カラダ契約 エリート御曹司との不埒な一夜から執愛がはじまりました

ととりとわ

文字の大きさ
3 / 17
1巻

1-3

 茶化してきたのは、後ろを通りかかった同期の男性だ。ちょっと傷つきながらも、あおいはヘラヘラと笑った。

「ごめんね、優愛ちゃん。あとでおいしいものご馳走ちそうするから。ね?」
「ホントですか~?」

 優愛がハンカチの上から上目遣いに見る。

「お前がちゃんと守ってやれよ」
「だよね」

 さっきの同期がまだそこにいたらしい。追い打ちであおってくるあたり、さすが同期なだけに遠慮がない。
 あおいは優愛の肩に優しく手をかけた。

「今度は私がチェックするから、遠慮なく持ってきて」
「でも、それじゃ先輩の仕事が」
「それくらいの余裕はあるから大丈夫。もっと頼っていいんだよ」

 すると、優愛がニコッとかわいらしい笑みを浮かべる。

「わかりました。これからもよろしくお願いします、先輩!」

 後輩の朗らかな笑みにほだされて、あおいもついデレデレとほおを緩めた。年下の甘えに弱いのは昔から。こんなだから、真面目な課長から時々怒られてしまうのだ。

「さーて。仕事、仕事」

 回収したハンカチをポケットにしまい、プリントアウトの作業を再開する。これをホチキスとテープで製本してプレゼンに使うのだ。
 本当は自分もこんなふうに守られてみたいが、さすがにこの歳になったら甘えは許されない。なんなら新入社員の頃から『しっかりしてるね』『強いから大丈夫だよね』と言われてきて、庇われたことなんて一度もなかった。
 うーん、これが女子力の違いというやつか……

(まーいっか、お仕事頑張るぞ!)


「なるほどね。商業ビルはいくつか持ってるから、こういう複合施設みたいなのも面白そうだなあ」

 地主の山田氏はそう言って、革張りのソファに身を預けた。山田氏は還暦を迎えたばかりだというが、髪はフサフサ、小柄だが腹も出ておらず若々しい。
 ここは都内某所にある山田邸の応接間である。間口の広い土塀の中央にある門をくぐり、広い庭の奥に位置する立派な建物が、この屋敷の母屋だ。
 都内にしては広すぎるくらいの敷地には、おもむきのある離れや茶室がある。つい先ほどは趣味の陶芸部屋を見せてもらい、本格的なかまやろくろに驚いたものだ。
 この屋敷に来るのは楽しいけれど、同時に緊張もする。あおいはソファの上で脚をぴったりと閉じ、両手を膝の上で重ねて首を垂れた。

「ご興味を持っていただいて嬉しいです」

 はは、と山田氏が苦笑いを浮かべて顎をかく。

「いやね、実を言うとほかのビルのテナントが空いちゃって、なかなか決まらないんだよ。この土地もねぇ、遊ばせてるくらいなら何かに利用したいけど、これ以上リスクは負いたくないじゃない」
「それは当然のことです。その点、スーパーは地域に根差した施設ですし、山田様のお土地の周りには現在、競合する大規模な商業施設はありません。こちらのご提案ではサブリース方式で建築費もかかりませんし、毎月決まった額が入金されますのでリスクも少ないと思います」

 へえ、と目を輝かせた山田氏が前傾姿勢になる。

「お宅の会社で借り上げてくれるの?」
「当社にはリース専門の部門がございます。こちらの資料をご覧ください」

 お茶を横にずらして、持参したプレゼン資料を広げる。タブレットも立ち上げ、あらかじめキープしておいたウェブ上の参考になりそうなサイトも開いた。

「山田様は、事業用定期借地権についてはご存知ですか?」
「ああ、知り合いが公共の土地の上に建てたマンションに住んでるよ」
「その民間版といったところです。オーナー様が所有されている土地を当社のリース部門が借り上げまして……」

