雪解けの前に

FEEL

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 雪湖とこうやって一緒に暮らす事ももう――。

「……ああもうっ」

 真人はわしゃわしゃと頭を掻いてシャンプーに手を伸ばす。頭がこんがらがってきた。
 シャンプーボトルを乱暴にプッシュするが、一向に洗剤が出てこない。そういえば雪湖が詰め替えておいてくれと言っていたのを思い出す。

「ついさっき言われたばかりなのに」

 自分の馬鹿さ加減に笑みを浮かべながらシャワーを止めて洗面所に戻る。
 詰め替え用の容器を取ると雪湖の咳き込む音が聞こえた。

「あいつ、まだ笑ってるのか……」

 ボトルにシャンプーを詰め替えながら真人は愚痴っぽく言う。
 雪湖があそこまで笑ったのは初めてのことだった。真人の渾身のギャグでも普段は鼻で笑う程度だったのだが。恐怖で引きつった顔がそこまで面白かったのだろうか。
 だがまぁ、そこまで悪い気はしていない。経過はどうあれ好きな人を笑わせたというのは少し気分が良い。
 シャンプ―の詰め替えを終了した真人はさっと身体を洗って寝間着に着替えた。

「おかえり。ご飯出来てるわよ」
「うん、ありがとう」

 机の上には料理が乗った皿がいくつかあった。気のせいか献立も普段より豪華に見える。

「今日って何か特別な日だったっけ?」
「暫く家を空けるから、留守番を頼む代わりに凝ってみたの」
「なるほどね」

 留守を頼む手間賃代わりだと真人は納得した。
 そう考えればゲームのやり取りも真人を一人にする雪湖の気遣いだったのかも知れない。
 自分のことをそこまで考えてくれている雪湖を見て、なんだかレポートの内容がどうでもよくなってきてしまっていた。こんなに気を遣ってくれる恋人がそんな危ないことをしているはずがない。
 真人はそう考えて食事に手を付ける。

「……うまいっ」
「そう、良かった」

 テーブルの対面に座って雪湖はグラスにお茶を淹れる。それを真人に渡してから顎に手をついてこちらに微笑んでいた。

「いつも美味しいけど。今日のは特別美味しいよ」
「そう。頑張った甲斐があったわ。ところで真人」
「ん?」
「今日――私の部屋に入った?」

 雪湖の言葉に真人の動きが止まる。

「ど、どうして?」
「なんとなく」

 微笑みを崩さない雪湖はずっとこちらを見つめていた。薄目から覗く瞳は蛇のような印象で、焦りで硬直している真人はさしずめ蛙のようだ。

「……入ってないよ」
「ほんとに?」
「本当に、それにほら。俺今日仕事だったし、そんな時間ないよ」
「そうね、仕事だったらね」

 雪湖はゆっくりと手を伸ばして真人のスマホを取る。

「今日の朝。貴方の会社から連絡があったのよ」

 フリック操作をしながら雪湖が言う。

「何事かと思って電話に出てみたら。貴方の様子がおかしいって。『全然休まない真人が一方的に休みの電話を入れて連絡を返さない。何かトラブルでもありましたか?』って。いい先輩ね」

 雪湖は真人にスマホを渡す。
 画面は先輩との通話履歴を表示していた。

「いや……それは……」
「ねぇ、真人」

「私の部屋。入った?」

「入って……ないよ」

 口に残った食べ物をゴクリと飲み込んで真人は言う。心臓は警鐘を鳴らすように動いて息をするのも一苦労だった。
 雪湖は暫く真人の顔を見つめていると、顔を少しだけ傾けた。

「それならいいんだけど。散らかってるから入らないでね」
「う、うん……あ、散らかってるなら俺が掃除でもしようか――」
「大丈夫。入らないでね」
「わ、わかった」

 有無を言わせぬ物言いに真人は頷く。
 これ以上会話を続けるととんでもない事が起きてしまいそうな空気感に、真人は黙って食事を取る。雪湖も同じように手をついたまま、真人の姿をじっと見つめていた。

 食器の音だけがリビングに響く重苦しい空気。
 そうしていると、雪湖が突然咳き込んだ。

「大丈夫?」
「うん……いっぱい笑ったからかな、少し調子がおかしくて。ケホッケホッ」

 真人は反射的に雪湖の額に手を当てた。

「熱っ! これ絶対熱あるだろ」
「大袈裟だって。ケホッ、ケホッ」
「また咳き込んでるじゃないか。少し待ってて」

 真人は立ち上がり、体温計を持ってきて雪湖に渡す。
 体温計はすぐに電子音を鳴らして取り出すと、表示された数字は38度を超えていた。

「大変じゃないかっ。すぐに横にならないと」
「大丈夫だって、明日までには良くなってるから」
「この温度は全然大丈夫じゃないだろ。確か薬箱に風邪薬と熱冷ましのシートがあったから」

 薬箱ごと持ってきて風邪薬を雪湖に渡すと、こちらをちらりと見てから雪湖は風邪薬を飲んだ。
 その様子を見てから真人は雪湖の額に熱冷ましのシートを張り付ける。

「ん、気持ちいい……」
「後は暖かくして、とりあえず休まないと」

 言いながら真人は雪湖の部屋を見た。
 プライベート空間だけでなく、二人は寝室も分けていた。彼女が寝るには自分の部屋に戻らないといけないが、さっき入らないでと言われた手前、連れていくことはできない。
 それに埃にまみれた部屋の中で雪湖を寝かせるのに抵抗があった。

