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欠けたもの
しおりを挟む眩いスポットライトに照らされた舞台から重い体を引きずるように舞台裏に戻ってきた。
奏達を迎えた表情は三者三様だった。気遣わしげな表情を見せた青山と苦虫を潰したような顔の山田。そして赤く塗った唇を吊り上げた渡辺ウタの嘲笑を浮かべた顔。
青山は無言だったが譜を労るように力を失った肩をぽんぽんと叩くと、脇を通り過ぎた。出番を控えた青山は回転扉の前に立つ。
「散々だったわね」
渡辺ユメは赤いドレスを翻してツカツカとやってくると、譜の顔を覗き込んだ。自分以外の誰がミスをしたのが楽しくて仕方ないのだ。いたぶる相手を見つけて、舌を舐めずりしている蛇のようだった。
「やっぱり貴方に月原さんとのコンチェルトなんて荷が重たかったのよ。最悪、ソロならコケたって貴方が恥をかくだけで済むけど、コンチェルトでは共演者にも迷惑をかけるのだから。貴方から辞退すべきだったんじゃないの?」
「渡辺さん、何度も言うけどプログラムは事務所と相談の上で決めてる。君に他の奏者の選曲に口を挟む権利はないよ」
「でも山田さんっ、明日もこんな演奏をお客様に聴かせる気?」
譜は何を言い返すこともない。煩わしそうに視線を逸らすとユメの隣をすり抜けた。
そう、散々な演奏だった
「山田さん、ここの練習室使えますか」
山田は腕時計を確認して顔をしかめた。会場の練習室か使えるのは演奏時間中のみだ。青山と渡辺ウタの演奏中だけと言うことになる。
「無理を言って1時間です。日本ほど融通利きませんから、1時間後には荷物をまとめて、外に出ていないと」
「ウタを借りても?」
「ええ、もちろん」
山田は是非そうしてくれ、と項垂れている譜の肩を押し出した。
「え?、ちょっと待ってよ。この後、私のソロなのに……、聴いていかない気?」
不満げなユメの言葉を奏も山田も、揃って黙殺した。
「ウタ、急ごう」
「神崎さん、すみませんでした」
練習室のドアがしまった瞬間、耐え兼ねたように譜が口を開いた。その声は聞いていれば泣き言を漏らしそうで、奏は遮った。
「後で話そう。練習室を使える時間は限られてる」
時間が惜しかった。焦燥に突き動かれ、譜を急かした。
「もう一度、頭から弾けるか?」
「はい」
ピアノの前の椅子に腰を下ろしたウタは慌てて椅子の高さを調整する。痩せているので小柄に見えるが、ウタはスラリとして背も高い。
調整を終えたウタはすっと鍵盤に長く白い指を乗せた。ためも無く唐突に引き出す。その瞬間に、澄んだ音が溢れだした。切ないほどに優しい音が鳴る。近くに遠くに、美しく音が揺らめきながら。バルトークとは対照的な音だ。
深く、深く、静かにウタは潜っていく。とてつもない集中力で深く。
何世紀も前に作られた曲は、はるか昔に記された暗号と同じだ。すでに解読され尽くし、研究され尽くした物語だ。けれど譜は譜面の真実を探すように全霊で没頭していく。音に魔法が宿る。
譜が弾くピアノに奏がチェロの音を重ねた。その瞬間に魔法が途切れる。深い海の底に沈み込んでいたウタが忙しない海面に顔を出してしまった。
「続けて」
奏の声に譜は無言で頷く。
譜はもう一度集中しようとして、けれど出来ない。
奏は譜が理想とする音が出せていない。自分でも気がついている。音が濁っている。譜の理想にはもっと澄んだ音がいる。
客の受けを考えるからセーブする。自分の求めるものから遠ざかる。譜はもっと、もっと、澄んで暗い海の底にいる。雑念の届かないところに。
ふ、と音が聴こえた。
凄く、近くに。
海の底、陽光も月光も届かない場所で、譜と目が合った。そんな錯覚がした。そのまま、見失わないように。その存在感だけを頼りに、弓を引く。
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