オオカミ御曹司と極甘お見合い婚

ととりとわ

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1巻

1-1

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   第一章 ハメられたお見合いの相手は無愛想な御曹司でした


『結婚』という言葉の重みが、こんなふうに突然自分にのしかかってくるものだとは思わなかった――


 タクシーの後部座席に背中をもたせかけ、はあーっと、人生で一番深いため息を琴乃ことのはつく。
 きれいに結ばれた帯がつぶれようとかまうものか。どうせもう家に帰るだけだ。楽しみにしていたレストランでの食事もできずに、一目散に逃げ帰るだけ。
 窓の外を流れる都心の景色に目をやって、もう一度ため息をつく。すると、運転手が小さく咳ばらいをした。

「あの、ご気分でも悪いんですか?」

 初老の運転手は、不安げな顔を少しだけこちらへ向けて尋ねてくる。琴乃はアップにした髪のおくれ毛を気にしつつ、取り繕う笑みを浮かべた。

「大丈夫です。ちょっと嫌なことがあっただけですから」
「そうですか。せっかくきれいな着物をお召しになっているのに、それは残念でしたね」
「ですよねえ」
(ほんと、残念なことこの上ないよ……)

 琴乃は引きつった笑顔で応じつつ、ついさきほど起こった事件の顛末てんまつを思い起こす。


 新作着物の展示会に行こうと母に誘われたのは、先週の土曜日のことだった。会場は都心にある一流ホテルの朱雀すざくの間。そのホテルのレストランは評判がよく、一度行ってみたいと思っていたため、二つ返事でOKすると、母はやけに嬉しそうな顔をした。

『じゃあ、展示会は十時からだから、帰りにお食事でもしましょう』

 母はレストランや料亭など、落ち着いた雰囲気の中で食事をすることが大好きなのだ。それで喜んでいるのだと、その時は思っていた。
 だん琴乃の家は旧華族の末裔まつえいである。そうはいっても舶来の品に目を輝かせたり、サロンだ、舞踏会だと華々しい暮らしをしていたのは、戦前までの話だ。
 今も都心にほど近い場所に広い屋敷を構えるものの、平屋の木造家屋はどこもかしこも古めかしく、傷みもある。二十八歳、若者の部類に入る琴乃にしてみれば、さっさとここを売ってマンションでも買えばいいのにと思ったりする日々だ。
 けれど、大学で考古学を教えている父はともかく、母が譲らない。もともと、ここは母方の実家だった。両親は恋愛結婚だが、ひとり娘だった母は『壇の姓を絶やすな』という曾祖父の遺言により、父を婿養子にとったのだ。


 展示会の当日、ホテルには、開場時間の三十分も前に着いてしまった。着物を着てきたため、少し余裕をもって家を出たものの、早すぎたようだ。

「ちょっとお手洗いに行ってくるわね。ラウンジでコーヒーでも飲んで待っててちょうだい」

 今年買ったばかりの着物のお端折はしょりを直しながら、琴乃の母、悦子えつこがすたすた歩いていく。
 そのふっくらとした後ろ姿から目を離し、琴乃はロビーを見渡した。展示会の客とおぼしき人たちは中高年がほとんどで、自分はずいぶん若者に見える。
 ラウンジに向かう途中にある柱はすべて鏡張りになっていた。そのひとつの前で足を止め、慣れない着物姿の自分を映してみる。

(着崩れてないかなあ)

 鏡の前でくるくると回ってみるものの、後ろはよく見えないのでもどかしい。久しぶりに自分で着付けをしたため手際が悪かったうえに自信がない。
 琴乃は昨日まで、落ち着いた色合いの付け下げを着ようと思っていたのに、母が今日になって違うものを着ていけと言い出した。
 そういうわけで緋色のグラデーションをベースに、山茶花さざんかの模様をあしらった振袖を着ている。髪も自分でハーフアップにするつもりが、母に呼ばれて近所からやってきたヘアメイクさんにより、きれいに結いあげられた。
 化粧だってずいぶんと派手だ。薄い二重まぶたに小ぶりな鼻。笑うと両頬に浮かぶえくぼは気に入っているけれど、全体的には地味な顔立ちなのだ。それが今日は、アイラインにつけまつげまでしているなんて……

(やっぱりどう考えても派手だよねえ。お母さんたら、どういうつもりだろ……?)

