オオカミ御曹司と極甘お見合い婚

ととりとわ

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1巻

1-3

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 彼の腕時計に釘付けになっていたせいで、返事がうわの空になった。
 スリーピースのスーツもネクタイも、すごく上等なものだとは思っていたけれど、琴乃にはその値打ちがわからない。しかしあの腕時計がいくらくらいするものかは知っている。世界に数本しかなく、石油王や、事業で巨万の富を築いた人しか持っていないのだと、テレビで紹介されていたからだ。

(いったいどんな生活をしているんだろう)

 住まいはやはり、都心の夜景が一望できるタワーマンション? それとも、閑静な高級住宅街に建つ豪邸なのか……
 車はきっと外国車に違いない。しかも、とびきりラグジュアリーなものばかりを、目的別に何台も持っていそうだ。
 何台もの大きなエレベーターが並んだ通路を抜けたところが、エントランスホールだった。最初に想像していた通り洗練された内装に、琴乃は目を輝かせる。
 壁も床も白一色で統一された空間は吹き抜けになっており、二階へ上がるらせん状の階段があった。フロア全体が明るいのは、ぴかぴかに磨かれた曲線状のガラス面から、外の陽射しが降り注いでいるためだ。ここでなにか催し物でもできるのではないかと思うほど広いフロアには、ちょっとした打ち合わせに使えそうなテーブルと椅子のセットがいくつかある。
 巨大な自動ドアの正面にあるカウンターへ周防は向かった。そのあとを小走りについていくと、カウンターの席にいた受付の美しい女性ふたりが立ち上がる。

「おはようございます」
「おはよう」

 手前にいる女性のにこやかな挨拶に、彼はほかの社員に対するのと同じような顔――厳めしい表情で応じた。女性の目がこちらを向いたので思わず身構えるが、彼女からはこれまで会った女性社員のような険は感じられない。

「今日は新人を連れてきたんだ。急だが、私の秘書につくことになった」

 大きな手が目の前に差し出され、琴乃は両手を前で合わせて腰を折る。

「はじめまして。壇琴乃と申します。よろしくお願いいたします」
「受付のたい由奈ゆなです。わからないことがあったら、なんでも聞いてくださいね」

 にこっ、と愛らしい笑みを返された瞬間、胸にかかっていた霧がぱあっと晴れる思いがした。
 張り詰めていた緊張の糸が緩む。まるで、長らく歩いていた砂漠にオアシスでも見つけたように。

(平良さんか……。年齢も近そうだし、仲良くなりたいなあ)

 琴乃は次に、由奈の奥にいた彼女よりも少し年上に見える女性に視線をずらした。一瞬だけ目が合ったものの、すぐにそれは逸らされてしまった。

(あれ?)

 怖気づきそうになる心を奮い立たせ、負けずに頭を下げる。

「壇琴乃です。よろしくお願いします」
まちさゆりです」

 名前だけ告げて、彼女はカウンター内の机の整理を始めてしまった。
 由奈と比べるとだいぶ淡白な挨拶だが、気のせいだろうか。年齢ゆえの落ち着きならいいのだけれど、美人であるがゆえに冷たさが際立ってしまう。
 由奈はゆるふわなかわいい系、さゆりはクールビューティー系。来客のあいだでも好みが二分しそうだ。

「よかった。秘書の仕事は引き受けてくれるんだな」

 こちらを振り返った周防の口角がにやりと上がるのを見て、琴乃は「あっ」と声を上げた。つい流れで新任らしい挨拶をしてしまったけれど、そういえば、まだ秘書になることを承諾していない。

「えっと、それはですね――」

 しどろもどろになっている横で、受付のふたりがビルの入り口に向かって深々と頭を下げる。周防の視線がすぐにそちらを捉え、間もなく巨体が目の前から消えた。自動ドアをくぐってやってきたのは、部下と思われる若者を従えた初老の男性だ。

「お待ちしておりました。わざわざご足労いただきましてありがとうございます」

 周防の言葉からして、あの男性が約束していた会食の相手だろうか。頭を下げた琴乃が顔を上げると、彼らはもう自動ドアの向こうへ姿を消していた。
 琴乃は、ふうと息をつく。
 今朝から――いや、初対面の見合いから、これまでのところ軍配は周防に上がっていると言っていいだろう。しかし、このまま彼のもとで働くのは負けを認めるようでしゃくに障った。かといって、トーサイ物産に戻れるわけもなく。