 サブリースとは、貸主が所有している物件をリース会社が一括で借り上げて、借主に又貸しすることだ。複合施設や大規模な商業ビルはこのタイプが多く、土地を借り上げた会社が建築も管理も行う。
 貸主と借主の相対の契約では、空室となった際には家賃が入ってこなくなるが、サブリースであればテナントが空いてもリース会社から毎月一定の家賃が入金される。契約金や建築費が莫大ばくだいな額となるため、リース会社は大手不動産会社の子会社であることが多い。
 あおいはタブレットの画面を山田氏のほうへ向け、手で指し示した。

「事業用定期借地権は、このように十年から五十年とご希望に合わせて期間を設定することができます」
「それは助かるな。今は時代の移り変わりが速いから、ずっと同じものって飽きられちゃうでしょう? それに、ゆくゆくは息子に全部任せたいから、長くないのもいい」

 あおいは両手を合わせて山田氏に笑みを向けた。

「息子さんが跡を継いでくださるんですか? それは安心ですね!」
「そうだね。わが息子ながらなかなかいい男に育ったよ」

 山田氏はそう言って相好そうごうを崩す。
 彼の息子は確かあおいと同い歳で、大手企業のサラリーマンをしていたはずだ。あおいが入社三年目で山田氏の担当を引き継いですぐにそこまで聞き出せたことに、先輩が感心していたのを思い出す。
 新入社員の頃、個人営業の基本はとにかく話を聞き、情報をできるだけ引き出すことだと教えられた。魅力的な土地を持っている地主には、いくつもの業者が出入りしているものだ。その中であおいはおそらくヒヨッコ中のヒヨッコだろうから、いかに聞いて、話して、顧客の思いの核心に近づけるか。それを目標にしている。

「それでは、概算の見積書ができましたらまたお伺いいたします。週明けにアポイントの電話を入れさせていただきますので」
「ありがとう。今日の資料、よく読んでおくから」
「こちらこそ、お時間を割いていただきありがとうございました」

 あおいは玄関先で深く腰を折り、訪問から一時間半ほどで山田邸をあとにした。
 門へ向かってゆっくり庭を歩きながら、ほーっとため息をつく。緊張から解放されたのと興奮のせいで、脚が少し震えている。

(でも、手応えはバッチリだな)

 契約に結びつくかどうかは別として、ここまで具体的な話ができたのは初めてだ。あおいの提案に山田氏も興味を持ったようだったし、これはもしかすると、もしかするかもしれない。
 ニヤニヤ笑いを顔に張りつけて、芝生を踏まないように飛び石の上を慎重に歩く。
 そのせいだろう。正面から歩いてくる人に気づかなかったのは。

「ずいぶんと上機嫌だな」
(はい?)

 びっくりして足を止め、顔を上げた瞬間にあんぐりと口が開いた。

「あーっ!」

 目の前に立っているのは、つい先日酔ったはずみでベッドをともにしたお相手、槙島蒼也だった。先日とは違うダークカラーのスーツにシルバーのネクタイ、きっちりとセットした黒髪からデキる男の匂いが芬々ふんぷんと漂っている。
 あおいの態度が面白かったのか、彼はプッと噴き出して口元を押さえた。

「あっ、あっ、ああの……こ、こんにちは」

 んだ。思い切りんだ。でも、カーッとほおが熱くなったのはんだせいじゃない。

(ちょっ……なんで赤くなんのよ!)