 白い小花に宝石がちりばめられた髪飾りを指で直し、会員制ラウンジへ入っていく。入り口で母から渡されたカードを提示すると、窓際の一番奥の席に案内された。
 ダージリンティーを注文してひと息つく。
 左手にある大きな窓の向こうには、緑あふれる景色が広がっていた。このホテルは豪華な日本式庭園が有名で、結婚式の写真撮影にもよく使われるそうだ。
 池にかかる橋の上に動く人の姿を見つけ、琴乃は身体の向きを斜めにずらしてその姿に見入った。
 三十代とおぼしき男女が、緊張した様子で並んで歩いている。
 お見合いだろうか。このご時世に、なんと古風な。
 微笑ましい場面に見入っていた琴乃の耳に、突然どさりという音が響いた。ハッとして顔を正面に戻すと、見知らぬ男が向かいの席に座っている。
 ものすごく体格がよくて背も高く、見るからに高級そうなダークカラーのスーツを着た男だ。きりりとした精悍せいかんな顔立ちで、笑った顔など一ミリも想像できないような冷たい表情をしている。

(……は? え?)

 びっくりした琴乃は、なにが起きたのかとあたりを見回した。ラウンジは特別混んでいる様子もなく、ちらほらといるウェイターが静かに動いているだけだ。
 琴乃のほかに、座っている客が五人ほど。ほかに席はいくらでも空いているのに、どうしてわざわざ自分の正面に座ったのだろうか。

「あ、あのー……」

 勇気を振り絞り、琴乃は口を開きかけた。もしかして、自分が忘れているだけで過去に会ったことがある人なのかもしれない。家柄のせいもあり付き合いが多く、一度紹介されたくらいでは覚えきれないのだ。

「お待たせいたしました。ダージリンティーでございます」

 ちょうど注文した飲み物が運ばれてきて、前のめりになっていた身体を元に戻した。礼を言った琴乃に対し頭を下げたウェイターに、男が声をかける。

「コーヒーを頼む」
「かしこまりました」

 ウェイターが戻ってしまうと、琴乃の胸の鼓動は激しくなった。男の朗々ろうろうとした低い声を聞いたせいかもしれない。彼の声はなんというか……そう、いい声だ。
 注文したダージリンティーにスティックシュガーを少しだけ入れ、気まずい思いでかき混ぜる。

(話しかけるタイミングを逃しちゃったな)

 琴乃はカップを口元に近づけつつ、男の様子をちらりと窺った。
 大柄な身体は格闘技でもやっているのかと思うほど逞しく、座っていても琴乃より頭ひとつ分は背が高い。おそらく百九十センチ近くあるだろう。緩くウェーブを描く黒髪は艶めいており、まっすぐな眉がりりしい印象だ。切れ長の二重まぶたにすっと通った鼻筋。横に広い唇に意志の強さを感じる。
 ちょっとそのへんではお目にかかれないような美丈夫びじょうふだ。すれ違う人誰もが二度見するだろう。ただ、残念なのは強面すぎること。こんな鷹みたいな目で睨みつけられたら、すくみあがってしまいそうだ。
 じっと見とれていると、ラウンジの入り口に目を向けていた男が急にこちらを見た。

(やばっ)

 慌てて視線を窓の外へ向ける。カップを置いたのち、おくれ毛を気にし、半襟を直すふりをして……どきどきする鼓動を鎮めようと、密かに深呼吸をする。
 それにしても、母はいったいどこへ行ったのだろう。お手洗いにしては遅すぎる。時刻はもう十時過ぎ、展示会は開場しているはずだが、まさかひとりで先に会場へ……?
 いつまでも庭ばかりを見ているわけにもいかないので、テーブルに視線を戻して再びカップを持つ。……が、熱くてそうごくごくと飲めるものじゃない。ひと口すすったもののすぐソーサーに置き、また所在ない時間が戻ってきてしまった。
 母を捜しに行きたかったが、席を立つには男に話しかけなくてはならないだろう。もしも両親の知り合いだった場合、失礼な態度をとったらのちのちまずいことになるからだ。
 琴乃は思い切って、帯で窮屈きゅうくつな胸に息を吸い込んだ。

