オオカミ御曹司と極甘お見合い婚

ととりとわ

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1巻

1-2

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 琴乃が戸惑いながら席に着くと、央士は目も合わさずにいきなり頭を下げた。

『ごめん。お前とは結婚できなくなった』
(……は?)

 唖然とする琴乃の前で、小柄な女性が央士の腕をそっと握る。
 その瞬間、これからなにを言われるのかなんとなくわかり、愕然がくぜんとした。けれど、実際の内容は、予想していたよりもはるかに厳しい仕打ちだった。それこそ、天国から地獄の底まで一気に突き落とされるような。

『彼女が妊娠しちゃってさ……。俺、こいつと籍入れるから』

 央士が小声で口にした途端、琴乃は立ち上がり、彼に向かっておひやをぶちまけた。
 ……そこから先は、自分がなにを言ったのか、なにをしたか、まったく覚えていない。ただ、今にも泣き出しそうなふたりの顔と、彼らが飲んでいたココアの匂いだけが、記憶にこびりついて離れない。もちろん、今も。


 あれから早四年。社会人生活も六年を過ぎればもうすっかり大人だ。琴乃はコートに突っ込んだ両手を、爪が食い込むほど強く握りしめた。
 あの日、一生結婚はしないと心に誓った。恋だってしていない。
 だけど、母が尋ねた『彼を今でも好きなのか』という問いかけに対する答えはノーだ。
 二十年以上想い続けた央士だったけれど、今ではなんとも思っていない。というより、記憶から消したいくらいだ。ふたりが別れた理由を知らない母には、たびたび央士との思い出話を持ち出されて辟易へきえきしている。
 あの時彼女が身ごもっていた子供は、もうとっくに歩いている頃だろう。彼らは央士の実家の敷地内に構えた新居で暮らしているそうだが、意外にも会わないものだ。
 大丈夫。間違って外で出くわしたりしない限り、これ以上傷つくことはない。だけど、もう誰かを好きになったり、期待するのはやめた。裏切られた時の絶望に耐えられる自信がないから。
 会社に到着し、通用口から入った琴乃は、最上階にある社長室へエレベーターで向かった。
 トーサイ物産は、幕末にできた廻船問屋かいせんどんやに端を発する、歴史ある商社である。
 昭和の初期まではいわゆる大手として、貿易や商品の取引、原料の調達などを一手に引き受けていた。しかし、戦後に台頭してきた同業者に次々と先を越され、今では国内で十本の指に入るかどうかといったところだ。
 琴乃がこの会社に入ってから半年がたつ。前にいた会社でも同じく社長秘書をしており、業界団体の集まりで出会ったトーサイ物産の社長から声をかけられ、引き抜かれたのだ。
 ビルの十八階に着き、琴乃は社長室のドアをノックした。

「失礼いたします。社長、おはようございます」
「ああ、おはよう。今日はいつもより少し早いね」

 恰幅かっぷくのいい身体に纏ったダブルのスーツの前を留めながら、社長の青野あおのが立ち上がる。彼はなにか書き物をしていたらしい。

「今日はやることがたくさんあるので早めに家を出ました。社長こそ、いつも早くからありがとうございます」
「いやいや、歳を取ると早起きになっていかんね。ところで、今日は君に折り入って話があるんだ。ちょっとそこへかけてくれ」 
「は、はい。……わかりました」

 素直に従って応接用のソファに座ったものの、なんだか落ち着かない。社長とは事務的なやりとりはしても、こんなふうに個人的になにかを話したことなんてないのだ。

(なにかミスでもやらかしたかな……)

 思い当たる節はないけれど、なにせ入社してまだ半年だ。社長のスケジュール管理はともかく、社内規定みたいな細かいことに関してはまだ知らないことがあるかもしれない。
 目尻に皺を寄せて正面に座る青野の顔を、じっと見る。彼は至って上機嫌だ。