 三十歳手前にもなって、たかがセックスした相手に赤面するなんて恥ずかしい。

「君も山田さんのところに来てたんだ。フジチョウ建設の須崎あおいさん」
「は……? え? なんで私の会社を知ってるんですか?」

 ん? と蒼也が怪訝けげんそうに眉を寄せる。

「この前、君が教えてくれたんだろう」
「私がですか?」

 あおいは首を捻ったが一秒後には思い出した。あの日のことを何も覚えていないことを思い出したのだ。
 気まずい思いでバッグの中に手を突っ込む。

「先日は失礼しました。お金、お支払いしますので」
「おいおい。こんなところで出すなよ」

 蒼也に手を掴まれたあおいは、財布を掴みかけた手を引っ込めた。確かに客先の敷地内でこんなことをするのはいかがなものか。
 苦い顔をした蒼也がため息をつく。

「いらないって言ったのに。どうしても気が済まないようだな」
「当たり前です」
「結構。でもおかげでまた会う口実ができたよ」

 口元にうっすらと笑みを浮かべつつ、彼はポケットから取り出した名刺の裏に走り書きをする。渡された名刺を見て、あおいは目を丸くした。

日創地所にっそうじしょ!? 蒼也さん、日創地所にお勤めだったんですか?」
「そうだけど。これも話したよな?」
「ええと」

 何も覚えていないと言ったらさすがに怒るだろうか。でも、酒の席でのことだし、いくらあおいが酒豪とはいえ、記憶をなくすまで酔っていたら傍目にもそれとわかるはずだ。
 一歩距離を詰めてきた蒼也が、いぶかるように目を細める。

「もしかして覚えてない? ホテルでのことも?」
「う……」

 大柄な彼の胸が目の前に迫り、あおいはうろたえた。女性では背の高い部類に入るあおいでも、彼とは大人と子供くらいの身長差がある。

「お、覚えてますよ。もちろん」

 本日二度目の嘘。もちろん蒼也の顔は見られない。

「本当か?」
「ほ、本当……だと思います」

 かえって怪しくなってしまった。蒼也はすっかり呆れ顔だ。

「あんなに何度もイッたくせに……」
「え?」
「いや、なんでもない。君の名刺をもらえる?」
「ああ、そうですね。大変失礼いたしました」

 急いでスーツのポケットから名刺入れを取り出し、彼の前に両手で差し出す。

「フジチョウ建設の須崎あおいと申します」
「これはどうもご丁寧に……とでも言うと思った?」
「は、はい?」

 怒っているのかと思って顔を上げると、男性にしては血色のいい唇が横に広がっている。彼はトントンとあおいが手にしたままの名刺を指先で叩いた。

「やり直し。君の番号が書かれていない」
「ええ……」

 そう言われて先ほど渡された名刺の裏を見てみると、携帯電話の番号が書かれている。今どき古風なやり方だ。仕方なくあおいもペンを取り出して、番号を書き足した。
 蒼也は受け取った名刺を一瞥いちべつし、素早く胸ポケットにしまい込む。

「今夜会える? 仕事が終わったら連絡するから」
「今夜ですか? そんな急にはちょっと……」
「お金、返したいんだろう?」

 ニヤッと不敵な笑みを浮かべる蒼也に、あおいは一瞬ムッとした。しかし怒りを保ち続けるには、彼の顔はあまりに整いすぎている。気づけば釘付けになっていて、断りの文句ひとつ浮かばない。
 まごまごしているうちに蒼也がサッと身をひるがえした。

「このあいだの晩、すごくよかったよ」
(んなっ!?)

 すれ違いざまに耳元でささやかれ、勢いよく振り返る。
 飛び石の上を颯爽さっそうと歩く蒼也が、前を向いたままひらひらと手を振った。そんな気障きざな仕草はドラマでしか見たことがなかったが、彼がやると様になるのがしゃくに障る。
 その後ろ姿にしばらく見とれるあおいだったが、ハッと気づいて慌ててきびすを返した。
 彼が振り返りでもしたら大変だ。パンプスのかかとを強く鳴らしながら門へ向かう。

「『よかったよ』とか、普通言う……?」

 ブツブツと小声でつぶやき、最後にもう一度振り返ったが、蒼也の姿はもう見えなかった。
 門の外に出たところで、土塀にもたれて片手で目元を覆う。

(私、あのイケメンにショーツまで畳まれちゃったんだ……)

 そこかーい! と心の中でツッコみつつ、魂まで抜けそうなため息をつく。
 蒼也に再会したことで、泣きたくなるほどの羞恥心が今さらのように押し寄せてきた。ワンナイトの相手がライバル会社の人だったなんて、どんな冗談だろう。会社もすぐ近くだし、これからも営業先で出くわすたびに後ろめたい気持ちになりそうだ。
 でも、こうしていても仕方がないと、あおいは気を取り直して駅に向かって歩きはじめた。

(それにしても、どうして私だけが何も覚えてないかなあ)