「あ、あの」

 と、そこへ――

「まあー、おうさん! お越しになっていらしたのね!?」

 静かなラウンジ内に響き渡る大きな声に、琴乃はギョッとした。見れば、ほかならぬ母の悦子である。丸い顔に浮かべた満面の笑みと、深々と折った腰。まさに慇懃いんぎんといえるほど丁重な態度に困惑する。
 やはり母の知り合いだったのだ。早まらなくてよかった……!
 彼女は「失礼します」と、琴乃の隣にどすんと座った。身体を半分ほどこちらへ向け、手のひらを琴乃に向ける。

「周防さん、娘の琴乃です。琴乃、こちらはしゅうセキュリティの社長で周防しょうさん。周和セキュリティさんはもちろん知ってるわね?」

 うふふ、と母に微笑みかけられた琴乃は、男に向かって愛想笑いを浮かべた。

「は、はじめまして。いつも母がお世話になっております」
「こちらこそ。周和セキュリティ株式会社の周防です」

 やはりいい声だ。すっと差し出された名刺を両手で受け取る。名刺に目を落とすと、見慣れたロゴマークが左上にプリントされていた。
 周防将偉。それが彼の名前のようだ。周和セキュリティといえば、一部上場している大企業である。人気の俳優やスポーツ選手を起用した企業CMをテレビで見ない日がないほどだ。
 ちなみに、琴乃の自宅でも周和セキュリティの防犯システムを取り入れているが、こんなに若い人が社長を務めているなんて知らなかった。

「お日柄もよくてお見合い日和ですわねえ。周防さんの今日のスーツ、とても素敵でお似合いになっていらっしゃいますこと。きっとうまくいきますわね」

 隣で母が、周防におべっかを使っている。琴乃は名刺をテーブルに置き、依然として厳めしい表情の周防に笑みを向けた。

「周防さん、今日はお見合いがあるんですか? おめでとうございます」

 えっ、という素っ頓狂な母の声に隣を見る。

「なにを言ってるの。周防さんのお見合いの相手はあなたでしょ?」
「ええっ!? わっ、私!? 私がお見合い相手!?」

 青天の霹靂へきれきともいうべき出来事に、琴乃はこぼれんばかりに目を丸くした。それもそのはず、今日は着物の展示会に行くついでに食事をしようと母が言うから、軽い気持ちでついてきただけなのだ。まさか、事前に写真も見ず、プロフィールすら知らない相手とお見合いするなんて――
 茫然自失のまま固まっている琴乃の横で、母が立ち上がった。

「さ、それじゃあ私は失礼して展示会に行ってくるわね。若い人同士のほうが話が弾むでしょうから」
「えっ、ちょっと待って!」

 素早く手を伸ばし、母の着物のたもとを掴んだ……つもりが、滑らかな正絹しょうけんの生地は指先からするりと抜けてしまう。信じられない。娘をだました挙句に、初対面の男とふたりきりで残していくなんて……!

「では、周防さん。あとはよろしくお願いいたします」
「あっ……ちょ、お母さ……っ」

 うきうきと上機嫌で去っていく母の後ろ姿を、琴乃は力なく見送った。悔しさのあまり、母を掴みそこねた手で拳を握る。母の勝手な行動にはうんざりだ。お見合いは嫌だとあれほど言ったのに。
 ……いや、むしろ何度お見合いを勧めても首を縦に振らないから、こんなだまし討ちみたいなことをしたのだろう。結婚のなにがいいのか、琴乃にはまったくわからない。

「いつもあんな調子なのか?」
「へっ?」

 同じく悦子の後ろ姿を目で追っていた周防が尋ねてきて、琴乃は顔を前に向けた。まっすぐにこちらを見ている彼の顔にはなんの表情も浮かんでおらず、やたら整った顔立ちのせいで怖いくらいに感じる。
 彼はさっきウェイターがもってきたコーヒーを静かにすすり、音もなくソーサーに置いた。