「君が秘書についてからもう半年か。早いなあ」
「あっという間のことで私も驚いています。まだまだ至らぬ点が多くて申し訳ありません」

 座ったまま頭を下げる。

「いや、君は仕事の覚えも早いし、とても有能な秘書だよ。それでだ……時間がないから単刀直入に言おう。急で悪いんだが、君には今日限りでここを辞めてもらうことになった」
「ええっ」

 琴乃は目を丸くして絶句した。
 なぜ? どうして? なにか落ち度があったのなら、まずは叱責しっせきを受けるのが普通だ。いきなり解雇だなんて、と衝撃のあまり頭が真っ白になる。
 琴乃は、ここ最近の自分の行動や仕事ぶり、来客応対について素早く考えを巡らした。金曜は社長に同行して他社の訪問と雑務、それから新しい会社案内の社長挨拶文などを作っていた。木曜は確か……
 だめだ。混乱した頭ではたった数日前のことすら思い出せない。

「すまないね。驚いただろう」

 気遣うような青野の声にハッとする。目の前に座る彼の眉は下がり、非常に申し訳なさそうだ。一度深呼吸してから震える唇を開いた。

「あ、あの……いったいどういうことでしょう。私になにか不手際でも……?」

 それは違う、と青野は顔の前で手を振った。

「君はこれまで本当によくやってくれたよ。さっきも言ったが非常に優秀だし、私のわがままでこの会社に来てくれて感謝している。本当はずっとここにいてもらいたいところなんだが――」

 ドアがノックされ、青野が急に言葉を止めた。

「おお、ずいぶん早い到着だな。どれ」

 いそいそと入り口へ向かった彼が、重厚なドアを自ら開ける。

「お待ちしておりました」
「どうも」

 背の低い青野の向こうに立つ人物を見て、琴乃は息をのんだ。青野が招き入れたのは、昨日の見合い相手、周和セキュリティの社長の周防である。相変わらず大きい。青野の身体が彼の中にすっぽりと収まってしまいそうだ。
 周防はよく磨かれた靴のかかとを鳴らしつつ、青野に勧められてソファに座った。琴乃の真正面、さっきまで青野がいた席に。

「おはよう。昨日はどうも」

 例の甘く響く声が鼓膜を揺さぶり、首筋が熱くなる。まずい。彼を前にして赤くなるところなど見られたくない。

「おっ、おはようございます。ただ今、お茶をお持ちしますので」

 急いで立ち上がったが、脇をすり抜けようとした際にがしりと腕を掴まれる。

「君にも同席してほしいんだ。座ってくれ」

 周防の目力が強い。琴乃が青野を窺うと彼も頷いたため、仕方なく元いた席――今は青野がいる隣に座った。

「周防君とは彼のお父さんの代からの古い付き合いでね。ほら、うちも古い会社だろう? もともとうちが業界団体の長をしている時に、周防グループが参入してこられたんだ。それで、さっきの話の続きだけど」

 青野がいったん言葉を切って、周防に目配せする。

「これから君は、周防君のもとで秘書をすることになる」
「……はい?」
「いやあ、周防君たっての希望だと言われてしまっては断れなくてね。でも大丈夫。きっとうちよりも待遇がいい」

 不自然な笑みを浮かべる青野を見て、琴乃は眉をひそめた。
 たっての希望ということは、青野が琴乃を所望した時のように、周防が彼に頼み込んで引き抜きをしたのだろう。しかし琴乃には、今も真顔で、若干ふてぶてしい態度で座っている周防が、頭を下げるタイプにはとても見えない。
 こうして自分の処遇を勝手に決められるのは、当然納得がいかなかった。
『女の子があくせく働かなくてもいいんじゃない?』と言う母を見返すため、自立したくて一生懸命働いてきたのだ。
 前の会社で五年、今の会社に引き抜かれてまだ半年。やっと仕事を覚えて、これからもバリバリ働いてくれ、と青野にも言われていたのに。

