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1巻
1-3
茶化してきたのは、後ろを通りかかった同期の男性だ。ちょっと傷つきながらも、あおいはヘラヘラと笑った。
「ごめんね、優愛ちゃん。あとでおいしいものご馳走するから。ね?」
「ホントですか~?」
優愛がハンカチの上から上目遣いに見る。
「お前がちゃんと守ってやれよ」
「だよね」
さっきの同期がまだそこにいたらしい。追い打ちで煽ってくるあたり、さすが同期なだけに遠慮がない。
あおいは優愛の肩に優しく手をかけた。
「今度は私がチェックするから、遠慮なく持ってきて」
「でも、それじゃ先輩の仕事が」
「それくらいの余裕はあるから大丈夫。もっと頼っていいんだよ」
すると、優愛がニコッとかわいらしい笑みを浮かべる。
「わかりました。これからもよろしくお願いします、先輩!」
後輩の朗らかな笑みにほだされて、あおいもついデレデレと頬を緩めた。年下の甘えに弱いのは昔から。こんなだから、真面目な課長から時々怒られてしまうのだ。
「さーて。仕事、仕事」
回収したハンカチをポケットにしまい、プリントアウトの作業を再開する。これをホチキスとテープで製本してプレゼンに使うのだ。
本当は自分もこんなふうに守られてみたいが、さすがにこの歳になったら甘えは許されない。なんなら新入社員の頃から『しっかりしてるね』『強いから大丈夫だよね』と言われてきて、庇われたことなんて一度もなかった。
うーん、これが女子力の違いというやつか……
(まーいっか、お仕事頑張るぞ!)
「なるほどね。商業ビルはいくつか持ってるから、こういう複合施設みたいなのも面白そうだなあ」
地主の山田氏はそう言って、革張りのソファに身を預けた。山田氏は還暦を迎えたばかりだというが、髪はフサフサ、小柄だが腹も出ておらず若々しい。
ここは都内某所にある山田邸の応接間である。間口の広い土塀の中央にある門をくぐり、広い庭の奥に位置する立派な建物が、この屋敷の母屋だ。
都内にしては広すぎるくらいの敷地には、趣のある離れや茶室がある。つい先ほどは趣味の陶芸部屋を見せてもらい、本格的な窯やろくろに驚いたものだ。
この屋敷に来るのは楽しいけれど、同時に緊張もする。あおいはソファの上で脚をぴったりと閉じ、両手を膝の上で重ねて首を垂れた。
「ご興味を持っていただいて嬉しいです」
はは、と山田氏が苦笑いを浮かべて顎をかく。
「いやね、実を言うとほかのビルのテナントが空いちゃって、なかなか決まらないんだよ。この土地もねぇ、遊ばせてるくらいなら何かに利用したいけど、これ以上リスクは負いたくないじゃない」
「それは当然のことです。その点、スーパーは地域に根差した施設ですし、山田様のお土地の周りには現在、競合する大規模な商業施設はありません。こちらのご提案ではサブリース方式で建築費もかかりませんし、毎月決まった額が入金されますのでリスクも少ないと思います」
へえ、と目を輝かせた山田氏が前傾姿勢になる。
「お宅の会社で借り上げてくれるの?」
「当社にはリース専門の部門がございます。こちらの資料をご覧ください」
お茶を横にずらして、持参したプレゼン資料を広げる。タブレットも立ち上げ、あらかじめキープしておいたウェブ上の参考になりそうなサイトも開いた。
「山田様は、事業用定期借地権についてはご存知ですか?」
「ああ、知り合いが公共の土地の上に建てたマンションに住んでるよ」
「その民間版といったところです。オーナー様が所有されている土地を当社のリース部門が借り上げまして……」
サブリースとは、貸主が所有している物件をリース会社が一括で借り上げて、借主に又貸しすることだ。複合施設や大規模な商業ビルはこのタイプが多く、土地を借り上げた会社が建築も管理も行う。
貸主と借主の相対の契約では、空室となった際には家賃が入ってこなくなるが、サブリースであればテナントが空いてもリース会社から毎月一定の家賃が入金される。契約金や建築費が莫大な額となるため、リース会社は大手不動産会社の子会社であることが多い。
あおいはタブレットの画面を山田氏のほうへ向け、手で指し示した。
「事業用定期借地権は、このように十年から五十年とご希望に合わせて期間を設定することができます」
「それは助かるな。今は時代の移り変わりが速いから、ずっと同じものって飽きられちゃうでしょう? それに、ゆくゆくは息子に全部任せたいから、長くないのもいい」
あおいは両手を合わせて山田氏に笑みを向けた。
「息子さんが跡を継いでくださるんですか? それは安心ですね!」
「そうだね。わが息子ながらなかなかいい男に育ったよ」
山田氏はそう言って相好を崩す。
彼の息子は確かあおいと同い歳で、大手企業のサラリーマンをしていたはずだ。あおいが入社三年目で山田氏の担当を引き継いですぐにそこまで聞き出せたことに、先輩が感心していたのを思い出す。
新入社員の頃、個人営業の基本はとにかく話を聞き、情報をできるだけ引き出すことだと教えられた。魅力的な土地を持っている地主には、いくつもの業者が出入りしているものだ。その中であおいはおそらくヒヨッコ中のヒヨッコだろうから、いかに聞いて、話して、顧客の思いの核心に近づけるか。それを目標にしている。
「それでは、概算の見積書ができましたらまたお伺いいたします。週明けにアポイントの電話を入れさせていただきますので」
「ありがとう。今日の資料、よく読んでおくから」
「こちらこそ、お時間を割いていただきありがとうございました」
あおいは玄関先で深く腰を折り、訪問から一時間半ほどで山田邸をあとにした。
門へ向かってゆっくり庭を歩きながら、ほーっとため息をつく。緊張から解放されたのと興奮のせいで、脚が少し震えている。
(でも、手応えはバッチリだな)
契約に結びつくかどうかは別として、ここまで具体的な話ができたのは初めてだ。あおいの提案に山田氏も興味を持ったようだったし、これはもしかすると、もしかするかもしれない。
ニヤニヤ笑いを顔に張りつけて、芝生を踏まないように飛び石の上を慎重に歩く。
そのせいだろう。正面から歩いてくる人に気づかなかったのは。
「ずいぶんと上機嫌だな」
(はい?)