「君の母親のことだ。なんというか、勝手な人だな」

 わが意を得たり! そう思った琴乃はテーブルに手をつき、身を乗り出した。

「そうなんですよ! 母ったら、いつも自分の考えを無理やり押しつけて、私の意見も聞かずに従わせようとするんです。今日だって、着物の展示会に誘われて来ただけなのに急にお見合いだなんて――あっ」

 興奮のあまりつい口が滑ってしまった。慌てて周防の顔色を窺うが、彼の表情に変化はない。

「……ごめんなさい」

 小声で謝罪して、カップを取る。ああ、初対面の人に、なんてことを言ってしまったのだろう……
 空になったカップの底をながめて、琴乃は心の中でため息をついた。
 顔を上げなくても、周防が冷たい目でこちらを見ているのがわかる。それはそうだ。『あなたとお見合いするつもりはなかった』と暗に伝えてしまったのだから。

「壇琴乃さん」
「はっ、はいっ」

 急に名前を呼ばれてびくりとした。おずおずと顔を上げると、恐いくらい鋭い眼差しがこちらを捉えている。

「俺の素性についてはさっき渡した名刺の通りだ。周和セキュリティの社長のほかに、いくつかのグループ企業の役員を兼任している。年齢は三十五で、父は周防ホールディングスの代表。四つ歳の離れた兄は衆議院議員をしている。二つ下の弟もグループ企業の役員をしているが、いずれは俺がホールディングスの代表を継ぐだろう」
「はあ」

 話が異次元すぎて呆けた返答しかできない。彼が今話した内容について、琴乃はさっと考えを巡らした。
 周防ホールディングスといえば、知らぬものなどいない巨大グループだ。確か中核となっているのは、商社、流通会社と彼が社長を務める警備保障会社。そのほかにゼネコンや不動産、医療、介護事業など、人の生活に関わる企業の大抵がその傘下にある。琴乃が社長秘書をしている商社とはライバル関係だ。
 さらに、兄は国会議員、弟も企業役員とあっては、華麗なる一族というほかないだろう。そんな素晴らしい家柄の人と母が知り合いだったとは、やはり旧華族の末裔まつえいあなどれないものである。
 このお見合いについて、父はなにも聞かされていないに違いない。
『大学教授なんて実入りが少ない職業の人、間違っても連れてきちゃだめよ』とは母の口癖だ。そのうえ、休みのたびに研究と称して海外の遺跡調査へ出かけてしまうため出費も多く、婿養子に入った父はずっと肩身が狭い思いをしてきた。
 なにより、父は娘に結婚を急いていないのだ。たったひとりの娘を誰かに取られるのはやはり寂しいのだろう。
 今日突然のお見合いに至った経緯についてはあとで母を問い詰めるとして、ひとまずはこの場をどうやりすごすかが問題だ。琴乃には結婚をする気などさらさらないのだから。

「君は?」

 低くよく通る声に琴乃はハッとした。

「君の経歴について聞かせてもらいたい」

 周防が膝の上で両手を組み合わせてこちらを見ている。経歴……そういうものは普通、あらかじめ仲人なこうどを通して聞いているものではないのか。

「なにもご存じないんですか? 仲人なこうどさんはなんて……?」
「俺も、この話は二日ほど前に親戚から聞いただけだからな。昨日まで出張で大阪にいたし、仲人なこうどもいない」
「そうですか……」

 琴乃はなんとも言えない気持ちになった。当の本人たちが見合い相手の素性についてなにも知らされていないとは……
 しばしの沈黙が降りる。どうせ断る見合いなのに、と思いつつも、彼の経歴を教えてもらった手前、自分も教えないわけにいかない。

「壇琴乃。二十八歳です。職業は……トーサイ物産で秘書をしております」

 周防の眉がぴくりと動いた。

「トーサイ物産? 品川の?」

 琴乃が頷く。彼がトーサイ物産を知っているのは想定内だ。周防グループの商社に比べたらはるかに規模は小さいが、そこは同業者である。
 急に押し黙り、考え込むかのようにテーブルの一点を見つめる周防に、琴乃は困惑した。
 トーサイ物産となにかトラブルでもあったのだろうか? そのせいでこの見合いがご破算になるのなら、願ったり叶ったりなのだが……

