海の底のピアニストは月夜の夢を見る

白槻

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神崎 譜(ウタ)

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 奏はコンサートの当日の正午にはホールに到着した。幸いなことにチェロのハードケースを抱えて徒歩で来れる距離だった。奏が暮らしているアパルトマンは同じ事務所に所属するピアニストが以前使用していたものだ。おかげで防音設備も整っているし、パリの街に点在するクラシックコンサートの会場からのアクセスもいい。

 コンサートの入賞者たちは前日の夜にパリに到着したそうだ。その夜はホテルに直行し、奏と同じように今日ようやくコンサート会場に到着したはずだ。

 奏たちは会場のロビーで初めて顔を合わせた。入賞者は全部で3名。奏たちは今回のマネージャーである山田によって引き合わされた。
 優勝者は他のコンクールでも入賞歴のある二十代中頃の女性で、渡辺ユメといった。まっすぐで艷やかな黒髪を肩まで伸ばしているのが印象的だった。奏に気がつくとにこやかに握手を求めてきた。熱心に挨拶をする彼女の手を奏はあっさりと外し、自分の共演者を探して辺りを見渡した。

 奏の共演者である神崎奏はまだ幼さを顔に残したスラリとした青年だった。色白で真っ黒な瞳と髪が映える。奏と目が合うとゆっくりと視線を伏せて頭を下げた。まだ10代なのに浮かれたところはなく、雰囲気のある青年だった。
 もう一人、3位で入賞した青年は都会的に洗練された笑顔に銀縁のメガネをかけていた、青山カイト。もう一人は渡辺ユメと共演することになる若いバイオリニストの女性だった。
 
 プログラムは優勝者である渡辺ユメがソロとバイオリンとのコンチェルトで2曲、譜のソロと奏とのコンチェルトで2曲、3位の青山カイトのソロが一曲、トリをユメが弾いて終わる。
 奏の出番は譜との共演、ただ一曲だけだ。曲は有名すぎるバッハのG線上のアリア。式典などでも良く使われるお馴染みの曲だ。名盤とされるCDもよく出回っている。皆が知りすぎるほどに知っている曲で技術的にはさほど難しくない。だからこそ、どう弾くかが重要になる。一体、彼はこの曲をどのように弾くつもりなのだろうか。

 どのコンサートでも同じ様なものだが、共演者とのリハーサル時間はあまり取れない。奏は早速、会場の練習室のを使い、譜との練習に取り掛かった。グランドピアノがドン、と場所をとる部屋に、奏のチェロが入り、部屋の中は窮屈この上無かったが、それでも不快ではなかったのは譜の物静かな雰囲気のせいかもしれない。
 譜はまだ19歳の若さなのに、落ち着いて寡黙だった。舞い上がった様子がない。むしろ、彼は沈み込んでいるかのように見えた。
 譜のピアノの音は硬質で、甘美と称される奏のチェロの音色を上手く引き立てた。これは思っていた以上にお互いを引き立てるのではないか。
 一年間、いや、それ以前から忘れかけていた、心が浮き立つ感覚を思い出していた。事務所の強い希望で渋々引き受けた仕事だが、案外にいい刺激になるかもしれない。そう思った。しかし、その夜、奏は自分の考えの浅はかさを痛感することになる。

  
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