雪解けの前に

FEEL

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 検査の日から数日経つ。
 姉はいつまで経っても帰ってこない。
 寮母に聞いてみると「検査の結果が良くなかったから入院している」と言われたが、私は納得していなかった。
 院に戻った私たちの検査結果はまだ知らされていない。
 それなのに病院に残った側だけすぐに結果がわかるなんてどうにも合点がいかない。

「……」

 夕食が終わって部屋に戻ると、私はベッドの上に座り込んで姉のベッドを見つめていた。
 姉がいない部屋は嘘みたいに広くて静かだ。

 静かなのは部屋だけではなく、孤児院全体でもだ。
 院の状況は検査をしても何も変わらず、辛うじて残っている数人も元気がなくなっている。
 そんな状況でも寮母の笑顔は崩れない。
 いつもと変わらずニコニコと笑う姿に不気味さすら感じる。
 そんな状況に他の子どもたちと同様、私の精神状況も限界に近かった。

 姉に会いたい。
 彼女の笑顔が見たい。
 馬鹿な事を話して笑い合いたい。

 姉がいなくなって、私は彼女にどれだけ助けられていたのか実感する。
 母親に捨てられてここに来るまで一人で生きてきた。
 だから何かあったとしても、一人で生き抜く自信はあった。

 だが無理だ。

 もう私は、誰かと一緒にいないと生きていくことができない。

 ベッドから立ち上がり窓を開ける。
 外は真っ暗だったが、下を見ると窓から洩れる灯りで微かに地面が見える。
 部屋から地面まではそこまで高くない。
 横を見ると手の届く位置に排水用のパイプもある。

 これなら――。

 排水パイプを掴んで揺らしてみると、金具がしっかりとしていてビクともしなかった。
 そのまま窓に乗り出して、パイプに飛び移る。
 壁に脚をつけてゆっくりと下に降りると、なんとか地面に辿り着くことができた。

「寒……」

 地面は冷たくて、足の裏から冷たさが昇ってくるようだ。
 玄関を開けて靴を回収すればいいのだが、音で気付かれるかもしれない。
 先に靴を取ってから実行するべきだったと後悔がよぎる。しかし院に戻らず私は門を開けて外に出た。

 院を離れると街灯が少なくて前が見えないくらいに暗かった。
 道を外れないように慎重に歩を進める。
 目的地は姉がいる病院だ。

 車で移動した道を思い出しながら歩く。
 進むたびに足がしびれていくようで、どんどん感覚がなくなっていく。
 それでも、必死になって身体を動かす。

 どうしても私は姉に会いたい。
 仲良くしてくれた感謝を伝えたい。
 その気持ちだけが私の身体を前に進めてくれた。

 どれくらい歩いたのだろうか。
 夜が深くなるほどに寒さは増していき、身体を丸めながら歩いていた。
 体は強張り奥歯が鳴る。
 足の感覚はとっくになくなっていた。

 電線の量が多くなり、高い建物が増えてくる。
 照明で視界も明るくなっていき、やっと見覚えのある風景がいくつか見え始めてきた。
 道路も整備されたものに変わって幾分楽になったが、寒さは相変わらずだった。
 限界を迎えると路地裏に入り込んで室外機に当たって暖をとった。

 懐かしさを感じる臭いに私は思わず口元を緩ませた。
 部屋を貰って、食事も与えられて、それなのに私は相も変わらず。こんなところで何をしているのだろうか。
 こうしているとまるで姉といた日々が夢だった気になってくる。
 本当はすべてが妄想で、実際は変わらず路地裏でゴミを漁った生活なのではと。

 いや、妄想じゃない。

 かぶりを振って雑念を吹き飛ばす。
 妄想に人の暖かさも、頭を撫でられた感触もあるものか。
 疲れて諦める理由を探しているだけだ。

 そう奮い立って路地裏を出た私は再び病院に進む。

 病院が見えたのはそれからずっと時間が経ってからだった。
 空は微かに白み始めて鳥が鳴き始めている。
 もう体の感覚は殆どなくなっていて、足を見てみると血が滲んでいた。
 それでもなんとか辿り着くことができた。
 嬉しさで涙が出てきそうなのをグッと堪えると病院の敷地に入る。