びっくりして足を止め、顔を上げた瞬間にあんぐりと口が開いた。
「あーっ!」
目の前に立っているのは、つい先日酔ったはずみでベッドをともにしたお相手、槙島蒼也だった。先日とは違うダークカラーのスーツにシルバーのネクタイ、きっちりとセットした黒髪からデキる男の匂いが芬々と漂っている。
あおいの態度が面白かったのか、彼はプッと噴き出して口元を押さえた。
「あっ、あっ、ああの……こ、こんにちは」
噛んだ。思い切り噛んだ。でも、カーッと頬が熱くなったのは噛んだせいじゃない。
(ちょっ……なんで赤くなんのよ!)
三十歳手前にもなって、たかがセックスした相手に赤面するなんて恥ずかしい。
「君も山田さんのところに来てたんだ。フジチョウ建設の須崎あおいさん」
「は……? え? なんで私の会社を知ってるんですか?」
ん? と蒼也が怪訝そうに眉を寄せる。
「この前、君が教えてくれたんだろう」
「私がですか?」
あおいは首を捻ったが一秒後には思い出した。あの日のことを何も覚えていないことを思い出したのだ。
気まずい思いでバッグの中に手を突っ込む。
「先日は失礼しました。お金、お支払いしますので」
「おいおい。こんなところで出すなよ」
蒼也に手を掴まれたあおいは、財布を掴みかけた手を引っ込めた。確かに客先の敷地内でこんなことをするのはいかがなものか。
苦い顔をした蒼也がため息をつく。
「いらないって言ったのに。どうしても気が済まないようだな」
「当たり前です」
「結構。でもおかげでまた会う口実ができたよ」
口元にうっすらと笑みを浮かべつつ、彼はポケットから取り出した名刺の裏に走り書きをする。渡された名刺を見て、あおいは目を丸くした。
「日創地所!? 蒼也さん、日創地所にお勤めだったんですか?」
「そうだけど。これも話したよな?」
「ええと」
何も覚えていないと言ったらさすがに怒るだろうか。でも、酒の席でのことだし、いくらあおいが酒豪とはいえ、記憶をなくすまで酔っていたら傍目にもそれとわかるはずだ。
一歩距離を詰めてきた蒼也が、訝るように目を細める。
「もしかして覚えてない? ホテルでのことも?」
「う……」
大柄な彼の胸が目の前に迫り、あおいはうろたえた。女性では背の高い部類に入るあおいでも、彼とは大人と子供くらいの身長差がある。
「お、覚えてますよ。もちろん」
本日二度目の嘘。もちろん蒼也の顔は見られない。
「本当か?」
「ほ、本当……だと思います」
かえって怪しくなってしまった。蒼也はすっかり呆れ顔だ。
「あんなに何度もイッたくせに……」
「え?」
「いや、なんでもない。君の名刺をもらえる?」
「ああ、そうですね。大変失礼いたしました」
急いでスーツのポケットから名刺入れを取り出し、彼の前に両手で差し出す。
「フジチョウ建設の須崎あおいと申します」
「これはどうもご丁寧に……とでも言うと思った?」
「は、はい?」
怒っているのかと思って顔を上げると、男性にしては血色のいい唇が横に広がっている。彼はトントンとあおいが手にしたままの名刺を指先で叩いた。
「やり直し。君の番号が書かれていない」
「ええ……」
そう言われて先ほど渡された名刺の裏を見てみると、携帯電話の番号が書かれている。今どき古風なやり方だ。仕方なくあおいもペンを取り出して、番号を書き足した。
蒼也は受け取った名刺を一瞥し、素早く胸ポケットにしまい込む。
「今夜会える? 仕事が終わったら連絡するから」
「今夜ですか? そんな急にはちょっと……」
「お金、返したいんだろう?」
ニヤッと不敵な笑みを浮かべる蒼也に、あおいは一瞬ムッとした。しかし怒りを保ち続けるには、彼の顔はあまりに整いすぎている。気づけば釘付けになっていて、断りの文句ひとつ浮かばない。
まごまごしているうちに蒼也がサッと身を翻した。
「このあいだの晩、すごくよかったよ」
(んなっ!?)