「青野さん、今日はこのまま彼女を連れていってもよろしいでしょうか? 私の会社を案内したい」

 よく響く周防の声で現実に引き戻され、琴乃は勢いよく立ち上がった。

「待ってください! 私の意思も聞かずに決められても困ります。私は青野社長のもとでもっと働きたいんです! 青野社長だって、きっと――」

 すっと肩に手を置かれて横を見ると、苦い顔をした青野が立っている。

「君にはすまないことをした。私にもっと力があればよかったんだが……。周防さん、壇さんをよろしくお願いしますよ」
「もちろんです」
「社長!」

 青野のスーツに向かって伸ばした琴乃の手は、虚しく宙を掴んだ。そしてその手を掴んだのは、周防の肉厚な手だ。

「行こうか」

 彼のほうへ引き寄せられそうになり、慌ててソファの上のバッグを取る。
 こうして半年間お世話になった青野への挨拶も、秘書室への別れもままならぬうちに、琴乃はトーサイ物産を追い出された。
 エレベーターホールへ向かう琴乃の隣には、自分より頭ひとつ分以上も背の高い、山のような体躯たいくの男。琴乃がずんずんと大股で歩いているにもかかわらず、ゆっくりとした足さばきでついてくる。

(まったく、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。絶対に認めないんだから!)

 彼がつけている香水のいい匂いも、ぴかぴかに磨かれた革靴が奏でる足音も、衣擦れの音すらも憎らしい。
 琴乃はつんと前を向いたまま、ぶっきらぼうに口を開く。

「私をお金で買ったんですか?」
「金で? なぜそう思う」
「うちの会社が業績予想の下方修正を行ったことはご存じでしょう? 困っている青野社長に、なにか手を回したんじゃないかと思って」

 エレベーターホールに到着し、琴乃は重役専用のエレベーターのボタンを押した。ふふん、と周防がせせら笑う。

「言うね。君にはあとで教えようと思っていたが、業務提携を結んだだけだ」

 到着したエレベーターに乗り込み、ドアが閉まった。すると、周防がいきなり琴乃の後ろの壁に手をついたので、ハッと息をのむ。
 彼の顔が近い。息がかかりそうなほどに。

「それから、『うちの会社』じゃない。それを言うなら『前の会社』だ。君はもう俺のものになったんだから」

 彼はそう言って、狼みたいに鋭い、黒々とした瞳で射貫いぬいてきた。俺のもの、という言葉の響きに、全身が火を噴きそうになる。
 大柄な男性と密室でふたりきり。しかも相手は、自分を伴侶にしようと思っている男だ。その男性からこんなふうに情熱的に迫られているのだから、どきまぎもする。
 しばらく彼の強い眼差しから目を離せずにいたが、ぱっと顔を背けると、やっとのことで口を開く。

「あっ、あの……や、やめていただけますか? そんな、物みたいな言い方」

 かすれた声には、さっきまでの勢いのかけらもない。
 その時、自分はこの男がどうも苦手らしいと悟った。なのに秘書になるだなんて……先が思いやられる。


 周和セキュリティの本社ビルは虎ノ門にあった。琴乃と周防を乗せた運転手付きの黒塗りの車は、三十分ほどでそこへ到着し、立体駐車場に吸い込まれていく。

(うわ、すごっ……!)

 車窓からちらりと見えた社屋の外観に、琴乃は格の違いを見せつけられる思いだった。
 二十五階建てのビルは窓という窓がぴかぴかに磨き上げられ、建物の正面がまるで一枚ガラスでできているみたいに見える。おそらく、エントランスもホテルと見紛うほどに広く、洗練されているのだろう。歴史だけが取り柄のトーサイ物産の本社とは比べ物にならない。
 そのエントランスを見ることなく、周防に付き従って駐車場に直結したエレベーターに乗り込む。ぐんぐん上昇していくガラス張りの高速エレベーターの中からは、下界を行き交う車や通行人の姿が見えた。

「このビル全体を周和セキュリティが使っているんですか?」

 どんどん高くなっていく景色を見ながら、琴乃が尋ねる。

「まさか。うちが使っているのはたった五フロアで、ほかはグルーブ企業に貸しているよ。この業界はネットワーク化が進んでいるし、支店があちこちにあるから本社機能はそれほど人がいらないんだ」