(新しい働き口を探すのも大変だしなあ……)

 面接があまり得意でない琴乃にとって、転職は高いハードルである。が、職を失おうものなら、『そら見たことか』と母に言われるだろう。となると、腹立たしくはあるけれど、とりあえず周防のもとで働くしかないのでは……

「……さん。壇さん。壇さん、ってば」
「はっ、はいっ!」

 考え事をしていたせいで、呼ばれていることに気づくのが遅れた。振り返ったところ、カウンターから出てきた由奈が、きらきらと目を輝かせてこちらを見ている。

「すみません。なにか御用でしょうか?」
「またまた、そんな堅苦しい言葉遣いしないで。ね、檀さんお昼まだでしょう? 一緒にランチに行きませんか?」
「ランチですか? ……あっ、もうこんな時間」

 腕時計を確認すると、十一時半を回っている。

「私たち、どちらかがここに残らなきゃならないんで、ちょっと早いんですけどよかったら」
「待って。私お財布を上に置いてきてしまって――」

 こほん、とわざとらしい咳ばらいが響いた。

「ふたりとも、外から見える場所でおしゃべりしないで」

 町田の鋭い目がこちらを睨みつけ、琴乃はすくみ上がった。しかし由奈ははーい、と事もなげに言って、小声で囁く。

「近くにおいしいお店があるんですよ。すぐに席が埋まっちゃうから急がないと」

 そう言って由奈は、琴乃の返事を待たずに歩き出す。

「ちょっ……平良さん」
「いいからいいから。今日のところはお近づきのしるしに私がおごりますから。ね?」

 振り返った由奈の目がふにゃりと弧を描くのを見て、肩の力が抜けた。彼女のフレンドリーな対応には本当に救われる。

「ありがとうございます!」

 いい友達になれそうな予感に胸を高鳴らせつつ、琴乃は小走りについていった。


(やっぱり、持つべきものは歳の近い同僚だなあ)

 ランチを終えて会社に戻ってきた琴乃は、ぐんぐん上を目指すエレベーターの無機質な箱の中で、陽気に鼻歌まで歌っていた。
 由奈に連れられたのはおしゃれなイタリアンで、おすすめというだけあって最高においしかった。ランチセットにはプチデザートまでついていて、大変コスパもいい。おまけに話も弾み、転職初日とは思えないほど楽しい昼休みだった。
 受付の平良由奈は、やはり琴乃と同い年だった。思った通り気さくな人で、もう『由奈ちゃん』『琴乃ちゃん』と呼び合う仲だ。互いの出身校や部活動、趣味まで語り合ったからには、すでに友達と呼ぶにふさわしい。琴乃との結婚を決意しているらしい周防よりも、由奈のほうが琴乃について詳しいのでは、と思う。
 彼女の話によると、もうひとりの受付嬢である町田さゆりは、四つ年上の三十二歳だそうだ。多少とっつきにくいところもあるけれど、悪い人ではないとのこと。ただ――

『さゆりさんって、ちょーっと気難しいところがあるんだよねえ。仕事柄、横柄な態度のお客さんに文句を言われたり、トラブる時だってあるじゃない? そういう時、八つ当たりされることがあるの』
『そうなんだ……。あの、こんなこと聞いていいかわからないんだけど、周防さんの前の秘書はどうして辞めちゃったの?』
『さあ……気づいたらいなくなってたんだよねえ。……あ。もしかして、さゆりさんが嫌がらせしたとかだったりして。なーんて、冗談、冗談!』

