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月原 奏
しおりを挟む奏は濃いめに淹れたコーヒーを口に含みつつ、事務所からのメールに送付されてきたオーディオファイルを開いた。音源は昨年末に日本で行われたピアノコンクールのセミファイナリスト、神崎詩の本選時のものだ。
聴こえてきた音に、奏はゆっくりと目を見開いた。バルトーク「ピアノ協奏曲 第三段」だ。
譜の弾くピアノは良く鳴っていた。特に強音ではしっかりとした音量を出しつつ、その音は少しもひび割れていない。指先まで神経が行き届き、鍵盤を叩きながらも包むようにして押さえている。力強く、けれど気品がある。音量があるからこそピアノとフォルテに差がつき音にメリハリと立体感が生まれる。曲の表現は驚くほどに深かった。難解なバルトークの音楽をよく勉強してある。
バルトークはバンガリー出身の作曲家でありピアニストであるが、彼の音楽には土着性がある。民衆の間に伝わる音楽を自分の耳で聴き楽譜に記し、採集して研究した民俗学者の側面も持つのだ。その独特のリズムとパッションは日本人にやすやすと理解できるものではない。
よく、弾けている……。コンクールの準優勝者だ。技術力や表現力があることも当然だが、それだけじゃない。古典的なハンガリー民謡のフレーズを、彼は理解して弾いている。なんとなく弾いている部分がない。緊張感が緩むことなく、最後まで弾き切った。
奏は手にしていたコーヒーカップをテーブルに置いた。気乗りしない仕事だったが、急に興味が湧いてきた。音源と共に送付されてきた譜に関する資料のホルダーを開きデスクトップに表示する。
演奏者はピアノコンクールでセミファイナリストとなった神崎譜。19歳で音大生になったばかり。コンクールは今回が初めての受賞だった。奏はプリントアウトした資料と手に取る。印刷したのは譜のコンクール時の採点結果だ。
ファイナルまで残った神崎譜だが、2次審査の結果は悲惨なものだ。10人いる審査員の評価は酷評と満点にキッパリと分かれ、ギリギリで通過している。1次審査で譜を気に入った審査員が、2次審査の通過を危ぶみ満点をつけてなんとが通過させた。そんな裏事情が奏の頭に浮かぶ。次の3次審査では1、2位のコンテスタントと差のない高得点を得て通過している。ファイナルも同様だ。1、2、3位にはほぼ点差がない。奏の元に送られてきた音源は譜がファイナルで弾いた一曲のみ。他に参考になる曲はなかった。譜が何故、二次審査でここまで苦戦したのか、ファイナルの音源だけでは分からなかった。どのような奏者なのか、奏はにわかに興味を惹かれた。
月原奏はチェリストだ。
18歳で音楽コンクールのチェロ部門で優勝し、海外の音楽大学に在籍しながら音楽活動を行うようになった。有難いことに奏との共演を望む指揮者やピアニストは多く、世界中を飛び回り演奏活動を行った。いつしか若手だった奏も、ベテラン奏者と呼ばれるようになっていた。チェロを弾いていなければ足を運ぶことはなかっただろう国々、辿り着けなかった景色を見た。イギリス・ドイツ・フランス、スイス……、イスラエル。目の覚めるような美しい風景を見た。心踊る旅をした。
だがいつからだろう、演奏旅行を重ねる生活に疲労感を募らせ、自分が擦り切れていくような感覚に陥った。チェロを演奏するほどにすり減っていく。このままでは自分が薄っぺらく摩耗してしまいそうな恐怖に駆られ、無理を言って昨年一年間の休養をとった。この一年間は特に何もしなかった。パリにあるアパルトマンで過ごした。
時間が経つのはあっという間だった。一年たってもなかなか音楽活動を再開しようとしない奏にしびれを切らした事務所が回してきた仕事が、今回のコンサートだった。日本国内で行われたピアノコンクール。その入賞者となった若きピアニスト達の褒賞コンサートがパリの小さなコンサートホールで行われる。奏はそこでコンクールの準優勝者とコンチェルトを行うことになった。
復帰第一弾の仕事としては多少は気楽か、断れる雰囲気でもなく渋々その仕事を引き受けたのだが。
褒賞コンサートは前期と後期に分かれていて、奏がコンチェルトを担当するのは二晩に渡って行われる前期のコンサートだ。ピアニストたちはさらに半年後にもう一度、同じコンサートホールで演奏することになる。後期のプログラムは前期の様子で決定するらしい。
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