「……今日は俺の部屋で寝ないか?」
「真人の部屋で?」

 聞き返す雪湖に真人は頷く。

「一緒にいる方が介抱もしやすいからさ。雪湖が掃除してくれてるから綺麗だし」
「…………確かに、一月も家を空けるのだから気持ちはわかるけど。体調を崩している時に誘うのは少しどうかと思うわよ」

 雪湖が何を言ってるのか理解できずに頭を捻る。少しだけ考えて真人は目を丸くした。

「ばかっ、そういう意味で言ったんじゃないって」
「ふふ。わかってる……じゃあ、そうしようかしら」

 雪湖の腕を肩に回して彼女を持ち上げる。
 彼女の身体は驚く程に熱くなっていて、そして軽かった。
 部屋に入って雪湖をベッドに寝かせると、雪湖は落ち着いたように表情を和らげてゆっくりと息を吐く。

「真人の匂いがする……」
「もしかして、臭いか?」
「うん。加齢臭がする」
「まじか……」
「うそ。いい匂い……」

 布団を鼻まで被って雪湖は目を閉じる。子供みたいな仕草に真人の表情はついつい緩んでしまっていた。
 どれだけ強く、美しく見えたとしても。根っこまで強い人間なんていない。雪湖も本心のところでは子供のところがあるのだ。
 そんな弱い部分をさらけ出してくれるぐらい、自分は信用されているのだと思うと真人は嬉しくなっていた。

「じゃあ、俺は床で寝るから。何かあったらすぐ呼んでくれ」
「え、駄目だよ。床冷たいよ」
「大丈夫だって。毛布もあるし」

 引き出しから毛布を取り出して見せる。敷布団もなくフローリングに毛布一枚という状況だったが、なんとか眠ることは出来そうだった。
 しかし毛布を見せると雪湖は口を布団で隠したまま「暖かそう」と漏らす。

「それ貸して」
「いやいや。これ貸したら俺の羽織るもの無くなっちゃうよ」
「一緒に入ればいいじゃない」
「一緒に、って」

 雪湖はかぶっていた布団をはがしてマットレスをぽんぽんと叩く。

「ほら、寒いから早く」
「いや、でも」

 ベッドはシングルサイズ。大人二人が横になると自然と体が密着してしまう。もう三年も一緒にいるのに、それだけの事で真人はドキマギとしていた。
 そんな事を知ってか知らずか。雪湖は何度もこちらへおいでと誘う。

「ケホッ、ケホッ」
「雪湖っ」
「このままだと体調悪化しちゃうかも、早く入ってきて……?」

 雪湖は子犬の鳴き声のような声を出す。これまた珍しい出来事に驚いた真人は引力に引っ張られるように雪湖に近づいて毛布を掛けた。その時だった。

「うわ」

 急に体が引っ張られて、真人はベッドに倒れこむ。腕を見ると雪湖にがっちりと掴まれていた。

「捕まえた~」
「凄い力だな。てか危ないだろう」
「だって、全然こっちに来ないんだもの」

 雪湖は真人の身体に腕を回して捕まえる。
抱き枕のように真人に身体を密着させた雪湖を潰さないように真人はベッドに入った。

「真人の身体つめた~い」
「雪湖の身体が熱いんだよ」

 雪湖の身体は熱した鉄板を思わせた。
 これほど熱を持っていれば、熱にやられた子供のように振舞うのも納得が出来る。
 この体調の悪さは、昨日今日なったものとは思えない。それほど自分を追い込んで、彼女は仕事に打ち込んでいたのだと思うと関心すると共に心配が込みあげてくる。

「なんだかこうしてると昔を思い出すわ」
「昔……?」
「うん。私たちが付き合った時のこと覚えてる?」

 雪湖と付き合ったのは初めて出会ってから一年を過ぎた頃。いつもの素っ気ない対応をしていた雪湖からのお誘いがきっかけだった。

『今日空いてる?』

 彼女の方から初めて来た連絡。これだけの素っ気ない内容だったが、真人は飛び跳ねて喜んだ。
すぐさま『もちろんっ!』と返信を返すと『話があるから合いたい』と言われてデートの約束をした。その日の夕方に合流して、ご飯を食べてから街並みを見ていた時、唐突に雪湖の方から告白してきたのだ。

「あの時は驚いたなぁ。絶対に脈がないと思ってたから」
「そう? 私は結構真人のことを気に入ってたわよ」
「本当に?」
「だって、どれだけ適当にあしらっても犬みたいについてくるもの。付き合いが長くなってくるほど情が芽生えちゃって、平静を保つのが大変だったんだから」
「犬……」

 なんだか複雑な感想だが、雪湖がこちらに好意を持っていたというのは意外だった。
 真人は雪湖の気持ちを差し置いて、半ば強引に交際を始めてしまったと思っていた。自分の気持ちを押し付け続けて、雪湖を締め付けていたのではないかと。
 しかし、そうではなかったのだと知って安心感が生まれる。

「雪湖」
「なーに?」
「これからも、ずっと。一緒にいような」

 真人は雪湖の頭に手を当ててそう言った。
 レポートの事が頭をよぎったが、そんなものは二人の仲に比べたら些細なものだと感じた。
 仮に彼女がそんなものに関わっていたとしても、変わらず雪湖を好きでいる自信がある。そう思ったからこそ、真人は二人きりの寝室で雪湖に愛を綴る。

「……」
「雪湖? 寝たのか」
「……起きてるよ。突然恥ずかしいことを言うから。びっくりしちゃっただけ」
「え、今のって恥ずかしかったか?」
「顔から火が出るほど」
「まじか……」

 体に回る雪湖の腕にぎゅっと力が入る。

「ずっと、一緒にいようね」
「……うん」

 小さく震える雪湖の声に、真人は雪湖の頭を撫でながら頷いた。
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