 楽しそうに言って、由奈はデザートのカタラーナをぱくりと頬張る。
 その彼女を前に、琴乃は妙な愛想笑いを浮かべるしかなかった。もしも自分が嫌がらせの標的になったら、たまったものじゃない。
 あの初対面時の態度は、ちょっと機嫌が悪かっただけだと思いたい。あるいは人見知りなのか……
 エレベーターが二十五階に到着して、琴乃は社長室のドアを開けた。秘書室は倉庫状態のため、応接セットのソファに座る。テーブルに置いたのは、受付でもらってきた投資家向けのIR情報冊子やカタログなどの資料だ。まずはパラパラと資料をめくり、ざっと眺める。一巡したのち、今度はじっくりと読み込み、重要と思われるページには付箋を、さらに該当箇所にマーカーでラインを引いていく。
 大抵のことはweb上で済まされる時代において、こうした紙媒体での資料を用意してあるのはありがたかった。対象の顧客が比較的高齢なのだろうか。

「さて、使っていいって言われたパソコンはこれかな……」

 スーツの上着を脱いで脇に置き、テーブルの上のノートパソコンを手元に寄せる。
 社長秘書たるもの、今日の株価や週足くらいは押さえておきたい。ざっくりと見て回った各部署についても、今どきはホームページのほうが詳しいだろう。
 パソコンのスイッチを入れ、カーソルをブラウザに合わせた。……が、先にメールの確認をしておくべきだと思い立ち、デスクトップにあるアイコンをクリックする。前の職場では、出社して一番にすることがメールの確認だったからだ。
 受信トレイには、未読メールが八件あった。ほかの役員からの『お伺い』が数件と、銀行、企業団体からの会合の誘いなど。

「ん?」

 その中に、明らかに個人と思われる差出人のメールがあり、目を留める。差出人の名前は『しまのり』。周防の個人的な知り合いだろうか?
 社長宛てのメールの確認は秘書の仕事だが、プライベートにまで踏み込む必要はない。とはいえ個人的な知り合いであれば、普通はスマホにメールを送るはずだが……
 うんうんと唸りつつ考えたのち、結局メールを開けることにした。もしも個人的な内容だったら未読に戻せばいい。
 ところが、その内容を目にした瞬間に、思わず息をのんだ。

『思いあがるな』

 宛名もタイトルもないメールには、ただ一文そう書かれている。
 琴乃は後ろを振り返り、きょろきょろと見回した。誰もいない。当たり前のはずなのに、何者かに見張られているような。

(違う、違う。落ち着いて。これは私宛てじゃなく、周防さんに届いたメールなんだから)

 どきどきと音を立てる胸を押さえ、ほかになにか手掛かりがないかと確認する。けれど、ドメイン名は社外のもの――おそらく使い捨てのメールアドレスだし、同じ差出人から過去にメールが届いた形跡もない。
 大々的に宣伝もしている大きな会社だから、おかしな言いがかりややっかみも多いだろう。こんなメールをいちいち気にしていたら、社長なんてやっていられないのだろうけど。
 ――と、突然、ドアがノックされる音がして、琴乃はびくりと飛び跳ねた。来客だろうか。受付を通さずに上がってくるとはいったい……?

「は、はい。ただいま」

 念のためドアを細く開けて様子を窺うと、スーツを着た男性がふたりと、作業着姿の男性が何人か立っていた。

「総務ですが、社長に秘書室を片付けるように言われておりまして」
「あっ、そうなんですね。ではお願いいたします」

 失礼します、と入ってきた総務の男性を筆頭に、廊下にいた人たちがぞろぞろと流れ込んでくる。
 そういえば、すぐに片付けさせると周防が言っていた。自室ができれば少しは落ち着いて仕事ができるだろう。
 彼らが作業しているあいだ、琴乃は窓を開けたり、観葉植物の世話をしたりしていた。荷物が運び出されると、今度は入れ替わりに、大型の什器が入っていると思われる箱が次々と搬入される。
 目の前で組み立てられるそれらの品々に、琴乃は目を輝かせた。真新しいデスク、チェア、書類棚。どれもありきたりな事務用のものではなく、重役室に置いてあるような高級品だ。秘書の自分がこんなものを使っていいのだろうかと思うほど。

「什器の設置終わりましたので、コピー機とパソコンお願いします」

 仕切り役の総務の男性が廊下に向かって指示を出し、待機していたらしい別の業者が入ってきた。
 すでに秘書室にはずいぶんといろいろなものが搬入されたはずだが、物であふれかえってしまわないだろうか。今朝見た時には入り口まで備品が詰まっていたため、どれくらいの広さがあるのかわからない。
 すべての業者がいなくなり、総務の男性が近づいてきた。