 ポーンと電子音がして、目的のフロアへの到着が知らされる。エレベーターのドアが開くと、すぐ目の前によく磨かれた重厚な木製扉があった。

「社長室だ。俺は不在にしていることも多いから、自由に出入りしてくれて構わない」

 周防がドアを開けた途端、視界が明るい陽射しに包まれた。
 琴乃は思わず目をすがめたが、眩しさに慣れてくると、そこがまるでリゾートホテルのラウンジを思わせるような空間であることがわかる。
 社長室はビルの角にあたる部分にあるらしく、天井から足元までを占める、大きな窓が二方向にあった。そこからさんさんと降り注ぐ陽光が、モンステラやアレカヤシといった観葉植物の影を白い絨毯の敷かれた床に落としている。
 広さは琴乃の家の約十帖ある玄関が、四つは収まりそうだ。トーサイ物産の社長室の何倍も広い。にもかかわらず、応接用だろう高級感あふれるセンスのいいソファセットと、難しそうな書物が並ぶ本棚があるほかは、たいした什器もない。机すらない。

「どうした? びっくりしたような顔をしているな」

 頭の上で低い声がして、琴乃は周防を振り返った。

「いえ……あの、周防さんはこちらでお仕事をされているんですか? 机や椅子が見当たらないもので」

 窓際まで歩いていった彼は、ブラインドを下ろしながら不敵な笑みを浮かべた。

「俺はノートパソコン一台あればそれでいいんだ。書類はすべてその場で決裁する。迷ったり、誰かに相談するのは時間の無駄だ」
「そうですか……」

 この自信はいったいどこから湧いてくるのだろう。出自? 肩書? それとも、この恵まれた容姿から?
 万が一――いや、万にひとつもないけれど――本当に結婚することになったとしたら、彼のいろいろな面を知ることになるのだ。好きなものや嫌いなもの、美しいと思うもの、嫌悪するもの。それから、癖や嫌なところまで全部。
 ほとんど表情を変えない周防が本当はどんな人柄なのか、どんなものに心を動かされるのか、今のところ見当もつかない。とりあえずこの社長室の様子からして、きれい好きであることだけはわかったけれど。
 部屋は横にやや長く、左手の突き当たりにはもうひとつドアがあった。無言でそちらへ進む彼についていく。社長室と同じ木製のドアの前で彼は足を止めた。

「ここが秘書室だ」

 周防の手がドアノブにかかり、琴乃の全身に一瞬緊張が走る。ドアの向こうは静かなものの、これだけの大企業の社長に秘書がいないはずがない。
 ドアが開いた瞬間、琴乃は勢いよく頭を下げた。

「はっ、はじめまして! 今日からお世話になります、壇琴乃と申します!」
「……急にどうした?」 

 周防の声に顔を上げたところ、目の前には人なんかいなかった。
 代わりにあるのは、積み上げられた段ボールや事務机、椅子や棚など。どうやら倉庫として使われているらしい。

「あ、あれ? 秘書の方たちは……?」

 ほかに続き部屋でもあるのだろうか、と室内を見回す。

「どういったわけか長続きしなくてね。前の人が辞めてしまってから、秘書を置いていない。ここはすぐに片付けさせるから、君は社長室と秘書室のどちらも自由に使ってくれ」

 琴乃は、えっと声を上げた。

「秘書がいない? スケジュール管理や雑務はどうしてるんですか?」
「アプリと端末を駆使して自分で管理しているよ。雑務があれば各部署に依頼する」

 思い切りいぶかしんで尋ねたのに、彼の顔には相変わらずなんの気持ちも表れない。
 前の秘書は何故辞めたのだろう。淡々としているように見えて実はとんでもないパワハラ上司なのか、それとも手を出してトラブルになったのか……。いずれにしてもいい傾向ではない。こんな男の秘書になるなんて、やはりごめんだ。

「社長業をしながらご自分のスケジュール管理までされるなんて、よほど時間の使い方がお上手なんですね」

『古巣』の青野社長は第三秘書までもっており、秘書間での打ち合わせも綿密にしていた。すべて自分でやるなんて、そんなことできるわけがない。
 嫌味のひとつも言えたおかげで、琴乃はしてやったりのつもりでいた。しかし。