「周防さん……?」

 下から覗き込むと、彼はぱちぱちと目をしばたたいて顔を上げた。意外に睫毛が長い。

「ああ、失礼。君がせっかく話してくれているのにすまない。トーサイ物産の社長はよく知ってるよ」
「はい……あの、それともしも気分を悪くされていたらごめんなさい」

 周防がぴくりと眉を動かす。

「俺が? どうして?」
「さっき、今日はお見合いに来たわけじゃなくて、着物の展示会に来ただけだって言ってしまったので……」

 罪悪感のあまり、ごにょごにょと語尾が小さくなる。
 こういう社会的地位の高い人なら、プライドも高くて当然だ。バカにされたと席を立つのが普通のはずなのに、まだ琴乃から話を聞き出そうとするのが不思議でならない。
 そのくせ愛想のかけらもない表情。お互い乗り気でないなら、さっさと本心を打ち明けあって解散すればいいのだ。
 周防はビロード張りのソファに背中を預けて息をついた。

「俺はそんなことで怒ったりはしない。君はおおかた、あの母親にだまされてここへ来たんだろう? 俺のほうは望んでここへ来たが」
「周防さんはこのお見合いを望まれていらしたんですか?」

 ならばもう少し愛想よくしたっていいと思うけれど。

「正直な話、誰でもよかったんだ。たまたま親戚が昔懇意こんいにしていたということで、君に白羽の矢が立ったようだが」
「はい?」

 思わず瞠目どうもくする。

「誰でも……ということは、私じゃなくてもいいということですか?」
「いや。もうほかの女性と会うつもりはない。俺も暇がなくて、なかなか見合いをする時間が取れないのでね。結婚相手に求めるのは、最低限の家柄と教養があることと、下品でないことだけだ。だから、君でいい」

 すっかり憤慨ふんがいした琴乃は、もう我慢がならない、とばかりに立ち上がった。

「私は誰でもよくありません。そんなふうに望まれずに結婚するのも嫌です」

 ぴしゃりと言い放つと、周防の鋭い目がわずかに大きくなった。それに気をよくした琴乃は、「失礼します」と席を立つが――

「ちょっと待て。それで帰るつもりか?」
「え?」

 後ろから呼び止められて足を止める。

「ちょっとこっちへ」

 むんずと手首を掴まれ強く引かれた。やけに大きく肉厚で、熱い手だ。立ち上がった周防の背の高さにおののきながらついていくと、柱の陰に引き込まれた。
 くるりと後ろを向かされる。

「ちょっと、なにするんですか」
「静かにしてくれ。注目を浴びるのは君も困るだろう?」

 彼は琴乃の帯をなにやら弄っているようだ。身体に触れられているわけではないので、おとなしくすることにした。

「下手だな。誰が着付けした?」

 頭のすぐ後ろで低い声が響く。急に胸の鼓動が激しくなり、琴乃は唾をのんだ。

「あ、あなたに言う必要はありません……! あの、周防さんはご自分で着られるんですか?」
「たまにね。俺は女性の着付けは帯を直すくらいしかできないが、兄弟は女性の着付けもできる。脱がせたらまた着せなければならないから、自然と覚えたようだ」

 あまりにあけすけな話に思わず彼を振り返る。が、整った顔が近すぎて、慌てて前に戻した。
 初対面の女性に対してなんてことを言うのだろう。しかも相変わらずの無表情。兄弟だけでなく、彼自身も女遊びが激しいのだとしたら、いくら裕福な人でもますます結婚したくない。

「できたよ」

 耳をくすぐる声が甘くて、琴乃は逃げるように距離を取った。悔しいことにいい匂いまでする。

「あっ、ありがとうございました! では」

 ぶっきらぼうに礼を告げ、すたすたと足早にラウンジを出た。
 今日はこのまま母を置いて帰ろう。母には文句のひとつ、いや、三つも四つも並べて非難してやりたいが、とにかく今はひとりになりたい。
 ラウンジを出て、ホテルのエントランスへ向かう。ところが、いくらも進まないうち、隣にぬっと影が落ちた。