「これで搬入は終わりですので、あとはご自由にお使いください。わからないことがあったら総務に内線をいただければ、私が伺いますので」
「なにからなにまでありがとうございます。助かりました」

 差し出された名刺を受け取り、男性をエレベーターまで見送ったあと、社長室に戻ってきた。
 まずは掃除をしなければならないだろう。できれば搬入前に軽く拭き掃除くらいはしたかったが、仕方がない。

「おお……!」

 秘書室のドアを開けた琴乃は、入り口で立ち止まり、感嘆の声を上げた。閉ざされていた室内は、想像していたよりもずっと広く、社長室の半分くらいはある。
 社長室と同様、ビルの角にあたるらしいこの部屋には、開放的な大きな窓がふたつあった。開け放たれた双方の窓からは冬の乾燥した空気が入り込んでいるが、閉め切った時にはあたたかな日差しが降り注ぐであろうことが容易に想像できる。
 部屋は奥に長く、そちらにもドアが見えた。

「いや、ちょっと……素敵すぎない?」

 思わず小さな声でひとりごつくらいには魅力的な部屋だ。
 板張りの高級感あふれる壁にマッチした、大ぶりの書斎机とハイバックチェア。まだなにも収められていない書棚も、重厚でしっかりした造りだ。
 まるでこっちが社長室みたいに見える。もしかしたら現在の社長室は応接室で、ここが本来の社長室だったのかもしれない。
 奥に見えていたドアを開けると、そこは給湯室兼休憩室のような場所だった。キッチンには使った形跡がなく、注意書きのタグや養生ようじょうのためのビニールがついている。でも水は出るようだ。冷蔵庫を開けてみるが、すっからかんだったのでとりあえずコンセントだけ差し込んでみる。ちゃんと冷えるかどうかあとでチェックしなければ。
 ロッカーや棚をひと通り開けてみて、掃除用具を取り出した。まずは掃除機をかけ雑巾で机を拭く。秘書室の掃除が済んだところで、今度は社長室の掃除に取り掛かる。これからは朝の日課にしよう。前の会社では秘書三人がかりでやっていたから、そんなに時間はかからなかったけど、ひとりでやるには早めに出社しなければならないだろう。
 社長室に掃除機をかけ、雑巾でブラインドを拭き、テーブルやドアを拭いていく。
 物が少ないのはいいことだ。前の会社はなにかと旧態依然としたオフィスで、配線や書類棚など雑多なものが多く、埃っぽかったのだ。
 最後に書棚を拭いていると、気になるものが指に触れた。

「なんだろ、これ?」

 書棚の一番上にあったせいで危うく落としそうになったそれを手に取る。棚のひとつに伏せた状態で置いてあったものは、古い写真が収められた写真立てだ。写っているのは、両親と祖父、三人の男児と小さな女の子がひとり。周防の家族だろう。そう思ったものの、妹がいたとは知らなかった。
 成人男性ふたりは厳めしい顔をしており、どことなく周防に似ている。が、子供たちは仲がよさそうだ。周防と思われる中学生くらいの男の子は、白い歯を見せて妹らしき女の子を抱っこしている。

「かわいい……」

 琴乃は思わず笑みをこぼした。あの無愛想な人にもこんな時があったなんて……
『人を信じると足をすくわれる』と冷たい顔で言っていた現在の彼に至るまでに、いったいなにがあったのだろう。
 しげしげと写真を眺めていると、ノックもなしにいきなり社長室のドアが開いた。飛び上がった琴乃は、急いで写真立てを元の場所に戻して振り返る。入ってきたのは周防だ。

「お、おかえりなさい」
「ただいま」

 彼は静かに言って、しばらくその場に立ち尽くした。そそくさと拭き掃除を再開した琴乃だったが、彼の視線がずっとこちらを向いているのが、妙に気にかかる。

(今の、見られた? ……よね)