すれ違いざまに耳元で囁かれ、勢いよく振り返る。
飛び石の上を颯爽と歩く蒼也が、前を向いたままひらひらと手を振った。そんな気障な仕草はドラマでしか見たことがなかったが、彼がやると様になるのが癪に障る。
その後ろ姿にしばらく見とれるあおいだったが、ハッと気づいて慌てて踵を返した。
彼が振り返りでもしたら大変だ。パンプスの踵を強く鳴らしながら門へ向かう。
「『よかったよ』とか、普通言う……?」
ブツブツと小声で呟き、最後にもう一度振り返ったが、蒼也の姿はもう見えなかった。
門の外に出たところで、土塀にもたれて片手で目元を覆う。
(私、あのイケメンにショーツまで畳まれちゃったんだ……)
そこかーい! と心の中でツッコみつつ、魂まで抜けそうなため息をつく。
蒼也に再会したことで、泣きたくなるほどの羞恥心が今さらのように押し寄せてきた。ワンナイトの相手がライバル会社の人だったなんて、どんな冗談だろう。会社もすぐ近くだし、これからも営業先で出くわすたびに後ろめたい気持ちになりそうだ。
でも、こうしていても仕方がないと、あおいは気を取り直して駅に向かって歩きはじめた。
(それにしても、どうして私だけが何も覚えてないかなあ)
これからテキーラには気をつけよう。そして気をつけることがもうひとつある。
もし蒼也に誘われても、絶対にのみすぎないこと。
あの晩のみ比べをした時の彼は、絶対に手加減していたに違いないからだ。
会社に戻ったあおいは、やるべき業務を淡々とこなし続けた。山田氏から聞いた既存の物件の不満点や資産運用上の悩み、家族の考えを顧客リストに書き込んだり、別の顧客の参考になりそうな資料を集めたりして。ちょっとでも気を抜くと蒼也の顔が頭にチラつくため、頭と手を忙しく動かす。
現在あおいが追っている熱い客は、山田氏のほかにふたりいる。
「えーと、佐久間さんの案件が今週中にプラン変更した見積りを再提出でしょう? それと、上川さんが月末にクロージング予定と……」
スマホのスケジュールアプリを開き、ほかに進行中の客との予定をすり合わせる。この先も日中は外出で忙しく、残業が続くだろう。
あおいもたまにはやる気をなくす時期があるが、それはずっとターボを利かせた状態で働き続けた時だ。ノルマは来月も再来月も、ずっと続く。がむしゃらになりすぎるとある日突然電池が切れるため、残業が続いたあとは定時上がりの日を二日続けて取るようにしている。これは営業の先輩が教えてくれたことだ。
そこでふと、蒼也のことが頭に浮かんだ。日創地所といえば、業界トップをひた走る不動産デベロッパーだ。いわゆる財閥系で、グループにはゼネコンや仲介、管理会社などあらゆる不動産関連の企業をもっている。ほかにも銀行、保険会社、商社や百貨店、製薬に食品メーカーと、関連企業を挙げたらきりがない。
机に頬杖をつき、蒼也からもらった名刺を眺めた。
(日創地所か……すごいところの部長さんなんだなあ)
日創地所はここから駅に向かう途中の道沿いにあるが、あおいがたっぷり残業して帰った日でも、いつも明かりがついている。きっと抱えている案件の数もノルマも段違いなのだろう。日創地所は不動産開発に特化した会社なのに、いろいろな部門を抱えるフジチョウ建設の五倍も売り上げがある。
「せ~んぱい」
「ひゃあっ!」
唐突に後ろから肩を叩かれて、椅子から飛び上がるほど驚いた。声をかけてきたのは優愛だ。蒼也の名刺を急いで書類の下に隠す。
「もう、どうしたんですか? そんなに驚いて」
「なんでもないよ。ちょっとボーッとしてただけ」
「だったら一緒に帰りましょうよ」
優愛はリップでツヤツヤと光る唇を尖らせた。壁にかけられた時計に目をやると、いつの間にか午後七時半を回っている。あおいは顔の前で両手を合わせた。
「ごめん! 今日中にやっておきたいことがあるから、また今度ね」
優愛の滑らかそうな頬が、ぷうっと膨らんだ。
「え~、蒼也さんとのこと話したかったのにぃ。先輩、あんまり無理しちゃダメですよ」
「ありがとう。お疲れ様」
「お疲れ様でしたぁ」
巻き髪を揺らしながら優愛が行ってしまうと、あおいはフーッと息を吐いた。気づけばフロアの半分ほどがすでに退社している。あおいも帰れなくはないのだが、今日はなんとなく仕事をしたい気分だ。
スマホのメッセージアプリを開く。
〈ごめん。残業で遅くなるから冷蔵庫にあるもので食べて〉
すぐに既読がつき、弟の漣から『了解!』と書かれたスタンプが送られてきた。
普段から残業が多い仕事のため、冷蔵庫にはいろいろと作り置きを常備してあるのだ。味噌汁くらいなら漣が作ってくれるから助かる。
安心して仕事に戻ると、ほどなくしてスマホが鳴った。画面に表示されたのは登録していない番号だ。蒼也の名刺を裏返してみると、同じ番号が男性的な筆致で書かれている。
少しドキドキしながら通話ボタンをタップした。
「須崎です。お疲れ様です」
――お疲れ様。昼間はどうも。まだ会社にいる?