 病院は一階建てで高くはないがその分広かった。
 外周をぐるりと回って窓を覗く。するとほどなくして姉の姿が見えた。
 ここまでの道中と違ってあっさり見つかって喜ぶと同時に、不安がのしかかる。

 ベッドに寝た姉は呼吸器を取り付けて体にはいくつも管が繋がっていたからだ。
 想像と違う姿に驚いて、私は絶句してしまった。
 しかしそのまま黙っていてもラチが明かない。
 戸惑いながらも窓を何度かノックする。

「――――」

 すると姉はゆっくりと目を開いてこちらを見た。
 瞳の輝きは弱々しくて、見るからに生気がない。
 離れていたのはたった数日なのにここまで弱っているなんて。

 こちらを見ているのか見えていないのかわからない瞳を覗くと、彼女はゆっくりと口角を上げる。
 細くなった腕を震わせながら持ち上げると、窓の鍵を外してくれた。

「…………」

 ここまで苦労してやっと会えたのに、私は未だに言葉に詰まっていた。
 会いに来ればいつもみたいに悪態をつかれるものと思っていた。
『馬鹿だね』って笑いながら喜んでもらえるものだと思っていた。
 でも実際の彼女は呼吸器が邪魔でまともに会話することができない。
 管が邪魔をしてこちらに手を伸ばすことができない。

「――……ぁ」

 息と一緒に漏れだしたような声が聞こえた。
 姉はできる範囲でこちらに手を伸ばす。
 私はその姿になぜだか涙がこみあげてくる。
 私は同じように手を伸ばして彼女の手を取った。

 暖かい。

 氷のように冷えた私の手を取って、確かに姉はそう言った。
 瑞々しい皮膚は枯れ木のようにしわくちゃで、老人を思わせるものだった。
 ちょっと強く握ったらへし折れてしまいそうな細い指をしっかりと掴むと、頬に涙が伝う。

 もう姉とは、彼女とは一緒にいれないのだ。

 姉と過ごした孤児院での生活は帰ってこない。
 母親と同様に、彼女も私の元から離れてしまう。
 あまりに弱々しい姿に、そう思わざるを得なかった。

「あぅ……うっ、うぅ……」

 嗚咽が溢れる。
 姉に心配させまいと抑えようとしたけど止めることができなかった。
 早く止めようと思えばおもうほど、却って溢れ出してしまう。

 そうしていると、姉の手にほんのわずかだけ力が入った。
 涙で濡れた目蓋をこすって姉を見ると、笑っていた。
 寮母たちみたいな大人と違う優しい笑顔でこちらに微笑みこちらを見る。
 姉は繋いだ手を離して私にむかって手招きをする。
 言われるままに顔を近づけると、姉の手が私の頭に触れた。

「あっ……」

 頭に乗せた手は動くことはなかった。ただ優しく、頭の上にのせたままだ。
 それだけで溢れる涙は嘘みたいに止まってしまい、安心感が込みあげる。

 ああ――これだ。

 彼女はいつもこうやって、私を安心させてくれた。

 それなのに私は、一度も彼女に感謝を伝えていない。

 だから、言わないと。

 終わる前に、言わないと。

 引きつった顔を無理に引き上げて、私はこれ以上ない笑顔を作る。

「ありがとう――お姉ちゃん――」

 姉は目を細めて歯を見せる。
 頭の上に乗っていた腕がするりと落ちた。
 暫く笑顔を続けていた私の頬に。再び涙が伝い、落ちた。

 それから私は病院から離れた。
 孤児院に帰ることもせず、再び私は路地裏生活に戻った。

 得体の知れない施設に身を預け続ける気にはなれなかったし、恨みを留める事ができないと思ったからだ。

 私の姉はあいつらに殺された。
 あいつらは決して許しはしない。

 人があんなに短期間であそこまで豹変する訳がない。
 となれば、何かしらの方法で姉は殺されたのだ。
 それを暴き出して、大々的に発表してやる。
 それこそが、姉に報いる恩返しだと信じた。

 二度目の路上生活。
私の心の中は、憎悪の感情で埋め尽くされていた。

 復讐を誓ったその日から、私は夜な夜な病院に忍び込んだ。
 薬を飲ませていた寮母が連れてきた病院なら、何かしら孤児院と繋がりがあると思ったからだ。
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