 ただの家族写真だと思うが、見てはいけないものだったのだろうか。しばらくのあいだ秘書がいなかったようだから、油断していたのかもしれない。

「自分の城には満足したか?」

 琴乃の横を通り過ぎた周防が、ソファの上に脱いだジャケットを放る。咎める気はないらしい。
 手を止めた琴乃は、周防に向き直り、頭を下げた。

「とっても素敵な部屋でびっくりしました。それに、いろいろとご用意いただいてありがとうございます。それで、前の会社に置いてきてしまったものを取りに行きたいんですが」

 ことり、と外されたカフスが、応接セットのテーブルを叩く。周防が腕まくりをしながら、こちらへ鋭い視線を向ける。

「だめだ」

 低くこわばった声に、琴乃は一瞬怯んだ。戸惑いのあまり眉をひそめる。

「……どうしてですか? 文具とか、電卓とか、企業の担当者と交換した名刺だって――」
「必要なものはすべてこちらで揃える。青野さんにもそう話をつけたから、引き継ぎもいらない」

 険しい表情でぴしゃりと断言され、琴乃は続く言葉をのみ込んだ。
 確かに、青野の秘書はほかにふたりもいるし、自分は一番新しいメンバーだったから、抜けてもどうということはないだろう。誰かが急に休んでも困らないよう、打ち合わせも常々完璧に行ってきた。

(でも、だからといって横暴すぎない……!?)

 これまでのところ、なにからなにまで周防の言うがままだ。結婚にしても、転職にしても、お互いの条件がマッチして初めて成立するもののはず。なのに、一方的に彼の希望ばかりを押しつけられるのは我慢がならない。
 琴乃は鼻息荒く、ツンと顎を上げた。

「同僚に別れの挨拶もさせないんですか?」

 周防が負けじと、鋭く睨みを利かせる。

「君は秘書というだけでなく、俺の婚約者なんだぞ? 他の男と密室でふたりきりになることを許すと思うか?」
「婚約者……? お言葉ですが、私はまだ認めておりません」

 周防の腹に胸が触れるほど近づいた状態で、琴乃はフンと鼻を鳴らした。このまま引き下がってなるものか。
 周防は苦い顔をして、しばらくのあいだなにかを考えているようだった。やがてため息をつくと、腕組みをして首を傾げる。

「では、どうしたら俺を認めてくれる?」
(えっ?)

 意外すぎる返答に、琴乃は目を丸くした。こんなに素直に折れてくるとは思わなかったから、なんの答えも用意していない。
 昼休みに由奈から聞いた話では、周防には『女嫌い』との噂があるそうだ。彼に色目を使ってくる女性はあまたいるものの、一切なびいたことがないらしい。プライベートも謎に包まれているため、許嫁いいなずけでもいるのでは、とも囁かれているのだとか。
 そこへ、彼が琴乃を連れて現れたのだ。
 長らく置いていなかった秘書の座に突然納まった女。それは憎かろう。
 午前中、彼に社内を案内された際、女性社員からの敵意を一身に浴びた理由がわかった。ただ、女嫌いとの噂が本当だとしたら、それでも結婚しなければならない周防が気の毒でもある。

「どうしたらいい?」

 再び尋ねられて、琴乃は視線を上げた。こんな尋ね方、まるで子供みたいだ。

「どうしたら、って……これから先、ずっと一緒に暮らしていけると確信が持てないと……」
「具体的には?」

 ずい、と近づいてくるぎらぎらした眼差しに、思わずたじろぐ。

「たっ、たとえば、お互いのことを話したり、一緒に出かけたり……まずは相手のことを知らないとなにも始まらないと思います」
「そうか、なるほどね」

 低く、官能的な周防の声に、琴乃の胸がばくばくと音を立てた。なんだろう、このもやもやする感じ。まるでなにかのスイッチでも踏んでしまったかのような……
 そんな琴乃の不安をよそに、彼は唇の端をにやりと上げる。

「俺もゲームは嫌いじゃない……よし、ひとつ賭けをしよう。俺は一か月以内に、必ず君を陥落させてみせる」

 内心の動揺を隠そうと、琴乃は大げさに頷いた。

「じゃあ、もしもあなたを好きにならなかったら?」
「その時は君の自由にするがいい」
「……わかりました。なんなら、私も参戦しましょうか?」

 周防の眉がぴくりと動く。

「さすがだな。では逆に、君が俺を陥落させたらなんでも言うことを聞こう。それでどうだ?」

 琴乃の頭の中では警戒音が鳴っていたが、今さら尻尾を巻いて逃げることなどできない。はるか高みから見下ろしてくる瞳を見つめ、キッと顎を上げた。

「望むところです」


(あー……なんであんなこと言っちゃったんだろう)

