雪解けの前に

FEEL

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雪解けの前に

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 寒い。
 体が凍ってしまったように冷たかった。

 目を開けると屋上にいて、振り続ける雪が身体を隠すように降り積もっていた。
 雪を払いのけて身体を起こす。どうして自分がこんなとこにいるのかと考えていると、不自然な雪の膨らみに見覚えのあるスカーフが埋もれているのが見えた。

「……!」

 ハッとして雪を払いのける。
 すると雪の中には苦しそうにしている鬼谷の姿があった。

「鬼谷さんっ!」
「…………あ、燈君。元気そう……だね」

 ゆっくりと目を開けた鬼谷はひどくやつれていて、目の下には黒く塗ったようなクマが広がっている。

「鬼谷さん……どうしてこんな……」
「ははは、ちょっと頑張り過ぎた、かな?」

 鬼谷の身体を引っ張りベンチに座らせる。
 彼女の身体は驚く程に軽かった。

「……全然良くならない。何でだ……」

 暫く様子を見ていたが、鬼谷の容態は変わらない。
 彼女の話通りならぐったりとした姿もすぐに良くなるはずだと思っていた。しかし一向に良くはならない。頬はさっきよりこけていて、どんどん老化しているみたいだった。

「……君の細胞を活性化するのに、私の細胞を分けた」
「細胞……を?」
「私は投与された細胞を自由に操作できる。だから命令したの。同じ細胞を持つ者を『治せ』って。そしたら、自分の分が、ほとんどなくなっちゃったみたい……はは……」

 乾いた声で鬼谷が笑う。笑った際に唇の皮が避けて破れた。
 美しかった黒髪も艶を失いうねりが出てきた。燈はその姿を見て、やっと理解できた。

 彼女は自分の細胞を、命を分け与えたのだ。
 しかも自分だけじゃなく、この病院全員に関わった全員に。

「なんでそんな、そんなやり方を……」
「燈君を助けるのに、そのやり方が一番確実だと、思っただけだよ……それに、君だけ助けても、意味がない」
「どうして……!」

 鬼谷はにこりと笑った。

「一人は、寂しいからね」
「……っ」
「燈君はこれから、長い人生を過ごしていく。私の細胞が入っているからね、長い、長い人生だ。いつかは一人になってしまう。そんなの、寂しいもの」
「だったら、鬼谷さんが一緒にいてくれたらいいじゃないか。これまでと同じように……!」

 鬼谷は笑ったまま、首を振る。

「私も考えた。考えに考えた。でも、無理だった。これ以上一緒に居続けて、燈君がいなくなるかもしれないって思うだけで、耐えられなかった。私は、君を助けるのを方便に、逃げたんだ……」
「そんな……無責任な……」
「ごめん、ね……」

 謝る鬼谷にはもう面影がなかった。
 顔はしわだらけになり、腕は骨のように細くなっている。

 彼女は薬の効果を細胞と言っていた。もしも言葉通りの意味ならば、細胞を分け与えた彼女の身体には中身がない。老化していく見た目がその事実を物語っている。
 渡された細胞を返そうにもそんな手立てなんて燈にわかるはずもない。何も出来ないまま、やせ細っていく鬼谷を燈は見つめていた。見事にしてやられた。

「鬼谷さんはひどい奴だよ。こうなるってわかっていたら、きっと僕は断っていた。それを承知で黙っていただろ」
「……付き合い、長いからねぇ……」

 そうだ。僕たちは付き合いが長い。
 彼女が自分の命を犠牲にして僕を救った事に満足しているのはわかっている。強引で我の強い彼女は、残される僕の気持ちなんか考えもせずに自分の気持ちを優先する人だ。

 そうやって悪戯してくる彼女に悪態をつくのがいつもの日常だった。
 僕の訝しげな表情を見て楽しそうに笑うのが彼女の常だった。
 僕がこうやって救われた事に不満を持っているのも承知の上だろう。

 だから彼女は、しわしわになって命が尽きようとしているのに、幸せそうに笑っている。
 自分を置いて一人だけ満足に旅立とうとしている彼女を僕は許せなかった。

「鬼谷さん」

 名前を呼ぶと彼女はこちらを見る。目がしっかりと合ったのを確認してから燈は満面の笑みを作った。

「助けてくれて、本当にありがとう」

 そう言うと鬼谷は目を丸くしていた。
 歯どころか歯茎まで見せる満面の笑みを顔がひきつりそうなほど続けていると、彼女が笑い声を漏らす。

「やられた……最後の最後にそんなに笑顔で感謝されちゃうなんてね。いつもみたいに不満げな表情で小言を言われるかと思っていたのに……」
「いつも悪戯されてた分。しっかり返しておこうかと思ってね」
「どうでも良さそうにしてたのに、ちゃんと根に持ってたんだ……でも、これは返すどころかお釣りが出るよ」

 鬼谷の瞳から涙が零れる。

「せっかく納得できていたのに……死にたくないって思っちゃったじゃない…………」

 悪態をつく鬼谷は口角をゆるりと上げていた。

「自業自得だよ。僕だってこんな重い物、いらなかった」

 言いながら、燈は鬼谷の手を掴み、繊細なガラス細工を触るようにゆっくりと抱きしめる。

「こんなものを渡して、返す機会すらくれないなんて……本当にひどい奴だよ」

 鬼谷からの返事はない。

 腕はだらりと脱力していて、身体は重力に従って燈に体重を預けてくる。
 彼女の身体を離さないように、燈はしっかりと鬼谷の身体を抱きしめ続ける。

 雪はいつの間にか止んでいて、空に星が見える。
 どこまでも続く星の海で、すべてを照らすように月が浮かんでいた。
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