「人間は信用ならない。俺の兄は、秘書が敵対する政党に情報を漏らしたせいで尻拭いに奔走することになった。弟の会社で大規模な横領をしたのは、腹心と思っていた部下だ。人を信じると足をすくわれる」

 そう言った周防の顔があまりに冷酷だったため、思わず息をのむ。
 かわいそうな人――琴乃の頭に真っ先に浮かんだのがその考えだ。確かに彼は、富も名声も、容姿にも恵まれている。けれど、今の周防の表情からは、とても幸せそうな人生を歩んでいるようには思えない。
 自分の目線よりもだいぶ高い位置にある彼の瞳に、琴乃はじっと目を向ける。

「それで秘書を置くのをやめたんですか?」
「そうだ。誰であっても俺は信用しない。たとえそれが親兄弟でも」
「な、なるほど。では、私を秘書として雇うのはどうしてでしょう。理由を教えてください」

 周防の双眸そうぼうが、すっと細くなる。

「気まぐれ……と言ったら君は納得しないだろうな。今、我が社では事業拡大のために、各部一丸となって事に当たっている。そのため、俺も多忙を極めていてね。だからやはり秘書がいたほうがいいと思うようになった。……この説明では不服か?」

 琴乃はぐっと顎を上げて、ついでに眉も上げた。

「いいえ。とてもまっとうなお考えだとは思います。でも、私でなければならない理由にはなりません」
「俺は君がいいんだが……よし、言い値を出そう。いくら欲しい?」
(は?)

 琴乃が難色を示しているのは、自分が給料を明示しないからだと思っているのだろうか。だとしたら彼はとんでもない勘違いをしている。
 しかし考えようによっては、これはまたとないチャンスだ。うまくやれば、秘書になる誘いも見合いも、体よく断ることができるかもしれない。

「給与面の折り合いをつけることは大事ですものね。では、大変不躾なことをお伺いしますが――」

 琴乃はわざともったいぶって、彼の周りをゆっくりと回った。

「前にいらした秘書の方はどれくらいで?」

 なんだ、そんな質問か、とばかりに彼が鼻を鳴らす。

「前の秘書は君より少し年上だったが、確か年俸にしてこれくらいだ」

 グローブみたいな手がぱっと広げられる。示されたのは片手の指五本。つまり、五百万だ。
 琴乃は意識して無表情を装った。青野のもとにいた時よりずいぶん多い額だ。

「なるほど。この職種としては少なくはないと思いますが……では、これでどうでしょう?」

 琴乃はぴたりと足を止め、唇を引き結んだ彼の顔の前に、両手をパーにして広げた。
 一千万は秘書の年収としては破格だ。外国語に堪能だったり、よほど専門的な分野の知識がなければまずあり得ないだろう。
 これまでほとんど表情を動かさなかった周防の眉がぴくりと動く。嫌な予感だ。

「いいだろう。君を手元に置けるのなら安いものだ」
(んんっ!?)

 琴乃は目を丸くして、息を吸い込んだ。周防が即断したことにも驚いたが、『君を手元に置く』だなんて――
 前触れなく放たれた執着めいた言葉に、つい頬が染まる。ついでに理性までふっ飛んだ。

「どっ、どうしてそこまで私に執着するんですか? 嫌々お見合いした相手でしょう!?」

 動揺のあまり食ってかかると、周防が眉を寄せる。

「嫌々? 俺がそんなこと言ったか?」
「だって、誰でもよかったって――」
「まあ落ち着け。君を伴侶にすると決めた以上、青野さんのところには置いておけなかったんだ。彼になにもされなかったか?」