「おりますが……今日は忙しいのでちょっと難しそうです」
――相変わらず手厳しいな。
スマホの向こうでクスクスと笑う声。あおいは目元を手で押さえた。悔しいことに声までいい。
――じゃ、終わったら電話してよ。待ってるから。
(いやいやいや)
通話口を覆って声を落とす。
「待たれても困りますって……! 遅くなったらご迷惑をかけますし」
――俺もやることたくさんあるから問題ない。じゃ、あとで。
「えっ、ちょっ――あれ?」
それまで聞こえていた周囲の雑音が消えてスマホを見る。画面には『通話終了』の文字が。
(強引だなー……)
机の上にスマホを置き、頭の後ろで手を組んで椅子の背もたれに寄りかかった。
地味が服を着て歩いているようなあおいでも、この年齢になるまでにはそれなりに出会いもあった。学生時代に初めて彼氏と呼べる人ができてから、これまでに正式に付き合った男性はふたり。合コンや友人の紹介で知り合った人もいたけれど、あんなに見た目がよく、こんなにぐいぐい迫ってくる人は初めてだ。
(でも、なんで私に構うんだろう)
はじめて彼と会った日には優愛もいたし、三人の中ではあおいが一番年上だった。かわいい盛りは通り越していると自覚もしている。そもそも、蒼也みたいな男が女に困っているはずがないのだ。
(もしかして、一番ヤれそうに見えたのかな)
仮にそうだったとしても、彼ほどの男なら抱かれたい相手などほかにいくらでもいるだろう。からかわれてる? そんなに暇とは思えないが。
自分で決めたところまではやってしまおう、と資料を探しつつデータやプランシートを作成する。
カチャカチャとパソコンのキーを叩く音だけがフロアに響いた。ひとり、またひとりとフロアから人が消え、気づけばひとりきり。明かりもだいぶ落とされていて少し不安になる。
壁にかけられた時計の針は九時四十五分を差していた。ピタッと止めた両手を膝の上に置く。
考えてみたら、別に今日やらなくてもいい仕事ばかりだ。月曜からこんなに頑張る必要なんてないのに、何をこんなにムキになっているのだろう。
「帰るか……」
急にやる気がなくなって帰り支度を始めた。空腹に耐えかねたというのもある。
フロアの戸締りをして裏口からビルの外に出た。今夜は風が冷たくて、そろそろ冬のコートを出さなければ、と考える。
トレンチコートの前を握りしめながら表通りへ向かうと、歩道の街路樹の脇に大柄な男が立っているのが見えた。人目を惹く端正な顔立ちが、スマホの光に照らされて青白く光っている。
(あれはまさか……)
電話をもらってから二時間以上は経っているから、とっくに帰ったと思っていた。しかし近づいてみればみるほど、蒼也にしか見えない。
「あのー……?」
あおいの声に気づいたのか、男が顔を上げた。やはり蒼也だ。まさか本当に待っていたなんて。
「お疲れ様」
蒼也がスマホをコートのポケットにしまって顔を綻ばせた。あおいは前髪を気にしながら彼に近づく。
「お疲れ様です。もしかしてずっと待ってたんですか?」
「そんな暇人に見える?」
「暇だなんて……だって、こんなにタイミングよく来られるなんてエスパーじゃないですか」
クスッと彼が笑った瞬間、白い歯が零れた。女殺しの笑顔――そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
「そういうことにしておこう。行ける?」
「ま、まあ……」
待ち伏せされていたのでは仕方がない。
大きな手を差し出されて、あおいは渋々ながら握った。すっかり冷たくなった彼の手が、やはり長いことここに立っていたのだと知らせてくる。
(嘘ばっかり)
思わず頬が緩んでしまい、パンプスの爪先を見た。さすがに二時間ずっと待っていたなんてことはないだろう。それでも彼みたいな男が、脈なしの地味な女のために自分の時間を使うことが信じられない。
「行きたいところがあるんだ。ここからすぐだから」
道路脇で蒼也が手を挙げてタクシーを拾った。後部座席に並んで座り、言葉通り五分ほど走ったところで降りる。
(え? ここって……)
蒼也が支払いを済ませているあいだ、あおいは幹線道路沿いにそびえたつ高い建物を首が痛くなるほど見上げた。ざっと数えて二十階以上。ガラスとスチールでできた壁面には同じ大きさの窓がずらりと並んでいる。
ここはまさか――
「ホ、ホテル!?」
「……の中のルーフトップバーから見える夜景がきれいなんだ」
背後から蒼也が声をかけてきた。
(なんだ……)
ホッとした途端に自分がバカみたいに思えてくる。別に期待していたわけじゃない。なんせ彼と過ごした夜のことを、これっぽっちも覚えていないのだから。
あおいの手が大きな手に包まれた。今度はちゃんとあたたかい。
「もしかして来たことある?」
「ないない、ないですよ! ……ていうか、こんなお高そうなところ、私には払えませんよ?」
顔の前で激しく手を振るあおいが面白かったのか、蒼也の口元が綻んだ。
「もちろんおごるよ。俺が強引に誘ったんだから」
「強引だって自覚してるんですね」
「そりゃあね。困ってるのに無理言って悪かった」
「う……お誘いありがとうございます」
そう素直に謝られると調子が狂ってしまう。ちょっと態度に出しすぎたかもしれない。
「まあ社会勉強だと思って付き合ってよ。話のタネにはなるだろう?」
「おごってくれるなら文句はありません」
手を引かれるまま、ホテルにしては控えめなドアをくぐった。
ホテルといえば一般的にはきらびやかなエントランスを想像するが、ロビーは無機質で落ち着いたつくりだ。広い空間と二階まで吹き抜けた高い天井。ところどころ下がり天井になっており、照明はやや暗い。壁はアイボリーと黒を基調としたタイル張りで、床には濃いグレーの絨毯が敷き詰められている。
外観からして変わったつくりだったが、内装も普通のホテルとはかなり違う。壁の一部に組み込まれたタイルは幾何学模様と言えなくもないデザインの鋳物で、どこか近未来的だ。よく見ると照明も不思議な形をしている。
「独創的な感じのホテルですね」
エレベーターホールへ向かいつつ、あおいは言った。
うん、と蒼也がこちらを見る。
「吉岡一成がデザインしたホテルだ。一度見てみたくてね」
「おー……吉岡一成ですか。最近よく聞きますね」
「そうだな。うちの会社とも取引があるんだけど、まだ若い人だよ」
「へえ」
あおい自身も勉強のために、名だたる建築士がデザインした物件を見て回ることがある。大規模商業施設、庁舎、美術館、複合施設……しかし、ホテルなどは敷居が高くてひとりでは入りにくいものだ。
(そういうところには蒼也さんと行ったらいいのでは? いやいや、商売敵だしなあ)
じーっと不思議なデザインのタイルを眺めていると手を引かれた。エレベーターが到着したらしい。
無機質な金属製の箱に乗り込み、蒼也が行き先階のボタンを押した。狭い密室にふたりきりでドキドキする。蒼也が意地悪そうな笑みを浮かべてこちらを見た。
「仕事熱心だな」
「ごめんね、優愛ちゃん。あとでおいしいものご馳走するから。ね?」
「ホントですか~?」
優愛がハンカチの上から上目遣いに見る。
「お前がちゃんと守ってやれよ」
「だよね」
さっきの同期がまだそこにいたらしい。追い打ちで煽ってくるあたり、さすが同期なだけに遠慮がない。
あおいは優愛の肩に優しく手をかけた。
「今度は私がチェックするから、遠慮なく持ってきて」
「でも、それじゃ先輩の仕事が」
「それくらいの余裕はあるから大丈夫。もっと頼っていいんだよ」
すると、優愛がニコッとかわいらしい笑みを浮かべる。
「わかりました。これからもよろしくお願いします、先輩!」
後輩の朗らかな笑みにほだされて、あおいもついデレデレと頬を緩めた。年下の甘えに弱いのは昔から。こんなだから、真面目な課長から時々怒られてしまうのだ。
「さーて。仕事、仕事」
回収したハンカチをポケットにしまい、プリントアウトの作業を再開する。これをホチキスとテープで製本してプレゼンに使うのだ。
本当は自分もこんなふうに守られてみたいが、さすがにこの歳になったら甘えは許されない。なんなら新入社員の頃から『しっかりしてるね』『強いから大丈夫だよね』と言われてきて、庇われたことなんて一度もなかった。
うーん、これが女子力の違いというやつか……
(まーいっか、お仕事頑張るぞ!)