「ついてこないでいただけますか?」

 前を向いたまま言い放つ。

「別につきまとっているわけじゃない。ここにはもう用がないから社に戻るだけだ。ところで、そんなに急いで歩くとまた着崩れるぞ?」

 面白そうな口調に、つい周防の顔を見上げる。
 しまった、と思ったけれどあとの祭りだ。こちらをからかうように浮かべた笑みの、なんとも色っぽいこと。
 顔に血が集まる気がして、琴乃はいっそう足を速めた。が、歩幅の大きい周防に先を越されて立ち止まる。

「ちょっ――」

 行く手を阻まれるかと思いきや、なんのことはない、単にガラスのドアを引いてくれただけだった。

「どうぞ。会えて嬉しかったよ」
「わっ、私は嬉しくなんかなかったですっ」

 スマートに道を譲る周防の脇を通り抜け、真冬の屋外へ足を踏み出す。
 目の前の車寄せで客待ちをしていたタクシーに飛び乗ると、すぐに行先を告げてホテルをあとにした。



   第二章 堅物社長の秘書になったのでした


 週が明けた月曜日。
 琴乃はヒールをカツカツと鳴らしつつ、寒空の中会社へ向かう通りを歩いていた。
 自宅からトーサイ物産までは、ドアツードアで三十分。母は『タクシーを使いなさいな』などと、とんでもないことを言うが、自宅も会社も駅に近く、これくらいはなんてことない距離だ。
 昨日、先に自宅へ戻った琴乃は早々に着物を脱ぎ、居間で母、悦子の帰りを待ち構えていた。
 もちろん、顔を見るなり大喧嘩だ。といっても、怒っているのは琴乃だけ。蝶よ花よと育てられた悦子はおっとりした性格につき、暖簾のれんに腕押し。かえって琴乃の怒りがヒートアップして、ストレスが溜まる一方だった。

『私は結婚なんてしないって、いつも言ってるじゃない』

 と言えば。

『あらぁ、周防さんみたいな方、どこを探したっていないわよ? 素敵な方だったでしょう? イケメンだし』
『イケメンだろうがブサメンだろうが関係ないの。私は一生独身を貫くんだから』
『もしかして琴乃、まだ央士おうし君のことが好きなの?』

 ギクッ。
 にこにこと無邪気な笑みを浮かべる母を前に、琴乃の心はスッと冷えた。さすが母親。会話が膠着こうちゃく状態に陥った時、なにを言えば琴乃が黙るか知っているのだ。
 坂本さかもと央士は、今も近所に暮らす同い年の幼なじみである。
 最初の出会いはふたりがまだよちよち歩きの頃。もちろんその頃の記憶はないが、幼稚園、小学校をともに過ごしつつ、子供らしい愛情を育んできた。その後は私立の中高一貫校にも一緒に通い、大学は別々になったけれど、いつしか大人の付き合いになり、将来は結婚するものと思っていたのだが……
 その関係に突如ヒビが入ったのは四年前、琴乃が二十四歳の時だ。
 その年の春、央士との結納を一週間後に控え、琴乃は幸せの絶頂にいた。数十年にわたり家族ぐるみの付き合いをしてきた両家だったから、とんとん拍子に結婚へと進んでいたのだ。
 式は由緒正しい神社で神前にて執り行い、披露宴は都内のホテル。選んだ白無垢やドレス、引き出物のカタログを眺めては、指折り数える日々だった。
 しかし。
『話がある』――央士にメッセージアプリで呼び出された琴乃は、いそいそと指定された喫茶店へ向かった。きっと披露宴での余興の打ち合わせに違いない。学生時代の友達の出し物が被らないようにと彼は気にしていたから。
 ところが、喫茶店のドアを開けてみると、隅の席に縮こまる彼の隣には見知らぬ女性がいた。身長が百六十センチ以上ある琴乃よりもだいぶ小柄な若い女の子だ。歳は二十歳そこそこといったくらいだろう。ふんわりとしたガーリーなボブヘアにアイボリーのセーター。柔らかなその雰囲気はいかにも男受けよさそうだが、真っ赤なルージュがやけに不似合いだった。彼女は、いったい央士のなんなのか。


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