 居心地のいい秘書室。琴乃は高級無垢材でできた真新しい机に突っ伏して、深くため息をついた。
 掲げた左手の腕時計に目をやると、そろそろ夕方の六時になる。あれからすぐに出かけた周防が、戻ると言っていた時刻だ。
 午後のあいだずっと、琴乃は自分の軽はずみな言動に、悶々としていた。
 売り言葉に買い言葉とはいえ、彼にチャンスを与えてしまった。結婚なんてお断り、ましてやお見合いなんて――とあれほど思っていたのに。
 社長室のドアが開く音がして、素早く立ち上がる。入り口まで出迎えに行くと、すぐさま脱いだ上着を手渡された。

「おかえりなさい」
「ああ。いい子にしてたか?」

 思わず周防の顔を確認したところ、からかうような目でこちらを見ている。琴乃は唇を尖らせた。

「もちろんです。子供ではありませんので」
「そりゃ結構」

 琴乃はすでに後ろを向いていたが、小さく笑い声が聞こえた気がして振り返る。けれど、彼はいつもの厳めしい顔つきで袖をまくり上げている最中だ。ちらりと覗いた血管の浮き出た逞しい腕に、慌てて目を逸らす。

(周防さんが笑い声を立てる? ……まさかね)
「ご不在のあいだに、電話が二本ありました。イムラ通商の専務から面会の都合を尋ねるものと、新和第一銀行の頭取とうどりからです。新和第一銀行のほうは、周防さんの携帯電話にかけ直すとおっしゃっていました。ご連絡ありましたか?」

 ああ、と彼は頷き、琴乃の手から上着をもぎ取った。

「今日はこれで終わりにしよう。このあと少し俺に付き合ってほしい」
「付き合う? どこへ――」

 言い終わらぬうちに周防がきびすを返したので、琴乃は急いで荷物を取りに秘書室へ戻った。

「もう、戸締りもまだだっていうのに……!」

 ぶつくさと文句を言いながらパソコンの電源を落とし、留守番電話をセットする。エレベーターホールへ向かうと、周防がスマホを弄りながら待っていた。ちらりと見えた画面はスケジューラーだ。この膨大なタスクを自身で管理していたのが信じられないくらいに、平日はびっしりと埋まっている。

「そのスケジュール、私にも共有していただきたいんですが」

 エレベーターのボタンを押しつつ、琴乃は言う。

「準備しておく」

 会話はそれきりで、エレベーターの中でも、一階に下りてからも、彼は電話をしたりメールのチェックをしたりと忙しそうにしていた。昼間出ずっぱりだったせいで、残務処理があるのだろう。
 地下駐車場で待っていた車の後部座席に、琴乃は周防に続いて乗り込んだ。スロープから滑り出した黒塗りの車は、すぐに都会の街に溶け込んでいく。

(なんか、不思議な気分だな……)

 せわしなく流れていく車窓の向こうでは、きれいに整備された歩道を、まだ仕事中と思われるビジネスマンが歩いている。トーサイ物産は小さな会社だったから雑務が多く、こんなに早い時間に帰れることなどなかったのだ。
 ……とはいえ、これからは今日みたいに早く上がれるとは限らない。いや、逆にそうでないと困る。周防にあんな高額の報酬を要求したからには、それなりの働きをしなければ。
 ところで、この車はどこへ向かっているのだろうか。
 不安を覚えた琴乃は周防を仰ぎ見た。が、彼は難しい顔をして、膝の上で開いたノートパソコンになにかを入力している。ちょうど信号で停まったので、運転手にそっと声をかけた。

「あのー、すみません。行先はどちらで……?」

 初老の運転手が、半分ほど白髪になった頭をこちらへ傾ける。

「社長のご自宅ですが」
「ええっ!」
(なんですって!?)


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