「なるほどね。商業ビルはいくつか持ってるから、こういう複合施設みたいなのも面白そうだなあ」
地主の山田氏はそう言って、革張りのソファに身を預けた。山田氏は還暦を迎えたばかりだというが、髪はフサフサ、小柄だが腹も出ておらず若々しい。
ここは都内某所にある山田邸の応接間である。間口の広い土塀の中央にある門をくぐり、広い庭の奥に位置する立派な建物が、この屋敷の母屋だ。
都内にしては広すぎるくらいの敷地には、趣のある離れや茶室がある。つい先ほどは趣味の陶芸部屋を見せてもらい、本格的な窯やろくろに驚いたものだ。
この屋敷に来るのは楽しいけれど、同時に緊張もする。あおいはソファの上で脚をぴったりと閉じ、両手を膝の上で重ねて首を垂れた。
「ご興味を持っていただいて嬉しいです」
はは、と山田氏が苦笑いを浮かべて顎をかく。
「いやね、実を言うとほかのビルのテナントが空いちゃって、なかなか決まらないんだよ。この土地もねぇ、遊ばせてるくらいなら何かに利用したいけど、これ以上リスクは負いたくないじゃない」
「それは当然のことです。その点、スーパーは地域に根差した施設ですし、山田様のお土地の周りには現在、競合する大規模な商業施設はありません。こちらのご提案ではサブリース方式で建築費もかかりませんし、毎月決まった額が入金されますのでリスクも少ないと思います」
へえ、と目を輝かせた山田氏が前傾姿勢になる。
「お宅の会社で借り上げてくれるの?」
「当社にはリース専門の部門がございます。こちらの資料をご覧ください」
お茶を横にずらして、持参したプレゼン資料を広げる。タブレットも立ち上げ、あらかじめキープしておいたウェブ上の参考になりそうなサイトも開いた。
「山田様は、事業用定期借地権についてはご存知ですか?」
「ああ、知り合いが公共の土地の上に建てたマンションに住んでるよ」
「その民間版といったところです。オーナー様が所有されている土地を当社のリース部門が借り上げまして……」
サブリースとは、貸主が所有している物件をリース会社が一括で借り上げて、借主に又貸しすることだ。複合施設や大規模な商業ビルはこのタイプが多く、土地を借り上げた会社が建築も管理も行う。
貸主と借主の相対の契約では、空室となった際には家賃が入ってこなくなるが、サブリースであればテナントが空いてもリース会社から毎月一定の家賃が入金される。契約金や建築費が莫大な額となるため、リース会社は大手不動産会社の子会社であることが多い。
あおいはタブレットの画面を山田氏のほうへ向け、手で指し示した。
「事業用定期借地権は、このように十年から五十年とご希望に合わせて期間を設定することができます」
「それは助かるな。今は時代の移り変わりが速いから、ずっと同じものって飽きられちゃうでしょう? それに、ゆくゆくは息子に全部任せたいから、長くないのもいい」
あおいは両手を合わせて山田氏に笑みを向けた。
「息子さんが跡を継いでくださるんですか? それは安心ですね!」
「そうだね。わが息子ながらなかなかいい男に育ったよ」
山田氏はそう言って相好を崩す。
彼の息子は確かあおいと同い歳で、大手企業のサラリーマンをしていたはずだ。あおいが入社三年目で山田氏の担当を引き継いですぐにそこまで聞き出せたことに、先輩が感心していたのを思い出す。
新入社員の頃、個人営業の基本はとにかく話を聞き、情報をできるだけ引き出すことだと教えられた。魅力的な土地を持っている地主には、いくつもの業者が出入りしているものだ。その中であおいはおそらくヒヨッコ中のヒヨッコだろうから、いかに聞いて、話して、顧客の思いの核心に近づけるか。それを目標にしている。
「それでは、概算の見積書ができましたらまたお伺いいたします。週明けにアポイントの電話を入れさせていただきますので」
「ありがとう。今日の資料、よく読んでおくから」
「こちらこそ、お時間を割いていただきありがとうございました」
あおいは玄関先で深く腰を折り、訪問から一時間半ほどで山田邸をあとにした。
門へ向かってゆっくり庭を歩きながら、ほーっとため息をつく。緊張から解放されたのと興奮のせいで、脚が少し震えている。
(でも、手応えはバッチリだな)
契約に結びつくかどうかは別として、ここまで具体的な話ができたのは初めてだ。あおいの提案に山田氏も興味を持ったようだったし、これはもしかすると、もしかするかもしれない。
ニヤニヤ笑いを顔に張りつけて、芝生を踏まないように飛び石の上を慎重に歩く。
そのせいだろう。正面から歩いてくる人に気づかなかったのは。
「ずいぶんと上機嫌だな」
(はい?)