 これからテキーラには気をつけよう。そして気をつけることがもうひとつある。
 もし蒼也に誘われても、絶対にのみすぎないこと。
 あの晩のみ比べをした時の彼は、絶対に手加減していたに違いないからだ。


 会社に戻ったあおいは、やるべき業務を淡々とこなし続けた。山田氏から聞いた既存の物件の不満点や資産運用上の悩み、家族の考えを顧客リストに書き込んだり、別の顧客の参考になりそうな資料を集めたりして。ちょっとでも気を抜くと蒼也の顔が頭にチラつくため、頭と手を忙しく動かす。
 現在あおいが追っている熱い客は、山田氏のほかにふたりいる。

「えーと、佐久間さくまさんの案件が今週中にプラン変更した見積りを再提出でしょう? それと、上川かみかわさんが月末にクロージング予定と……」

 スマホのスケジュールアプリを開き、ほかに進行中の客との予定をすり合わせる。この先も日中は外出で忙しく、残業が続くだろう。
 あおいもたまにはやる気をなくす時期があるが、それはずっとターボを利かせた状態で働き続けた時だ。ノルマは来月も再来月も、ずっと続く。がむしゃらになりすぎるとある日突然電池が切れるため、残業が続いたあとは定時上がりの日を二日続けて取るようにしている。これは営業の先輩が教えてくれたことだ。
 そこでふと、蒼也のことが頭に浮かんだ。日創地所といえば、業界トップをひた走る不動産デベロッパーだ。いわゆる財閥系で、グループにはゼネコンや仲介、管理会社などあらゆる不動産関連の企業をもっている。ほかにも銀行、保険会社、商社や百貨店、製薬に食品メーカーと、関連企業を挙げたらきりがない。
 机に頬杖ほおづえをつき、蒼也からもらった名刺を眺めた。

(日創地所か……すごいところの部長さんなんだなあ)

 日創地所はここから駅に向かう途中の道沿いにあるが、あおいがたっぷり残業して帰った日でも、いつも明かりがついている。きっと抱えている案件の数もノルマも段違いなのだろう。日創地所は不動産開発に特化した会社なのに、いろいろな部門を抱えるフジチョウ建設の五倍も売り上げがある。

「せ~んぱい」
「ひゃあっ!」

 唐突に後ろから肩を叩かれて、椅子から飛び上がるほど驚いた。声をかけてきたのは優愛だ。蒼也の名刺を急いで書類の下に隠す。

「もう、どうしたんですか? そんなに驚いて」
「なんでもないよ。ちょっとボーッとしてただけ」
「だったら一緒に帰りましょうよ」

 優愛はリップでツヤツヤと光る唇をとがらせた。壁にかけられた時計に目をやると、いつの間にか午後七時半を回っている。あおいは顔の前で両手を合わせた。

「ごめん! 今日中にやっておきたいことがあるから、また今度ね」

 優愛の滑らかそうなほおが、ぷうっと膨らんだ。

「え~、蒼也さんとのこと話したかったのにぃ。先輩、あんまり無理しちゃダメですよ」
「ありがとう。お疲れ様」
「お疲れ様でしたぁ」

 巻き髪を揺らしながら優愛が行ってしまうと、あおいはフーッと息を吐いた。気づけばフロアの半分ほどがすでに退社している。あおいも帰れなくはないのだが、今日はなんとなく仕事をしたい気分だ。
 スマホのメッセージアプリを開く。

〈ごめん。残業で遅くなるから冷蔵庫にあるもので食べて〉

 すぐに既読がつき、弟の漣から『了解!』と書かれたスタンプが送られてきた。
 普段から残業が多い仕事のため、冷蔵庫にはいろいろと作り置きを常備してあるのだ。味噌汁くらいなら漣が作ってくれるから助かる。
 安心して仕事に戻ると、ほどなくしてスマホが鳴った。画面に表示されたのは登録していない番号だ。蒼也の名刺を裏返してみると、同じ番号が男性的な筆致で書かれている。
 少しドキドキしながら通話ボタンをタップした。

「須崎です。お疲れ様です」

 ――お疲れ様。昼間はどうも。まだ会社にいる?