 思ってもみない言葉に、自分が急に冷静になるのを感じた。気がつけば周防に両手首を握られており、慌てて引っ込める。

「青野さんに? 特になにも」

 そう答えると、彼の浅黒い顔に浮かぶ緊張感が明らかに和らいだ。

「そうか。ならいいんだ。彼ももう七十歳に近いと思うが、いまだに手が早いという噂があるのでね」
「そんなふうには見えませんでしたけど……」

 言われてみれば、琴乃以外の秘書は二十代前半の若い女性ばかりだった。おまけに美人で、ボンキュッボンのスタイル良し。入って半年しかたっていなかった琴乃には、まだ知らないことがあったのかもしれない。
 けれど、気になるのは青野よりも、『どういうわけか秘書が長続きしない』と話していた周防自身のほうだ。まるで、自分のもとにいれば安全、と言わんばかりだったが……
 入り口に向かって歩き出す彼についていく。

「業界内の噂だ。忘れてくれ。それより、このあと会食の予定があって、それまで少し時間があるから社内を案内しよう」


 社長自ら、しかも忙しいと言っていた周防に社内を案内されるのは、不思議な気がした。
 社長室は最上階の二十五階にある。同じフロアにはほかに使っていない部屋がいくつかあったが、そこは鍵がかかっているらしい。
 周和セキュリティが使っているのは二十一階から上の五フロアだ。階段で下り、最初に訪れたひとつ下のフロアは、大勢の従業員が黙々と働いている。
 周防がドアを開けると、皆一斉にこちらを向いて口々に挨拶した。琴乃の存在に気づいた人たちは男女とも一様に目を見開き、周防と琴乃の顔を見比べる。
 意外なのは、周防が「おはよう」と、きちんとひとりひとりの顔を見て挨拶を返したことだ。

「このフロアには周和セキュリティのブレーンが集まっている。経営企画部、IR室、コンプライアンス部。みんな精鋭ばかりだ」

 彼がこちらを振り返りつつ、ずらりと並んだ机の島を手で指し示す。精鋭と言った彼の声が聞こえたのか、近くにいた社員たちの背筋が伸びた。
 そのあと、それぞれの部長と室長に紹介され、簡単な挨拶を交わしてさらにひとつ下のフロアへ。

「俺が会食に出かけているあいだ、社長室で仕事の準備をしていてほしい。パソコンは応接テーブルの上にある」
「わかりました」
「フロアの紹介が手短ですまないな。また折を見て懇親会なりを開くから」

 階段を先に下りつつ周防が言う。

「そういうことは気になさらないでください。子供じゃありませんので」

 彼は階段を二段ほど残したところでぴたりと足を止め、上半身だけこちらへ向けてぱちぱちと瞬きをした。

「な、なんですか?」
「いや」

 階段を下り切って先へ進む周防の後ろ姿を、琴乃は睨みつけた。なんだかバカにされている感じがするのは気のせいだろうか。

(そりゃあ、周防さんからしたら子供だろうけどさ)

 二十八歳は大人なのか、子供なのか。二十歳の頃は、二十八歳なんてものすごく大人に思えたものだ。しかし、自分が今の歳になって振り返ってみると、二十五でもまだまだ子供だったように思う。
 ほのかな悔しさをいだきつつ彼の後ろを歩いていると、廊下の先から女性社員がふたり歩いてきた。彼女たちは周防の姿を認めた瞬間に笑みを咲かせ、次に後ろにいる琴乃に気づき、眉をひそめた。

「おはようございます」
「おはよう」

 周防を見上げる彼女たちの瞳には、明らかな好意が宿っている。が、彼の横を通過し、琴乃のパーソナルスペースに入った途端にスッと真顔に戻り、あらぬ方向を向いてしまう。

(あらら……)

 これは敵意に違いない。さっき上のフロアでもなんとなく感じたけれど、周防は女性社員の人気の的のようだ。
 ……まあ、このルックスと体格に、次期グループ総帥そうすいという肩書がついてくるのだから無理もないけれど。
 上層五フロアを回ったのち、エレベーターで一階まで下りてきた。その間ずっと、男性社員からは好奇心、女性社員からは好奇心と敵対心がない交ぜになったような視線を浴びながら。
 周防がサッと腕を動かし、腕時計を見る。

「会食相手の社長は時間に正確だから、あと十分ほどあるだろう。受付に紹介する」
「は、はあ」


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