びっくりして足を止め、顔を上げた瞬間にあんぐりと口が開いた。
「あーっ!」
目の前に立っているのは、つい先日酔ったはずみでベッドをともにしたお相手、槙島蒼也だった。先日とは違うダークカラーのスーツにシルバーのネクタイ、きっちりとセットした黒髪からデキる男の匂いが芬々と漂っている。
あおいの態度が面白かったのか、彼はプッと噴き出して口元を押さえた。
「あっ、あっ、ああの……こ、こんにちは」
噛んだ。思い切り噛んだ。でも、カーッと頬が熱くなったのは噛んだせいじゃない。
(ちょっ……なんで赤くなんのよ!)
三十歳手前にもなって、たかがセックスした相手に赤面するなんて恥ずかしい。
「君も山田さんのところに来てたんだ。フジチョウ建設の須崎あおいさん」
「は……? え? なんで私の会社を知ってるんですか?」
ん? と蒼也が怪訝そうに眉を寄せる。
「この前、君が教えてくれたんだろう」
「私がですか?」
あおいは首を捻ったが一秒後には思い出した。あの日のことを何も覚えていないことを思い出したのだ。
気まずい思いでバッグの中に手を突っ込む。
「先日は失礼しました。お金、お支払いしますので」
「おいおい。こんなところで出すなよ」
蒼也に手を掴まれたあおいは、財布を掴みかけた手を引っ込めた。確かに客先の敷地内でこんなことをするのはいかがなものか。
苦い顔をした蒼也がため息をつく。
「いらないって言ったのに。どうしても気が済まないようだな」
「当たり前です」
「結構。でもおかげでまた会う口実ができたよ」
口元にうっすらと笑みを浮かべつつ、彼はポケットから取り出した名刺の裏に走り書きをする。渡された名刺を見て、あおいは目を丸くした。
「日創地所!? 蒼也さん、日創地所にお勤めだったんですか?」
「そうだけど。これも話したよな?」
「ええと」
何も覚えていないと言ったらさすがに怒るだろうか。でも、酒の席でのことだし、いくらあおいが酒豪とはいえ、記憶をなくすまで酔っていたら傍目にもそれとわかるはずだ。
一歩距離を詰めてきた蒼也が、訝るように目を細める。
「もしかして覚えてない? ホテルでのことも?」
「う……」
大柄な彼の胸が目の前に迫り、あおいはうろたえた。女性では背の高い部類に入るあおいでも、彼とは大人と子供くらいの身長差がある。
「お、覚えてますよ。もちろん」
本日二度目の嘘。もちろん蒼也の顔は見られない。
「本当か?」
「ほ、本当……だと思います」
かえって怪しくなってしまった。蒼也はすっかり呆れ顔だ。
「あんなに何度もイッたくせに……」
「え?」
「いや、なんでもない。君の名刺をもらえる?」
「ああ、そうですね。大変失礼いたしました」
急いでスーツのポケットから名刺入れを取り出し、彼の前に両手で差し出す。
「フジチョウ建設の須崎あおいと申します」
「これはどうもご丁寧に……とでも言うと思った?」
「は、はい?」
怒っているのかと思って顔を上げると、男性にしては血色のいい唇が横に広がっている。彼はトントンとあおいが手にしたままの名刺を指先で叩いた。
「やり直し。君の番号が書かれていない」
「ええ……」
そう言われて先ほど渡された名刺の裏を見てみると、携帯電話の番号が書かれている。今どき古風なやり方だ。仕方なくあおいもペンを取り出して、番号を書き足した。
蒼也は受け取った名刺を一瞥し、素早く胸ポケットにしまい込む。
「今夜会える? 仕事が終わったら連絡するから」
「今夜ですか? そんな急にはちょっと……」
「お金、返したいんだろう?」
ニヤッと不敵な笑みを浮かべる蒼也に、あおいは一瞬ムッとした。しかし怒りを保ち続けるには、彼の顔はあまりに整いすぎている。気づけば釘付けになっていて、断りの文句ひとつ浮かばない。
まごまごしているうちに蒼也がサッと身を翻した。
「このあいだの晩、すごくよかったよ」
(んなっ!?)