「おりますが……今日は忙しいのでちょっと難しそうです」

 ――相変わらず手厳しいな。
 スマホの向こうでクスクスと笑う声。あおいは目元を手で押さえた。悔しいことに声までいい。
 ――じゃ、終わったら電話してよ。待ってるから。

(いやいやいや)

 通話口を覆って声を落とす。

「待たれても困りますって……! 遅くなったらご迷惑をかけますし」

 ――俺もやることたくさんあるから問題ない。じゃ、あとで。

「えっ、ちょっ――あれ?」

 それまで聞こえていた周囲の雑音が消えてスマホを見る。画面には『通話終了』の文字が。

(強引だなー……)

 机の上にスマホを置き、頭の後ろで手を組んで椅子の背もたれに寄りかかった。
 地味が服を着て歩いているようなあおいでも、この年齢になるまでにはそれなりに出会いもあった。学生時代に初めて彼氏と呼べる人ができてから、これまでに正式に付き合った男性はふたり。合コンや友人の紹介で知り合った人もいたけれど、あんなに見た目がよく、こんなにぐいぐい迫ってくる人は初めてだ。

(でも、なんで私に構うんだろう)

 はじめて彼と会った日には優愛もいたし、三人の中ではあおいが一番年上だった。かわいい盛りは通り越していると自覚もしている。そもそも、蒼也みたいな男が女に困っているはずがないのだ。

(もしかして、一番ヤれそうに見えたのかな)

 仮にそうだったとしても、彼ほどの男なら抱かれたい相手などほかにいくらでもいるだろう。からかわれてる? そんなに暇とは思えないが。
 自分で決めたところまではやってしまおう、と資料を探しつつデータやプランシートを作成する。
 カチャカチャとパソコンのキーを叩く音だけがフロアに響いた。ひとり、またひとりとフロアから人が消え、気づけばひとりきり。明かりもだいぶ落とされていて少し不安になる。
 壁にかけられた時計の針は九時四十五分を差していた。ピタッと止めた両手を膝の上に置く。
 考えてみたら、別に今日やらなくてもいい仕事ばかりだ。月曜からこんなに頑張る必要なんてないのに、何をこんなにムキになっているのだろう。

「帰るか……」

 急にやる気がなくなって帰り支度を始めた。空腹に耐えかねたというのもある。
 フロアの戸締りをして裏口からビルの外に出た。今夜は風が冷たくて、そろそろ冬のコートを出さなければ、と考える。
 トレンチコートの前を握りしめながら表通りへ向かうと、歩道の街路樹の脇に大柄な男が立っているのが見えた。人目をく端正な顔立ちが、スマホの光に照らされて青白く光っている。

(あれはまさか……)

 電話をもらってから二時間以上はっているから、とっくに帰ったと思っていた。しかし近づいてみればみるほど、蒼也にしか見えない。

「あのー……?」

 あおいの声に気づいたのか、男が顔を上げた。やはり蒼也だ。まさか本当に待っていたなんて。

「お疲れ様」

 蒼也がスマホをコートのポケットにしまって顔を綻ばせた。あおいは前髪を気にしながら彼に近づく。

「お疲れ様です。もしかしてずっと待ってたんですか?」
「そんな暇人に見える?」
「暇だなんて……だって、こんなにタイミングよく来られるなんてエスパーじゃないですか」

 クスッと彼が笑った瞬間、白い歯がこぼれた。女殺しの笑顔――そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

「そういうことにしておこう。行ける?」
「ま、まあ……」

 待ち伏せされていたのでは仕方がない。
 大きな手を差し出されて、あおいは渋々ながら握った。すっかり冷たくなった彼の手が、やはり長いことここに立っていたのだと知らせてくる。

(嘘ばっかり)

 思わずほおが緩んでしまい、パンプスの爪先を見た。さすがに二時間ずっと待っていたなんてことはないだろう。それでも彼みたいな男が、脈なしの地味な女のために自分の時間を使うことが信じられない。

