蛇に祈りを捧げたら。

碧野葉菜

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ありし日の恋物語

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「あ、ああ……も、申し訳ございませぬ。お目汚しを……」

 女は一度向けた顔を背け、急ぎ涙を拭っていた。

「……いや。このような夜更けに、おなご一人では危なかろう」
「お、お気遣い感謝いたします。ですが、家はすぐ側ですので」

 神力を抑えているとはいえ、自身を前にしても特段変わった様子を見せない彼女に、狐雲は興味を持った。

「送ってやろう。そなたがよければであるが」
「……え……?」

 改めて女は狐雲を振り返った。
 髪も結わず、化粧もしていない。
 しかしその円な瞳と、控えめに添えられた鼻、やや捲れたようにふっくらとした椿色の唇は、狐雲の視線を捕らえて離さなかった。

「よ、よろしいのですか?」
「……そなたのようなおなごが夜道を歩くのはあまりに危うい」
「何かおっしゃっられましたか?」
「……こちらの話よ」

 凛とした立ち姿に、丁寧な言葉遣い。
 椿の花が模様された上等な着物は彼女によく似合っており、身分の高い者であろうことが窺えた。

 ――私は一体何を言っているのだ? 何を考えているのだ? なんなのだ。この、言い表すことのできぬ、初めての感情は…………。
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