すれ違いざまに耳元で囁かれ、勢いよく振り返る。
飛び石の上を颯爽と歩く蒼也が、前を向いたままひらひらと手を振った。そんな気障な仕草はドラマでしか見たことがなかったが、彼がやると様になるのが癪に障る。
その後ろ姿にしばらく見とれるあおいだったが、ハッと気づいて慌てて踵を返した。
彼が振り返りでもしたら大変だ。パンプスの踵を強く鳴らしながら門へ向かう。
「『よかったよ』とか、普通言う……?」
ブツブツと小声で呟き、最後にもう一度振り返ったが、蒼也の姿はもう見えなかった。
門の外に出たところで、土塀にもたれて片手で目元を覆う。
(私、あのイケメンにショーツまで畳まれちゃったんだ……)
そこかーい! と心の中でツッコみつつ、魂まで抜けそうなため息をつく。
蒼也に再会したことで、泣きたくなるほどの羞恥心が今さらのように押し寄せてきた。ワンナイトの相手がライバル会社の人だったなんて、どんな冗談だろう。会社もすぐ近くだし、これからも営業先で出くわすたびに後ろめたい気持ちになりそうだ。
でも、こうしていても仕方がないと、あおいは気を取り直して駅に向かって歩きはじめた。
(それにしても、どうして私だけが何も覚えてないかなあ)
これからテキーラには気をつけよう。そして気をつけることがもうひとつある。
もし蒼也に誘われても、絶対にのみすぎないこと。
あの晩のみ比べをした時の彼は、絶対に手加減していたに違いないからだ。
会社に戻ったあおいは、やるべき業務を淡々とこなし続けた。山田氏から聞いた既存の物件の不満点や資産運用上の悩み、家族の考えを顧客リストに書き込んだり、別の顧客の参考になりそうな資料を集めたりして。ちょっとでも気を抜くと蒼也の顔が頭にチラつくため、頭と手を忙しく動かす。
現在あおいが追っている熱い客は、山田氏のほかにふたりいる。
「えーと、佐久間さんの案件が今週中にプラン変更した見積りを再提出でしょう? それと、上川さんが月末にクロージング予定と……」
スマホのスケジュールアプリを開き、ほかに進行中の客との予定をすり合わせる。この先も日中は外出で忙しく、残業が続くだろう。
あおいもたまにはやる気をなくす時期があるが、それはずっとターボを利かせた状態で働き続けた時だ。ノルマは来月も再来月も、ずっと続く。がむしゃらになりすぎるとある日突然電池が切れるため、残業が続いたあとは定時上がりの日を二日続けて取るようにしている。これは営業の先輩が教えてくれたことだ。
そこでふと、蒼也のことが頭に浮かんだ。日創地所といえば、業界トップをひた走る不動産デベロッパーだ。いわゆる財閥系で、グループにはゼネコンや仲介、管理会社などあらゆる不動産関連の企業をもっている。ほかにも銀行、保険会社、商社や百貨店、製薬に食品メーカーと、関連企業を挙げたらきりがない。
机に頬杖をつき、蒼也からもらった名刺を眺めた。
(日創地所か……すごいところの部長さんなんだなあ)
日創地所はここから駅に向かう途中の道沿いにあるが、あおいがたっぷり残業して帰った日でも、いつも明かりがついている。きっと抱えている案件の数もノルマも段違いなのだろう。日創地所は不動産開発に特化した会社なのに、いろいろな部門を抱えるフジチョウ建設の五倍も売り上げがある。
「せ~んぱい」
「ひゃあっ!」
唐突に後ろから肩を叩かれて、椅子から飛び上がるほど驚いた。声をかけてきたのは優愛だ。蒼也の名刺を急いで書類の下に隠す。
「もう、どうしたんですか? そんなに驚いて」
「なんでもないよ。ちょっとボーッとしてただけ」
「だったら一緒に帰りましょうよ」
優愛はリップでツヤツヤと光る唇を尖らせた。壁にかけられた時計に目をやると、いつの間にか午後七時半を回っている。あおいは顔の前で両手を合わせた。
「ごめん! 今日中にやっておきたいことがあるから、また今度ね」
優愛の滑らかそうな頬が、ぷうっと膨らんだ。
「え~、蒼也さんとのこと話したかったのにぃ。先輩、あんまり無理しちゃダメですよ」
「ありがとう。お疲れ様」
「お疲れ様でしたぁ」
巻き髪を揺らしながら優愛が行ってしまうと、あおいはフーッと息を吐いた。気づけばフロアの半分ほどがすでに退社している。あおいも帰れなくはないのだが、今日はなんとなく仕事をしたい気分だ。
スマホのメッセージアプリを開く。
〈ごめん。残業で遅くなるから冷蔵庫にあるもので食べて〉
すぐに既読がつき、弟の漣から『了解!』と書かれたスタンプが送られてきた。
普段から残業が多い仕事のため、冷蔵庫にはいろいろと作り置きを常備してあるのだ。味噌汁くらいなら漣が作ってくれるから助かる。
安心して仕事に戻ると、ほどなくしてスマホが鳴った。画面に表示されたのは登録していない番号だ。蒼也の名刺を裏返してみると、同じ番号が男性的な筆致で書かれている。
少しドキドキしながら通話ボタンをタップした。
「須崎です。お疲れ様です」
――お疲れ様。昼間はどうも。まだ会社にいる?
