晩で一升半空けたこともある猛者だ。
男性では時々いるけれど、女性でそこまでのめる人は滅多にいないと聞く。
酒の強さもさることながら、これまで蒼也と話していて感じるのは、徹底的に『手慣れている』ということだった。
相手の素性を聞かないし、自分も聞かれたこと以外は答えない。『年齢が近い』とあおいが言ってもつられなかった。
女性に年齢を尋ねるのは失礼と言いつつも、相手側から振られたら普通はそれとなく尋ねるものだ。そこから共通の話題で盛り上げて距離を縮め、あわよくば、という流れが定石である。
あおいのことがまったく眼中にないか、純粋に今を楽しもうとしているだけなのか。恋愛はしたくないと言いつつ、後者であってほしいと願うのはわがままだろうか。
ほぼ互角かと思われた戦いは、勝負が始まってから二時間が経つ頃、唐突に終わりを迎えた。蒼也が『参った』と言ったのだ。
「あ~、勝てると思ったんだけどなあ。強すぎるだろ」
彼は両手で頭を抱えて天を仰いでいる。本当に悔しそうだ。顔色はまったく変わっていないけれど、少しだけ呂律がおかしいような気もする。
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