雪解けの前に

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雪解けの前に

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 刺さったままで鬼谷は針を移動させる。
 皮膚は切り裂かれて白い肌に血が滲み始める。とても痛々しい光景に燈は目を逸らしたくなった。
 だが、傷口が伸びていくのと同時に、最初につけた傷が恐ろしい速さで塞がっていく。安全ピンが手首まで到達するとやっと鬼谷はピンを引き抜く。それから数秒も経たずに引っかかれた傷痕は何事もなかったように完治していた。

「私の身体は傷や日焼けですら瞬時に治してしまう。内蔵も一緒。例え心臓が止まったとしても、少し時間があればまた動き始めると思う」
「……どう、なってるの……」
「わからない。どう、なってるんだろうね?」

 夢でも見せられているかのような光景に上手く言葉が出ない。聞き返す鬼谷に返事をすることも出来なかった。
 鬼谷は気にした様子を見せず。顔を上げて雪を眺める。

「理由はわからないけれど、原因はわかってる。薬のせい」
「薬って……病院の?」
「近いけど違うかな。昔孤児院にいた時に飲まされいた薬。それがこの体になった原因」
「孤児院……?」
「私ね、捨て子だったの」

 鬼谷が何気なく言った言葉に燈は驚いた。

「親もいなくて家もない。子供だから働く事も出来なくて、こうして寒い日はいつも室外機の風に当たって寒さを凌いでいた。外を出歩けば警察に話しかけられて怖くて逃げた。そうしている間に飢えで体が動かなくなってきて、いよいよ死ぬのかと思った。その時孤児院の人間に拾われたの」
「そんなことって……」
「ははは、びっくりしたでしょ。日本でそんなことがあるなんて。でも国なんて関係ない。あるところにはあるものよ」

 落ち着いて話す鬼谷に燈は呆気にとられていた。
 彼女の言う通り、この国でそんなことがあるなんて信じられなかったから。だけどの彼女の口ぶりはとても嘘をついているようには見えなかった。

「孤児院には私と同じような子が何人もいた。そこで出会った子から聞いた話だけど、私みたいな境遇の子を選んで集めていたらしいわ。ある目的の為にね」
「目的って」
「人体実験」
「……それは流石に嘘でしょう?」

 鬼谷はにこりと笑う。そしてピンで突き刺した腕を見せつけるように持ち上げた。

「……そんなこと、それこそ警察が黙っていないんじゃないの」
「それがえん、私がいる間は表沙汰になることはなかったの。詳しいことはわからないけれど、癒着とか賄賂とか、何かあったんじゃないかしら」
「まるでドラマみたいな話だね」

 燈が言うと鬼谷は可愛い声で笑う。

「それじゃあ私はヒロイン?」
「見た目は悪くないけど……」

 ……性格がね。

 余計な一言を心の中でとどめていると、鬼谷が話を続ける。

「まぁ、例に漏れずに私は実験体の一人だったって事。といっても何か酷い事をされる訳じゃない、暖かい家に三食のご飯。特別なのはそこに薬が含まれていただけ」
「それじゃあ、孤児院にいた子はみんなそんな体質に?」
「ううん……みんなもういない。多分死んでしまった」
「なぜ……その薬を飲んだら傷が治るようになるんじゃないの?」
「そうなったのは私だけだったの。他の子たちは薬の影響で体に不調が現れて、ゆっくりと死んでいった。私だけが死なずにこんな体になった。しかもこの体は私の意思に応じて状態を変える。病気を良くしたり、逆に悪くしたりね」
「悪く……」

 燈は処置室を通った際、医者たちが話していた内容を思い出す。
 あの時医者は、「また」という言葉を使っていた。自分がそうであるように腎臓なんてもの、コロコロ治ったり急変したりするものではない。だからずっとその言葉が引っ掛かっていた。

「もしかして、この間急変したのは……」
「そう。自分で腎臓を悪くした。燈君の苦しみを少しでもわかってあげたかったから。君からしたら凄く失礼なことだとわかっているけど、体験しないと心から心配できないと思ったの。ごめんなさい」