「行きたいところがあるんだ。ここからすぐだから」

 道路脇で蒼也が手を挙げてタクシーを拾った。後部座席に並んで座り、言葉通り五分ほど走ったところで降りる。

(え? ここって……)

 蒼也が支払いを済ませているあいだ、あおいは幹線道路沿いにそびえたつ高い建物を首が痛くなるほど見上げた。ざっと数えて二十階以上。ガラスとスチールでできた壁面には同じ大きさの窓がずらりと並んでいる。
 ここはまさか――

「ホ、ホテル!?」
「……の中のルーフトップバーから見える夜景がきれいなんだ」

 背後から蒼也が声をかけてきた。

(なんだ……)

 ホッとした途端に自分がバカみたいに思えてくる。別に期待していたわけじゃない。なんせ彼と過ごした夜のことを、これっぽっちも覚えていないのだから。
 あおいの手が大きな手に包まれた。今度はちゃんとあたたかい。

「もしかして来たことある?」
「ないない、ないですよ! ……ていうか、こんなお高そうなところ、私には払えませんよ?」

 顔の前で激しく手を振るあおいが面白かったのか、蒼也の口元が綻んだ。

「もちろんおごるよ。俺が強引に誘ったんだから」
「強引だって自覚してるんですね」
「そりゃあね。困ってるのに無理言って悪かった」
「う……お誘いありがとうございます」

 そう素直に謝られると調子が狂ってしまう。ちょっと態度に出しすぎたかもしれない。

「まあ社会勉強だと思って付き合ってよ。話のタネにはなるだろう?」
「おごってくれるなら文句はありません」

 手を引かれるまま、ホテルにしては控えめなドアをくぐった。
 ホテルといえば一般的にはきらびやかなエントランスを想像するが、ロビーは無機質で落ち着いたつくりだ。広い空間と二階まで吹き抜けた高い天井。ところどころ下がり天井になっており、照明はやや暗い。壁はアイボリーと黒を基調としたタイル張りで、床には濃いグレーの絨毯じゅうたんが敷き詰められている。
 外観からして変わったつくりだったが、内装も普通のホテルとはかなり違う。壁の一部に組み込まれたタイルは幾何学模様と言えなくもないデザインの鋳物いもので、どこか近未来的だ。よく見ると照明も不思議な形をしている。

「独創的な感じのホテルですね」

 エレベーターホールへ向かいつつ、あおいは言った。
 うん、と蒼也がこちらを見る。

吉岡一成よしおかいっせいがデザインしたホテルだ。一度見てみたくてね」
「おー……吉岡一成ですか。最近よく聞きますね」
「そうだな。うちの会社とも取引があるんだけど、まだ若い人だよ」
「へえ」

 あおい自身も勉強のために、名だたる建築士がデザインした物件を見て回ることがある。大規模商業施設、庁舎、美術館、複合施設……しかし、ホテルなどは敷居が高くてひとりでは入りにくいものだ。

(そういうところには蒼也さんと行ったらいいのでは? いやいや、商売敵だしなあ)

 じーっと不思議なデザインのタイルを眺めていると手を引かれた。エレベーターが到着したらしい。
 無機質な金属製の箱に乗り込み、蒼也が行き先階のボタンを押した。狭い密室にふたりきりでドキドキする。蒼也が意地悪そうな笑みを浮かべてこちらを見た。

「仕事熱心だな」


感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました

由香
恋愛
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。 ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。 遠い存在になったはずの彼。 けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。 冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

義兄に甘えまくっていたらいつの間にか執着されまくっていた話

よしゆき
恋愛
乙女ゲームのヒロインに意地悪をする攻略対象者のユリウスの義妹、マリナに転生した。大好きな推しであるユリウスと自分が結ばれることはない。ならば義妹として目一杯甘えまくって楽しもうと考えたのだが、気づけばユリウスにめちゃくちゃ執着されていた話。 「義兄に嫌われようとした行動が裏目に出て逆に執着されることになった話」のifストーリーですが繋がりはなにもありません。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

俺様上司に今宵も激しく求められる。

藤白ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end** ◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です! https://estar.jp/novels/26513389