「おりますが……今日は忙しいのでちょっと難しそうです」
――相変わらず手厳しいな。
スマホの向こうでクスクスと笑う声。あおいは目元を手で押さえた。悔しいことに声までいい。
――じゃ、終わったら電話してよ。待ってるから。
(いやいやいや)
通話口を覆って声を落とす。
「待たれても困りますって……! 遅くなったらご迷惑をかけますし」
――俺もやることたくさんあるから問題ない。じゃ、あとで。
「えっ、ちょっ――あれ?」
それまで聞こえていた周囲の雑音が消えてスマホを見る。画面には『通話終了』の文字が。
(強引だなー……)
机の上にスマホを置き、頭の後ろで手を組んで椅子の背もたれに寄りかかった。
地味が服を着て歩いているようなあおいでも、この年齢になるまでにはそれなりに出会いもあった。学生時代に初めて彼氏と呼べる人ができてから、これまでに正式に付き合った男性はふたり。合コンや友人の紹介で知り合った人もいたけれど、あんなに見た目がよく、こんなにぐいぐい迫ってくる人は初めてだ。
(でも、なんで私に構うんだろう)
はじめて彼と会った日には優愛もいたし、三人の中ではあおいが一番年上だった。かわいい盛りは通り越していると自覚もしている。そもそも、蒼也みたいな男が女に困っているはずがないのだ。
(もしかして、一番ヤれそうに見えたのかな)
仮にそうだったとしても、彼ほどの男なら抱かれたい相手などほかにいくらでもいるだろう。からかわれてる? そんなに暇とは思えないが。
自分で決めたところまではやってしまおう、と資料を探しつつデータやプランシートを作成する。
カチャカチャとパソコンのキーを叩く音だけがフロアに響いた。ひとり、またひとりとフロアから人が消え、気づけばひとりきり。明かりもだいぶ落とされていて少し不安になる。
壁にかけられた時計の針は九時四十五分を差していた。ピタッと止めた両手を膝の上に置く。
考えてみたら、別に今日やらなくてもいい仕事ばかりだ。月曜からこんなに頑張る必要なんてないのに、何をこんなにムキになっているのだろう。
「帰るか……」
急にやる気がなくなって帰り支度を始めた。空腹に耐えかねたというのもある。
フロアの戸締りをして裏口からビルの外に出た。今夜は風が冷たくて、そろそろ冬のコートを出さなければ、と考える。
トレンチコートの前を握りしめながら表通りへ向かうと、歩道の街路樹の脇に大柄な男が立っているのが見えた。人目を惹く端正な顔立ちが、スマホの光に照らされて青白く光っている。
(あれはまさか……)
電話をもらってから二時間以上は経っているから、とっくに帰ったと思っていた。しかし近づいてみればみるほど、蒼也にしか見えない。
「あのー……?」
あおいの声に気づいたのか、男が顔を上げた。やはり蒼也だ。まさか本当に待っていたなんて。
「お疲れ様」
蒼也がスマホをコートのポケットにしまって顔を綻ばせた。あおいは前髪を気にしながら彼に近づく。
「お疲れ様です。もしかしてずっと待ってたんですか?」
「そんな暇人に見える?」
「暇だなんて……だって、こんなにタイミングよく来られるなんてエスパーじゃないですか」
クスッと彼が笑った瞬間、白い歯が零れた。女殺しの笑顔――そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
「そういうことにしておこう。行ける?」
「ま、まあ……」
待ち伏せされていたのでは仕方がない。
大きな手を差し出されて、あおいは渋々ながら握った。すっかり冷たくなった彼の手が、やはり長いことここに立っていたのだと知らせてくる。
(嘘ばっかり)
思わず頬が緩んでしまい、パンプスの爪先を見た。さすがに二時間ずっと待っていたなんてことはないだろう。それでも彼みたいな男が、脈なしの地味な女のために自分の時間を使うことが信じられない。
「行きたいところがあるんだ。ここからすぐだから」
道路脇で蒼也が手を挙げてタクシーを拾った。後部座席に並んで座り、言葉通り五分ほど走ったところで降りる。
(え? ここって……)
蒼也が支払いを済ませているあいだ、あおいは幹線道路沿いにそびえたつ高い建物を首が痛くなるほど見上げた。ざっと数えて二十階以上。ガラスとスチールでできた壁面には同じ大きさの窓がずらりと並んでいる。
ここはまさか――
「ホ、ホテル!?」
「……の中のルーフトップバーから見える夜景がきれいなんだ」
背後から蒼也が声をかけてきた。
(なんだ……)
ホッとした途端に自分がバカみたいに思えてくる。別に期待していたわけじゃない。なんせ彼と過ごした夜のことを、これっぽっちも覚えていないのだから。
あおいの手が大きな手に包まれた。今度はちゃんとあたたかい。
「もしかして来たことある?」
「ないない、ないですよ! ……ていうか、こんなお高そうなところ、私には払えませんよ?」
顔の前で激しく手を振るあおいが面白かったのか、蒼也の口元が綻んだ。
「もちろんおごるよ。俺が強引に誘ったんだから」
「強引だって自覚してるんですね」
「そりゃあね。困ってるのに無理言って悪かった」
「う……お誘いありがとうございます」
そう素直に謝られると調子が狂ってしまう。ちょっと態度に出しすぎたかもしれない。
「まあ社会勉強だと思って付き合ってよ。話のタネにはなるだろう?」
「おごってくれるなら文句はありません」
手を引かれるまま、ホテルにしては控えめなドアをくぐった。
ホテルといえば一般的にはきらびやかなエントランスを想像するが、ロビーは無機質で落ち着いたつくりだ。広い空間と二階まで吹き抜けた高い天井。ところどころ下がり天井になっており、照明はやや暗い。壁はアイボリーと黒を基調としたタイル張りで、床には濃いグレーの絨毯が敷き詰められている。
外観からして変わったつくりだったが、内装も普通のホテルとはかなり違う。壁の一部に組み込まれたタイルは幾何学模様と言えなくもないデザインの鋳物で、どこか近未来的だ。よく見ると照明も不思議な形をしている。
「独創的な感じのホテルですね」
エレベーターホールへ向かいつつ、あおいは言った。
うん、と蒼也がこちらを見る。
「吉岡一成がデザインしたホテルだ。一度見てみたくてね」
「おー……吉岡一成ですか。最近よく聞きますね」
「そうだな。うちの会社とも取引があるんだけど、まだ若い人だよ」
「へえ」
あおい自身も勉強のために、名だたる建築士がデザインした物件を見て回ることがある。大規模商業施設、庁舎、美術館、複合施設……しかし、ホテルなどは敷居が高くてひとりでは入りにくいものだ。
(そういうところには蒼也さんと行ったらいいのでは? いやいや、商売敵だしなあ)
じーっと不思議なデザインのタイルを眺めていると手を引かれた。エレベーターが到着したらしい。
無機質な金属製の箱に乗り込み、蒼也が行き先階のボタンを押した。狭い密室にふたりきりでドキドキする。蒼也が意地悪そうな笑みを浮かべてこちらを見た。
「仕事熱心だな」
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