 鬼谷は申し訳なさそうに頭を下げる。だが燈は彼女を責める事はしなかった。「気にしてないよ」

 確かに自分が苦しんでいるものを、必要ないのに自分から経験するなんて馬鹿にしていると思う。だけども経験しているからこそわかる。この苦しみは相当なものだ。
 それを共有したいがために、自分も同じ状況になるなんて生半可な覚悟じゃできやしない。そう思ったから責める気が起きなかった。

「でも、それじゃあなんでこの病院に? そもそも孤児院はどうなったのさ」

 体が勝手に治ってしまうならこんな所、一番用事がないはずだ。
 暗い表情を作った鬼谷は言いずらそうに口を開く。

「逃げ出したの。まだ生きている友達たちを置いて」
「……どうして?」
「怖かったから」
「怖かったって、薬が?」

 鬼谷はかぶりを振る。

「孤児院に入って初めてまともに人と話した。友達になって一緒に思い出を共有した。ずっと一人だった私にとってあの場所はすべてだった。なのに、思い出を共有した友達が一人、また一人と死んでいく。苦しんで死んだ子。眠ったまま起きなかった子。暴れだして死んだ子。孤児院はどんどん広くなって、人の声が減っていく。それが怖くなって逃げ出してしまった。もうそこにいたくなかった。だから私は他の、仲間を、見捨てて……」

 泣きながら話す鬼谷は自身の両肩を掴んで爪を立てる。服ごと爪が食い込んで白いワンピースにじわりと血が滲んでいた。
 だがある程度滲んだ血はピタリと止まる。自傷すら彼女の身体はすぐに治してしまったのだろう。
 死なない体になった彼女は、親しい人間が消えていくことに耐えきれずに逃げ出した。それが心の傷になっている。彼女の身体も心に刻まれた古傷だけは癒すことが出来ていない。

 燈は鬼谷の肩に手を伸ばす。
 彼女の人生は壮絶で、ずっと病室にいた燈にはかける言葉が見つからない。だけど、彼女をそのまま放っておくことはできなかった。

「うっ……!」

 鬼谷に触れようとした途端、吐き気が込みあげてきて口を抑える。
 体に凍えるような寒さを感じて震えが止まらない。そのまま燈はベンチから転げ落ちた。

「燈君っ!」
「あ……がっ……」

 震えは止まることはなく痙攣へと変わる。腹部に石でも入っているかのような違和感を覚えて意識が薄くなってきた。

 さっきまで、調子が良かったのに……!

「急がないと……燈君。聞いて」

 呼吸を乱しながら、燈は鬼谷の方を見る。

「私が飲んでいた薬、実は燈君も飲んでいる。この病院の運営は孤児院の運営者と同じだから」
「な……んだ……って……」
「私がこの病院にずっといるのはそれが理由。ここでずっと体調を崩していれば、病院はずっと自覚なく匿ってくれる。孤児院側もまさか自分のグループに逃げ出した実験体がいるなんて思わないと思ったから」

 言いながら鬼谷は燈にストールをかける。

「でも安心して。ここで出されているのは研究の過程で生まれた栄養剤のようなもの。本来は体の中で薬が生き続けるのだけど、ここで飲んだ薬は母体に影響が出る前に死滅する。それだけ影響が弱い細胞だけど。私がブーストする」
「……あ……あ……」

 声を出そうとしても体が強張って声が出ない。

 苦しい。
 寒い。
 重たい。
 気持ち悪い。

 それでも必死に、燈は鬼谷に手を伸ばす。

「――ここに来たってことは、生きたいってこと、だよね」

 鬼谷の静かな声が、脳裏にしっかりと入り込んできた。

「……い……ぎ、た……」
「――うん。任せて」

 鬼谷の腕に抱きしめられて、霞む視界が徐々に光で満たされていく。
 太陽に似た光に燈はゆっくりと目を閉じた。
 暖かさを感じる光に包まれながら意識を失っていく燈は、鬼谷とベンチに並んで話した時の事を思い出していた。
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